17 対岸の火(2)
覆水盆に返らず、言葉は取り返せない。
見開いた目からとめどなく溢れる涙が、俯いた頬を伝って床へ落ちていく。思考は絨毯で雫が呆気なく弾けるように、形になる前に消えていく。
「……なんでそんなに泣くんだよ。俺に殺されかけた時だって、泣かなかった癖に」
頭上からポツリと声が掛かった。
「喜べよ。帰れるんだろ」
そうだ。
帰れて嬉しい。
ずっと帰りたかったし、帰るつもりだったし、無理だなんて信じなかった。
帰ることが目標で、私の願いで、幸せだった。こんな、苦しくて辛くて悲しい気持ちを味わうとは思っていなかった。
ただ、後から思い出して少し寂しいだけだと思っていた。
安堵の中で少し、甘苦く思い返すものになるだけだと。
「いいよな、お前は。帰る場所があって」
ズキンと胸が痛む。
「たまたまだ、って言ったよな、俺のこと。俺と出会ったこと――お前はたまたま、望んでもいないのにいきなりここへ引っ張りこまれた。なんの関わりもなかったこの国を救って、消える。まるで女神そのものだ。お前の願ったことは全部叶う。無理で無謀だと思ったことすら、お前は叶えた」
信じればきっと良くなる。
努力をすれば、きっと状況を変えられる。
どんな酷い目にあっても、今度こそ駄目だと絶望しても、必ず翌朝には光が差し私は心を奮い立たせることが出来た。これまで生きてきた中で、そういう力が身に備わっていた。絶望に打ち勝つ希望が、私の中に蓄えられていた。
「だからお前は俺にも、今回はたまたまで、いつかそのうち、って言うんだろ。俺の望んだ事が叶うのは今じゃない、自分はどうしてやる事も出来ないけど、『いつかは』叶うって。……誰も彼も同じ事しか言わなかった。今は悪くても、『いつかは』良くなる。――『いつか』ってなんだよ。いつか、何もかも上手くいくのか? いつか、“呪い”が消えるのか? 俺が“不吉”でも“落ちこぼれ”でもなくなる日が来るのか? ……俺の目を見て、その通りだと言えた奴が居たと思うか? どんなに善人ぶっても、どんなに馬鹿を装った奴でも、ちゃんと分かってんだ。そんな日は来ないって」
罵りか、さもなくば哀れみか。
彼の特別な「目」は、いつも彼の希望を奪ってきた。絶望を裏付ける働きばかりしてきた。そういう事なんだろうか?
「俺がお前に出会ったことがたまたまで、特別じゃない……じゃ、ないだろ。お前にとって、俺に会った事が特別じゃないんだ。勝手に俺の気持ちをすり替えるなよ。分かりもしない癖に」
顔を上げたけれど、アルス王子は既に私の目を見ていなかった。少し俯いて、何もない所を見ている。
そして、フッとすさんだ笑い方をした。
「分かりもしない……当たり前だったな。俺とお前じゃ違い過ぎる。なんで似てると思ったんだろうな」
「…………」
「危なっかしいほど他人を疑わない、怒鳴られたら怯え、謝られたら許す。俺とは真逆だ。でも、相手を疑わないのは、その必要がない場所で育ったからだ。怒鳴られて戸惑うのは、そうされた事がないから。自分を害した相手すら許せるのは、お前にとって許されるのは特別な事じゃないから。そうだろ。――俺は、どうすればそうなれた? 一体、どこからやり直せばいい? 俺だって、お前みたいに育ったらそうなれたかもしれない。お前みたいな生まれなら、もっと……」
絞りだす声から、諦めたように力が抜けていく。それ以上言葉にする意味を失ってしまったように。
「……帰れよ。最初からお前は、ここに居るような人間じゃないんだから」
私の残忍な言葉が、寸分狂わぬ意味で彼の胸の傷に届いていたと分かった。
何度も何度も傷付けられて、痛みに苦しみ、必死に庇いながら治癒を試み続けてきた場所に。治る間もなく次の刺し傷を与えられ続けてきた痣に。
「最初から恵まれてる奴には分からない。俺はお前が来た時、『いつか』が来たんだと思った。お前がそうじゃないなら、俺にはもう来ない」
