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雨の冠  作者: 桃宮
7.七番目の乙女
97/103

20 最後の夜

 優雅な音楽が、大広間の隅々まで広がり包み込む。


 祝福の舞に沸く表側からは全く見えない薄暗がりの舞台裏で、私は温かい大きな手に支えられ密かに踊っていた。

 出し物の舞踏曲だから、これまで練習で聞いた曲とは感じが違ったけれど、拍を取るのは難しくなかった。王様が低く旋律を口ずさんでいるからだ。しかもべらぼうに上手い。この人に苦手分野は無いんだろうか。

 自在に踊らされながら、歌声に聞き惚れる。軽やかで甘いメロディ。不思議なことに、歌詞は翻訳されなかった。意味は何となくわかる。

 今日の日を迎えた喜びと、大切な人の幸せを祈る歌だ。


「上手いじゃないか」


 褒められると、胸の奥にポッと明かりが灯る。

 いつの間にか、足は滑らかに動くようになっていた。どきどきと心地良い高揚感で、凍えていた体もほぐれている。夢中で若葉色の目を見つめ、曲が終わる頃には何も怖くなくなっていた。


「では、参ろうか」

「はい」


 手を引かれ、ゆっくりと明るい方へ歩き出す。

 階段の上に私達の姿が見えると高らかにファンファーレが鳴り、音楽も新しくなって、会場からは感嘆と拍手が湧き上がる。

 沢山の人がいる――何故だろう、不思議と緊張しない。王様の魔法に掛かってしまったようだ。全てが美しく輝き、何もかもが私を歓迎してくれているように見える。


 ゆっくりと階段の下まで下りると、昼間と同じく一番目立つフロアの真ん中にクラインが立っていた。まずは彼と踊ると決めてあった。そうすれば、何かあっても最低一回だけで私が引っ込めるからだ。

 王様のエスコートでその前まで歩くと、クラインはお辞儀をし、王様から引き継いで私の手を取った。そして祝い客達に感謝を述べ、続けて告げる。


「稀有なことに、今宵は更に麗しい客人が駆けつけてくださった」


 紹介を受けて周囲を見回すと、わっと人垣が沸く。恐ろしさは感じない。少し離れた場所に立つ王様と目が合うと、「ほら見ろ」とばかりにニヤリとされた。

 挨拶が終わると、自然な流れで踊りへのいざないがなされる。クラインの動作を読み取って、楚々とした音楽が一転、喜びと憧れに満ちたワルツに変わる。

 可憐な三拍子の波にさらわれるようにして、ダンスパーティーは突然始まった。


 俄に動き出した周囲の状況が気になるが、窺う余裕はない。実は、クラインと踊るのはぶっつけ本番である。

 うわ、やっぱちょっと緊張してきた。


「あ、足踏んだらごめんなさい」

「構わない」

「下手すると転ぶかも……」

「大丈夫だ。ここには雪も鳥もないし、私が支える。もし転んだとしても、共に転ぶから安心していい」

「どんな理論ですか」


 私がずっこけたら、この人は一緒に床に倒れてくれるそうだ。少しの間音楽を聞き、また立ち上がって踊ればいいと言った。


「何回転ぶかわかりませんよ」

「では、何度でも手を差し出そう。私達は友人だろう?」


 メロエナードの倍は綺麗な声で訊かれ、笑いながら「はい」と答えると、琥珀色と若草色が複雑に交じる目が微笑む。

 左瞼の上の薄い赤色の痣を見上げ、私はクラインの心遣いに気が付いた。いつもは人目を憚るように隠している。今夜は敢えて、前髪を上げてくれたのだ。不調をきたせば一目で分かるように。


 絢爛豪華なシャンデリアや、金銀の管楽器、来場客達が身につけた沢山の宝石が輝き、無数の光の欠片となって彼の背でキラキラ輝いている。

 クラインは、間違いなく今日の主役だった。全てが、彼の為の装飾品だ。

 そう理解すると、心配は杞憂となった。大体、寝込んでても絵になる王子様だし、付属品の私が横でちょろっと何かやらかした所で微々たる影響だろう。クラインが微笑めば多分、あらゆる出来事が予定調和になる。


