20 さようなら………………敦さん
「うぅ……ん……っ」
ぼやける視界の焦点を合わせる。
蛍光灯、天井、それから……、
「おにいちゃん……っ!
よかった……っ!」
――妹の泣き顔。
どうやらここは自分の部屋のようだ。
あのあとどうにかして恋慕達が回収してくれたのだろう。
敦は身体を起こす。
あれだけ散々やられたのに、
不思議と痛みはない。
「体の怪我は魔術でどうにかなる。
だが無理に魔源を引っこ抜かれた。
……吐き気や目眩はないかい?」
アパルに言われ、敦は、
「今は特に」
と異常が無いことを伝えた。
そして左手の甲を見る。
V字の模様は綺麗に消えていた。
「おにいちゃん、ごめんね……っ!
私、おにいちゃんを護るって
言ったのに……っ!」
すでに相当泣きはらしたのであろう。
恋慕は嗚咽を漏らしていた。
「泣くなよ。
よわっちい僕がいけないんだ……」
まったく歯が立たなかった。
相手の実力を見抜く事も出来ず、
いや。
自分は逃げることすら
出来なかったのだ……。
「恋慕の言うとおりだった。
……何とかなるなんて、大きな思い違いをしていたんだ……」
これが現実だ。
何度もうまくいってしまったから
麻痺してしまっていた。
だれもヒーローになれないというのに。
「ごめん。
魔源、盗られちゃった。
……まずいよね?」
「ああ。やっかいなことになった」
アパルが真剣な面持ちで言った。
「エナジー体を手に入れたネイギーは、すぐにそれを利用して、上層界との行き来を遮断してきたんだ」
「どうなるんだ?」
「次元を往来する権利を丸々乗っ取られてしまったってことさ。
本部から援軍が来られなくなり、僕と恋慕は完全に孤立してしまったよ」
想像以上の大事になってきたようだ。
「取り返すんだろ?
そのエナジー体って奴を」
「ああ。
奴は魔術の研究のためなら何でも犠牲にする男だ。早く手を打たなくては、下層界はネイギーの実験室にされてしまう」
それを聞いて敦も決意した。
自分は負けた。
だが、もう逃げないと決めたんだ。
「僕も行く。
囮ぐらいにはなれるつもりだよ」
「おにいちゃん……」
「止めてもついてくよ。奴らを放置しておいたら、どのみち下層界まで危ないんだろ?」
すると恋慕はそれ以上言葉を続けず、
アパルに
「ふたりっきりにしてほしい」
と言った。
アパルは深く頷き、部屋を出て行く。
敦がどうしてアパルに出て行くよう言ったのか判らずにいると、
「あのね、お兄ちゃん。
話しておきたいことがあるの」
恋慕がそう切り出した。
「なんだよ、改まって」
てっきり説得されると踏んでいた敦は、思っていた雰囲気とは違うため少々戸惑った。
恋慕は一度口を開くと、一瞬ためらい息を飲み、そしてもう一度、まるで何かを決断したようにこう言った。
「……好きです」
「え」
なにかと思えばいつも口にしていることではないか。もっとも空気の重たさとしては普段の倍以上ではあるが。
「い、今言うことじゃないだろそれ」
戸惑いを払拭するようにそう言うが、
恋慕はかまわず続けた。
「はじめはね、
ちょっと興味を持っただけだった。
ラブラの呪縛を打ち破る下層人なんて、
どんなすごい人なんだろうって。
お兄ちゃんの妹になって、あなたは思ったより普通で……うぅん、それどころか全然違う方向に変な人で」
ふふっと、恋慕が可愛らしく微笑む。
胸の内から溢れる笑みを、無意識に零してしまった、そんな印象の微笑みだ。
これを遮ってはいけない。
敦はそう直感して、声を出せずにいた。
「『大好き』とか、冗談のつもりだった。
嘘じゃないけど、もっと軽くて、
簡単な言葉だった。
そう言ってからかうと面白かったから。
だけどね」
恋慕は思い出に浸るように、
ため息を交えて言葉を紡ぐ。
「いつのまにか、何かを信じている姿が羨ましくなったの。
アニメの話をしている時に、
すごく眩しくて。
誰かが鼻で笑ってしまうほど単純なメッセージを、正面から受け止めるあなたが、そこから得た信念を力に変えるあなたが……かっこよかった。
気がついたら、
……私は本当に、あなたに恋をしてた」
恋慕が敦の胸にすがりつく。
「忘れないで。
誰もが、あなた自身があなたを弱いと指さすかも知れないけど、あなたにはこんなに大きな力があるの。
立ちはだかる壁を、想いで貫く力が……」
突然胸に抱きつかれて、少し驚いた。
恋慕の艶のある髪が目の前でか細く
小刻みに揺れて――、
ちょっとまってくれ。
これはただの告白じゃないぞ。
敦はそこにきてようやく気付いた。
恋慕がなにをしようとしているのか。
なんの為に自分に想いを告げているのか。
なんで、なんでったって、
自分の胸で泣いているのか。
「『好き』です。
……それから、ありがとう」
「待て、恋慕、僕は、」
「さよなら………………敦さん」
恋慕の指先に紫電が走る。
敦さん、だって?
僕は恋慕のおにいちゃんじゃ
なかったのかよッ!?
僕だって、本気でお前のことを
…………ちくしょう――……。
赤々とした西日が差し込み、時計の針が時間を刻む音だけが響いている。
そんな室内で、
敦は一人、首を傾げていた。
どうしてベッドで寝ているのだろう?
「……うーん」
唸ってみても思い出せない。
どうも、なにか……大事な事があったような気がするのだが。
「あつしぃーっ!
ご飯よ、降りてらっしゃい!」
母親の召喚に応答して、
敦はベッドから降りた。
まあ悩んでもしょうがない、
深く考えるのは止そう……、
「――……?」
ふと、窓の外に人
の気配を感じて振り返る。
見えるのは、思わず目を覆うほど眩しい夕日と、物言わぬ住宅街だけだ。
人など居ない。
というか、居るはずがない。
気のせいだ――、
敦は部屋を出て、
階段を駆け下りていった。