打ち明けてくれたその傷を、私が抉る。
「俺だけが独りだ」
沈黙を破ったのはノックの音だった。
ハッとした時にはもう扉が開き始めていて、そっと誰かが入ってくる。
サニアだ。
緊張に顔を強張らせ、両手を固く握りしめている。その様子と無断でドアが開けられた理由は、彼女の後ろに水読とジルフィーが続いたことで知れた。
――なんで水読がここに。ジルフィーはもう、下がったはず。
驚いたのは私だけでは無かったようだ。水読はドア口でアルス王子を見留めると、目を見開いた。
その瞬間、脳裏を水の匂いが掠めた。
バチィッと大きな音がして、部屋がいきなり闇に包まれた。暖炉の辺りで赤い火の粉が勢い良く弾け、アルス王子とサニアの悲鳴が被る。
暗くなったのは一瞬だけで、その後ゆらりと壁の蝋燭が復活し明かりが戻った。幾つかはそのまま消えてしまったらしく、部屋は元より少し暗く落ち着く。
「何故、彼が」
水読の驚きの滲む呟きが、その場の全員を飛び越えて私に届けられる。
気づくと、目の前に立っていたアルス王子は床に尻餅を付いていた。水読の横にいたサニアも座り込み、ドアのすぐ外に居たリコも同様で、驚いた顔で恐る恐る起き上がり部屋の中を窺う。
何が起きたのか分からず呆然としていると、いち早く立ち直ったジルフィーがのしのしと早足でやって来て、アルス王子を捕まえた。誰もが言葉を失っている中、アルス王子を罪人のように引っ立て出口へ促す。
「この件は上へ報告します」
場に緊張が走る。
アルス王子は怒りを押し殺したような表情ながら、抵抗はしなかった。サニアが青ざめて俯き、唇を引き結んだリコがそっと部屋へ入ってきて、彼女に寄り添った。
何が――この件、って?
「どういう……?」
「侍女が秘密裏に王弟殿下を引き入れ、寝室に潜ませました」
「えっ」
「申し訳ございません!!」
言うやいなやサニアが床に身を投げ出し、更にリコもそれに倣ったので私はぎょっとした。
「勝手なことを致しまして、申し訳ありません……ただ、あまりにも、その」
「サニアだけの罪ではありません! わたくしも同罪でございます」
「あ、あの……?」
待った、何が起きてるんだ。ええと、サニア達がアルス王子を引き入れた? なんで? 二人が平伏しているのも、全然ピンと来ない。
しばし唖然としていたが、とりあえず二人に近付く。抱き起こすようにして頭を上げさせ、訳を話してくれと頼むと、戸惑う素振りの後サニアが重い口振りで話してくれた。アルス王子が来た時の話だった。
「何度もいらしてくださるのに、お可哀想で……クライン様はお会い出来るのに」
「…………」
どうも私が把握していたよりも沢山、アルス王子は部屋を訪ねてくれていたらしい。
門前払いを引き受けていたのは、彼女達だ。来客の応対は全てお任せ状態だったことを、私は少し後悔した。
リコもサニアもすごくしっかりしていて、大人っぽくて人あしらいも完璧に見えて、だからつい甘え過ぎてしまっていたんだろう。二人の素顔は、柔らかい心を持った歳相応の女の子だった。理由も曖昧なままアルス王子を追い返すことを、常々心苦しく思って悩んでいたようだ。
「いかなる理由があろうと許されざる行いです」
ジルフィーが、一ミリも心動かされなかった様子で言い放つ。
「不適切な対応があったと通告します」
「俺が脅したと報告しろ。それが真実だ」
私が口を挟むより先に、アルス王子が言う。リコとサニアは「そのようなことは」と揃って首を振ったが、アルス王子は無視した。取り合うつもりは無いらしい。
ジルフィーは双方を見て、しかし何も言わなかった。多分、両方の言い分をそのまま報告するんだろう。
泣きすぎて鈍痛のする頭をどうにか動かし、私は考える。
上に報告。つまり、塔? いや王様? 両方?