「ありがとう、クライン。それから、お誕生日おめでとう。素敵な一年になりますように」

「ありがとう」


 クラインは華のように笑った。

 手を取りくるくる回っていると、明るい海の中を揺られているような気分だ。周りでは、年配のご夫婦から年若いカップルまで様々な人が踊っている。たまに混じる輪を掛けて華やかな顔立ちは多分、昼間も見た王様達の親戚だ。

 ふと見ると、王様も向こうで踊っていた。相手はなんとサニアだ。綺麗な空色のドレスが似合っている。……ということは、私を除外してこの国の未婚女性の中で最も身分が高いのはサニアということだ。なんかすごい。

 もう一人、リコが居れば――彼女は喪中ということで不参加だった。もし参加していれば、王様と踊ったのはリコだったかもしれない。


「ミウ」


 手に、僅かに力が込められる。


「今だけは、私を見ていてくれないか」


 囁くような声で視線を戻すと、美しい宝石のような目と目が合う。彼の白い額に影がかかると、痣は少しだけ赤く見えた。私も、自分の浅はかさに赤くなった。集中しないと。ここまでしてくれた人に、恥をかかせる訳にはいかない。


 幸い目立ったミスもなく、私は無事一曲踊り終えようとしていた。あっという間だった。

 この後はどうするか尋ねられる。もしまだ残りたければあと何曲か踊ってもいいし、早く引っ込みたいならこれで帰ってもいい。会場の空気は温かい。全員が、祝福を受けるクラインと私の挙動を見守っている。

 もう一曲があるなら、私は多分王様と踊ることになるだろう。

 どうしようか。

 曲が終わり返事をしようと口を開いた時、広間にざわめきが広がった。階段側にいる私達から反対の、大扉の方からだ。興奮や色めき立つ雰囲気ではなく、どこか物々しい、驚きを帯びたヒソヒソしたもの。

 何かあったのかな?

 ふと振り返り、私は息を呑む。

 ざわめきの理由がそこにあった。


 黒い衣服。


 見間違いではない。

 人波が割れた向こうから、黒を纏った人物が現れる。


 “泉の乙女わたし”に遠慮して誰も着ないその色を身に付けられるという事は、その人物も生まれつき同色を持っているという事だ。

 堂々たる足取りで私の前へやってきて、立ち止まると、その人は驚く様も歯牙に掛けず優雅に腰を折った。


「“泉の乙女フィニアヴェラ”」


 漆黒の髪。

 澄んだ湖のような青い瞳。

 凛と通る声。


「私と、踊って頂けますか」


 手を差し伸べたのは、ここに来ないはずのアルス王子だった。





「アルス」


 制止の声を掛けたのは王様だったのか、クラインだったのか。私は咄嗟に、手の平でそれを止めていた。


 どうしてアルス王子が――。

 癖のある黒髪を後ろへ撫でつけ、普段は煩わしいとばかりに着崩す襟元も、きちんと白いレース飾りで閉じている。留める宝石は瞳と同じ、目の覚めるようなブルー。睡蓮を模った印が刻まれた金ボタン。主役であるクラインよりは控えめだが、かっちりとした正礼装だ。私が見た分には、この場に居ておかしな箇所はどこにもない。


 差し出された手を見る。

 彼が何故ここに来たか。

 ――本当に、捨て身もいいところだ。賭けをしに、わざわざここへ出て来たのだ。

 私は絶対に、公のこの場所で、この人を拒絶する訳にはいかない。


「喜んで」


 真っ直ぐな青い目を挑むように見返し、私はその手に手を重ねた。






 帝王学は元より、一般王族並の教養もあまり真面目に受けて来なかった。哀れみから義務と期待を免れてきた彼は、王族としてはじゃじゃ馬だ。


 そう聞いていたが、アルス王子は踊りが上手かった。

 クラインほど優しくない。王様のような包容力もない。

 でも身の内に確かな音楽を持っていて、相手を巻き込む大胆さがある。単純なステップを踏んでいるはずなのに、不意の緩急に翻弄される。振り回されてヒヤッとする一瞬もあるのに、決して軌道を外れない。

 不思議な気分だった。こちらまで踊りが上手くなったような気がした。純粋に、ダンスを楽しむ為にもっと、ずっと踊っていたいと思わせる相手だった。

 手綱を握る、彼の才能だ。


「何も聞かないのか」


 しばらく無言で見つめ合って、ポツリと言われる。


「……あなたこそ」


 酷いことを言った。帰れと言われた。私からなら会えたのに、会おうとしなかった。


「謹慎は、どうなったんですか」

「破ったのは初めてじゃない」

「怒られますよ」

「罰なんて、どうでもいい」


 周囲で踊る男女達から、ターンのたびに忍び見る視線を感じる。気になるが、気を取られてはいけない。青い目は瞬きながら、じっと私を離さない。

 どうでもいい、だなんて。

 次は「無きに等しい処罰」で済ましてもらえるんだろうか?


「悪かった。……この前、部屋で言ったこと」


 アルス王子は、大人びた顔をしていた。


「あんなこと言うつもりで行ったんじゃなかった。取り消す。そもそも俺が妬もうが羨もうが、お前に一切謂れは無い。俺の過去を負わされる責も無い。なのに、当たって悪かった」


 謝るのは私の方だ。何もかも、その場凌ぎの誠実さに欠ける言動だった。

 アルス王子はあの一件の後も、私が帰ると言った事を触れ回ったりしなかった。無理矢理会いに来ることもなかった。

 ただこの場、この夜にだけ現れ、大勢の前で私の手を求めた。


「なぜ」


 ここに来たの。

 尋ねたが、答えは分かっている。この場しか無かったのだ。そして証明だ。一目見る為だけに、ここまでする覚悟があると。


 黒い睫毛のかかる眼は私を見つめ、そうしている時間が長いほど輝きを増す。

 音楽は終焉に差し掛かっていた。

 周りが踊り続ける中、ふと、ゆるやかに私達だけ動きを終えていた。きらきら光る蝋燭の火。最後の回転でドレスの裾が宝石を瞬かせながらふんわりと舞って、中のレースを一瞬覗かせ、それが再び落ち着くと同時に私の思考も止まる。


 唇を塞がれていた。


「好きだ」


 啄むように口付け、ゆっくり離される。

 吐息の掛かる距離で、青い目が鋭く甘く、そして苦しげに見つめる。


「帰るなよ。どこにも行かないでくれ」


 私は、不意打ちにただ目を瞠った。

 ――その時、広間の窓の外で異変が起こった。




 風もないのに、蝋燭の火がジュッと小さな音を立てて消える。

 半分ほど火が消えたシャンデリアの明かりを超えて、窓の向こうに何か見える。

 そちらを仰いだ途端、私の胸の中で何かが大きく脈打った。


 夜空に、異様な虹色の光が溢れていた。

 オーロラのように雲を染め、窓の厚いガラスをくぐって広間の中へ差し込む。ただ見れば、神秘的で美しい光景かもしれない。しかし今は異常すぎて胸騒ぎがする。そして私は、その七色の光に覚えがあると思った。