サニア達がアルス王子を引き入れたと伝えたら、どうなるんだろう。庇い合いが起きているから、恐らくどちらにも何らかの罰がある。
例えばサニアやリコは――私が保護すべき要人だとすると、普通に考えたら、許可のない相手をこっそり接触させるような付き人は側に置けない。特に塔は厳しく非難するはずだ。二人は、この部屋から外されるかもしれないし、下手をすると、その後の身の振り方にも瑕が付くかもしれない。二人は高い身分にあるけれど、どこまで通用するものなんだろう。
アルス王子だって、知られれば少なくとも塔は黙っていない。罰則もどの程度か不明だし、立場は悪くなる方向しか想像できない。
「私が、アルス王子を招いたと報告してください」
呼吸を整えながら言うと、リコが息を呑んだ。ジルフィーはこちらに向き直り、冷たい目で見下ろしてきた。
「事実を隠蔽するのですか」
「そうです」
「職務への冒涜です」
平坦な口調に拒否と軽蔑がはっきり滲む。この人は私の意見なんて聞かない。
本当なら、こういう立場の絡むトラブルの時には、ジルフィーの判断に任せるのが一番なんだろう。私が帰るにあたって、彼は最も障害が少なくなる選択をするはず。
でも駄目だ。
「アルス王子の訪問があったことを、途中から、私に伝えないように指示したのはジルフィーですね」
サニアの話には、少し違和感があった。
確かに私は、アルス王子に会わないように逃げまわった。仮病を使ったり、せっせと散歩に出かけたり散々やった。でも、訪問があった事を教えてくれなくてもいい、とは言っていない。来客時、リコ達は必ず一度報告してくれるし、私も留守をした時には「今日は誰か来ましたか」と尋ねた。聞いてからレスポンスを決めたいと思っていたから。
こういう事を独断で揉み消せるのは、ジルフィーくらいだ。
「今夜、アルス王子は私の招待でここに居ました。私がそう言っている、という事実を伝えてください」
屁理屈だろうと構わない。
「あなたの主人は誰ですか。前に、私だと自分で言ったじゃないですか」
口にするとそれは、この場ではそれなりに強い力を持って響く感じがした。
半泣き状態で威厳もへったくれもなかったはずだが、反論はなかった。
その後アルス王子は退室させられ、自責の念で泣きだしたサニアをリコに任せた頃、それまで意外なほど静かに、空気のようにしていた水読が私の方へ近付いて来た。
一糸乱れぬ白い長衣。銀色に見える目には、先ほど驚いた名残以外の表情は無い。
「ミウさん。手を」
「い、いいです」
具合を読もうと差し伸べられた手を、私は咄嗟に振り払った。水読の目が再び見開かれる。
「あ……ご、ごめんなさい」
自分でも自分の反応の激しさに驚く。読まれたらアルス王子と接触があったことがバレてしまう、と思って過敏になってしまった。拒んだ時点で自白しているようなものだけど、ジルフィーがまだ居たし、言質を取られる方を恐れた。
「では、私の手を」
水読は咎めることも言い含めることもせず、しばらく私を見つめていたが、ふと立ち直り踵を返した。
“水”の受け渡しだ。
「……ここでは駄目ですか」
隣室へ向かうのだと気付き、その背中を引き止める。隣に居るサニア達をもう少しそっとしておきたかったのと、水を引く所を人に見られたくなかったから。
水読は一瞬迷うように振り返り、私を見て、ジルフィーに扉を開けてその側へ立つよう指示した。
長椅子に腰掛け、隣に座る水読から手を借りる。日に当たったことが無いような白い腕に、ゆったりした光沢のある袖が滑り落ちる。
不安と後悔と混乱が渦巻き、水読の肌に触れる事は最早何でもなかった。ただ、ひたひたと波立つような水の感覚が妙に心地よくて、私は少し自分の状態を疑った。ちょっと、減り過ぎていたのかもしれない。
……また、熱を出して倒れたりしないといいんだけど。
私じゃなくて、アルス王子のことだ。私は痣が出たって、色々我慢すればこうして癒してもらえる手立てがあるから心配ない。
さっきもあれだけ泣いたのに、なぜかまた、頬を熱いものが伝っていく。
隣から戸惑う気配を感じたが、俯いたままでいたからからか何も言われなかった。
没頭したくて、どんどん水を取り込んだら体が重くなってきて、眠りへの誘惑はあっという間に断ち切り難いものになった。
私はこの夜初めて、夢の入り口を見た。
目に映る現実の景色が所々白く、漂白剤でも落としたように抜け落ちる。入れ違いに、瞼の裏に別の風景が広がっていく。
水色の結晶。
この世界の海。
泣き続ける私を、慰める水読。
これは私の願望だろうか。こんなに嘆く自分を本当は慰めてほしい?
馬鹿馬鹿しいと思うと、部屋の絨毯やテーブルの足が見え、すぐに消えて夢の続きを見る。
七色の光。帰らなければと焦る気持ち。纏わりつく水の流れ。
やがて気を失うように眠った私の体を、ベッドに運んだのが水読だったということを、私は不思議と覚えていた。