 水差しだ。

 こちらの水晶器。

 そして、塔の天辺の水晶壁の祈り場。


 踊りは止まり音楽も止まって、誰もが唖然と窓を見ていた。


 誰かが「月だ」と言った。

 本当だった。ほぼ満月に近い丸い銀色の月の中に、もう一つ何かある。

 この国の、掴みどころのない、二つ目の月。

 “乙女”が作ったと言われる小さな月が、大きな月の手前に重なるように浮かんでいた。

 “二の月”を通過した月光が、虹色に分解されて乱反射している。水晶杯よりずっと濃い色の虹を。


 ――帰らなければ。


 ざわめく会場で、私は七色の光に魅入られ思った。

 胸に迫る想いが、たちまち全身を支配する。何にも代えがたい、本能と言っても良い程の意識を持って。

 掴む手をすり抜ける。

 見開かれる青い瞳。

 ドレスのスカートを持ち上げ、階段へ駆け出す。沢山の人が吸い寄せられるように窓際へ移動し、黒服が埋もれていく。

 いち早く私の異変に気付いた王様が、人を避けこちらへやってきた。


「どうした」

「水読さんに」


 何故か、口からは水読の名が出た。王様は頷くと、同様に駆けつけたもう一人を振り返る。


「一旦抜ける」

「お任せを」


 どよめく広間をクラインに託し、王様は私を誘導して階段を戻った。

 騒ぎから急速に離れ、廊下は人気がなかった。数名いた番兵は私達を見留めると姿勢を正したが、空に広がる謎の光に浮足立っている。


「ミウ。お前、今何が起こっているか分かるか?」

「いえ――」


 私も上の空で走っていた。

 足は塔へ向かっている。酷く、焦っている。

 とにかく、水読に会わなければ。

 城と塔を繋ぐ一階の廊下を抜けた所で、その相手と鉢合わせた。


「水読さん!」

「ミウさん、水核が動いています!」


 息を弾ませた水読は、合流するとさっと周囲を窺い、声を潜めて言った。


「“二の月”が起きました。一体何があったのですか」

「分からん。この光は災いか?」

「いいえ。恐らく地上には影響しません。それよりレオ、直ちに彼女を地下の泉へ」

「えっ?」

「今すぐ故郷へお帰しします」


 唐突な話に面食らうが、その顔も声も冗談ではなさそうだ。


「明日じゃないと駄目なんじゃ……」

「理想は欠きますがやむを得ません、一刻を争います。引力が――この世界の持つ貴女をこちらに留めようとする力が増しています。虹色の光は、“二の月”が目覚めた兆しです。“二の月”が完全に目覚めれば、送還は難しくなるでしょう。ただでさえ水読の力量は百年前の半減です。かつて出来た事が今も出来るとは限らない」

「え…………」


 “悲恋”がやらなかった事をしてしまった私は、帰れるんだろうか。


「着いたらどうする」

「ミウさん。来た時と同じようにしてください」


 水読が私に言い、王様はそれを聞くと、ぼうっとしている私の腕を掴み踵を返した。神秘的な水色の目が、念を押すように見つめる。


「頼みましたよ、レオ」

「確と」


 短いやり取りを最後に、私達は二手に別れた。

 水読は塔の上へ。

 私は王様に手を引かれ、地下の祭壇へ。





「緊急だ、通せ!」


 地下への入り口には、塔の見張り兵が立っていた。夜会に出席しているはずの国王と“泉の乙女”が走ってきて、ぎょっとしている。


「はっ――し、しかし陛下」

「水読の指示だ。お前、名は何と言う」


 見張りはしどろもどろ答えた。


「覚えておこう。戻るまで誰も通すな」

「はっ……!」


 壁から外したランタンを受け取り、王様は私を引っ張って地下階段へ駆け込んだ。


「足元は見えるか? 辛ければ言え」

「はい」


 明かりを持った王様が先に、ドレスのスカートを掻き上げ抱えた私がその後に続き、冷たい石の階段を駆け下りる。

 中までは月光も届かない。ランタンが放つ金色の光が王様の髪や肩を浮かび上がらせるのを見ながら、私は走った。地下深く続く通路に明かり取りの窓など無く、彼を見失えばたちまち闇の中だ。

 暗い洞穴で、先を行く王様は光そのものだった。光輝きながら、道を生み出して私を導く。


 ――好きだ。


 不意に、アルス王子の声が蘇る。

 反響する二人の足音。


 好きだ。


 好きだ。

 好きだ。

 好きだ……。


 ドレスが重い。それでも必死に追いかける。

 ――最初の夜以来だ。この階段を、この人と一緒に下りたのは。枯れた泉の前で倒れた私を、力強い腕が受け止めてくれた。思えばあの時からずっと、私はこの人に支配されていた。


 逆行する時間の中を、走り抜けていくような気分だった。

 石の通路が終われば私の旅も終わり、全てが最初に戻る。

 脳裏に、次々と景色が浮かんでくる。

 部屋の、ソファが好きだった。

 きらびやかな城の客室。

 沢山の水路、噴水。

 植物で溢れた庭には花や朽葉の香りの風が吹き、揃いの礼拝服を身につけた神官達が静々と回廊を渡っていく。

 下げランプの連なる夕方の庭。

 優美で冷たい鉄枠の窓の向こうに見た、絵本の中の様な雪の情景。

 高い空、白い山脈、白い雲、白い鳥の群れ。

 そして星。

 降り注ぐような、満天の星。


 私は確かにこの数ヶ月この場所にいて、呼吸をして、この世界の一員として暮らしていた。

 みんなお別れだ。


 ――リコやサニアに、お礼もさよならも言えなかった。

 本当に良くしてくれたのに。


 クラインはきっと、私が残したものを上手く活かしてくれるだろう。私の気持ちを誰より一番分かってくれた。彼なら、私の意志を正確に汲み取ってくれる。


 アルス王子――見つめる青い瞳。

 淋しいと泣き叫ぶ声が聞こえていた。

 身を守るため、それを押し殺す姿が見えていた。

 私はまた彼の手を振り払い、目の前から逃げ出して、今度こそ置き去りにする。


 本当なら、愛は報われるんだと、あの傷付いた心に刻みたかった。

 だけど私は嘘をつけなくて、誇り高い彼は真実しか許せない。

 私じゃ駄目だった。

 心の在り処を問われればきっと、私の目の中には、別のひとが浮かんでしまうから。


「お前、泣いているのか?」


 階段を下り切り、その人が振り返る。

 その向こう、炎の明かりを反射し、泉は水を湛えていた。




 岩の窪みには、確かに透きとおる水が湧き出していた。明かりを翳すと、水底で透明な宝石質の岩盤が光る。水の核と呼ばれる最高硬度の不思議な地層。


「どうだ?」


 屈んで指先で水面に触れると、水は幽かに青白い光を帯びた。


 帰れる。


 直感し、振り返って頷く。

 私は立ち上がると、急いで耳飾りを外した。エメラルド色の、大きな一対の宝石。それから銀のティアラ。それらを王様の手に押し付ける。

 次はブローチ。金具に指を掛けるが、中々外れない。


「何をしている」

「この衣装は持って帰れません」


 今私が着ているのがおかしいレベルの、国宝級の装飾だ。置いていくに限る。


「衣服を着ていては帰れぬのか?」

「いえ……」


 そんなことはないと思う。勘だけど。

 ブローチに苦戦しながら首を振ると、顎を取られ上を向かされた。奥深い緑色の瞳が、いつかのようにランタンを映し煌めく。


「こちらの物を身につけていても、帰れるのか?」

「……多分」


 何故か問い直され答えると、指が離された。


「では着ていけ。お前のものだ」

「こんなの貰えません。こちらに置いていった方が、色々都合がいいかと」


 身に着けていたものを抜け殻のように残し、“泉の乙女”は忽然と消えるのだ。実在したという証拠品は、沢山使い道がある。でも下着くらいは貰っていこうかな。向こうならパジャマ並には見えるだろう。


「というかすみません、脱ぐの手伝ってください」

「お前、実は馬鹿だろう」


 至って真面目に頼んだのに、王様は大笑いした。


「この期に及んで、気にする場所がずれている。俺は、宝石の為に女の身ぐるみを剥ぐ趣味は無いぞ」

「いや、でも……」

「お前がここへ残り俺の妻になると言うなら、手伝ってやる。帰るなら着ていけ。折角似合っているんだ」


 なんだか、やたらに胸が痛んだ。

 私が、この人の隣に並ぶこと。とても――。

 耳飾りとティアラを差し出され首を横に振ると、王様は笑って岩肌の地面にそれを置いた。そしておもむろに自分の襟元に手を入れ、金の鎖を引っ張り出した。

 火の色にきらめく、十二角の黄金の太陽。

 鎖をくぐり首飾りを外すと、私の首に掛ける。


「これ……」

「餞別だ。預けるのではないぞ。お前にやる」


 ――王冠の代わりに身につけるもの。


「だ、駄目です、これ大事な……それに、だって開かなく」


 象徴より何より、真っ先にあの仕掛け時計が浮かんだ。

 鍵になるように作られた、戴冠祝いの贈り物。

 夢にも鮮やかな七色の花々と蝶に、金色の草木、星を従える銀色の妖精。


「俺らしからぬ、可憐な趣味だったろう。あれは、細工師から后へと贈られたものだ」

「…………?」


 后?

 誰の。王様の?


「あれを見た女は、お前が最初で最後だ。そうさ、二度と開かぬだろうな。それでいいんだ」


 そう言って、王様は私の肩に触れると、優しく押しやるように泉へ促す。

 眼差しは威厳と慈しみに満ち、微笑みは息が止まるほど眩い。今まで目にした綺麗なもの全てを忘れてしまいそうだ。今まで出会った全ての人をも。


「『天よ、この者の行路を、先の先まで照らし給う』」


 流れるような、古い響きで紡がれる祝福が私に降り注ぐ。


「神聖なる“泉の乙女”よ。我が国を救い賜った事、地上に住まう全てに代わり心より感謝申し上げる。――さらばだ、『美しき雨ミウ』。お前の幸福を願おう。過ぎし日々を忘れぬぞ」


 別れの挨拶を聞きながら、私は後ろ向きに水面へ片足を浸した。

 涙が零れ、宝石のちりばめられたスカートに当って跳ねて、泉の中へ落ちる。波紋が広がるように、真っ青な光が溢れだした。薄暗い洞窟を海の底のように染め上げ、ランタンの金の炎と交じり合って、私と王様を包み込む。

 胸が詰まるような、激しい感情が込み上げてきた。

 私の前に立つその人を見つめると。


「好きです」


 自然と口から漏れていた。


 神様。

 これから私が受け取る幸せを、全部この人にあげてもいい。

 私に好きだと言ってくれた人の想いが、今やっと理解できたかもしれない。

 握った熱い手が、こんなにも離しがたいなんて。

 もう二度と会えないとわかった時、こんな気持ちなんだって。


「レオ」


 金色の首飾りが胸で揺れて小さな音を立てる。


 ありがとう。

 さようなら。


 応えるように握り返された指が離れ、私は青く輝く水の中に落ちていった。







 薄青く、仄明るい水の中。

 果てしない膨大な地下水。


 波打つ水面はあっという間に遠ざかり、小さな点になった。

 目を凝らして見送る。

 瞳から溢れ続けていた雫が、真珠のような粒となって上へ浮かんでいく。

 仰向けにどこまでも沈んでいくと、ふと人の気配がした。


 本当は淡い水色で、ここでは銀色に見える真っ直ぐな長い髪。

 波に揺れる白い装束の袖と裾。

 銀糸の刺繍の飾り帯。


「美雨さん」


 さっきぶりの再会だ。水読は、夢の中の幻のように水中に浮かんでいた。

 まさかここで会えたとは。

 驚く私に薄く微笑み、水読はこちらへ手を伸ばした。

 爪の先で水中を引っ掻くような仕草をすると、私の胸の辺りから何か白いものが剥がれ落ちた。

 花弁のような、鱗のような小さく薄い何か。

 見ようとした途端に淡い光が弾け、白い破片は消えて、代わりに水中にもう一人別の人の姿が現れた。


 輝く黒髪は足首に届くほど長く、水の中にゆらゆらと舞う。

 たなびく白い衣装。

 顔を覆う細い指、俯く細いうなじ。


『ごめんなさい、水読』


 涙声の謝罪は、やけに記憶に馴染む。


「もう会えないかと思いました」

『ごめんなさい』


 泣きながら謝り続けるその人の体は、半分向こうが透けていた。

 それは、その人は――


「貴女が無事でよかった」

『ごめんなさい』


 会話が成り立っていないのに、構わず話しかける水読の姿も薄っすら透けている。

 無数の銀の泡が昇ってゆく。

 ゆっくりと落ちていきながら、私は目を見開き「二人」を見つめた。


 この光景を、何度も見たことがある。


 骨ばった白い手が、嘆く少女の肩に愛おしげに、壊れ物であるかのようにそっと触れる。水読はうっとりと言った。


「ずっと、僕は気が多く移ろい易いと思っていたでしょう。そんなことはないんですよ。寧ろ……寧ろ、そうであればよかった。それならもっと楽だった。……本当は、とても一途なんです。どうしようもなく。狂おしく、愚かしいほどに」


 遠のいていくのに、その声ははっきりと近くに聞こえる。

 光る泡の粒に包まれて、表情は見えない。


「この心を捧げるのはただ一人――先代の“泉の乙女”、サワ姫のみ」


 “悲恋”。


「さようなら、美雨さん」


 そうか。

 今まで見た嘆く夢は、慰められる夢は、私ではなく。


「一緒にいられて、楽しかったですよ。忘れてくださいね。僕のことは、全部」


 吸い寄せられるように、深い深い水の底へ沈んでいく。

 最後に遠く、その声を聞いた。


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