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雨の冠  作者: 桃宮
3.水に消えた過去
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2 “死の海”

目を見開き、言われた言葉を反芻する。

嘘だ。


「嘘じゃない」


 いっそ優しいほどの声が、じわじわと毒のように染み込んでくる。

 クラインが?

 ……いや、そんな訳がない。彼には、信用に足りるだけの誠実さがあった。短い期間だけど沢山話して、笑って、理解し合えたはずだ。あれが演技で、騙されていたなんて考えられない。そう言うと、アルス王子は皮肉げに笑った。


「何故お前がそう言える? 知り合ったばかりのお前が。俺は生まれたときからあいつを知ってる。クラインは、周りが思うほど善良な人間じゃない」

「ち……」


 違う、と言いかけて言葉に詰まる。

 クラインは私に「全て偽り無く話した」と言った。私が帰れるよう協力すると、友人だと言ってくれた。――じゃあ何で、見せてくれた中にこの本が無かったんだろう。

 複雑な色合いの瞳が、記憶の中でちらちらと揺れる。信頼できると、私は思った。でも確かに、知り合って間もない相手で、しかも政治とかに関わる立場の人で、嘘や演技というか、心理戦に慣れていてもおかしくない。

 演技――?


すうっと、心が冷えていく。私を温めてくれていた、唯一の灯火が細っていく。自分を取り巻く全てが、冷ややかで遠いものに思えてくる。

 協力者なんて、居なかったのか。

 帰れないかもしれない。

生きて、戻れないかもしれない。

その時感じたのは、可能性というものが絶たれた気持ち。今度こそ、本物の「絶望」だった。




 ーー気付いたときには、馬車が止まっていた。

 外から馬車の扉が開けられ、アルス王子が降りて行く。その後、全身を黒っぽい服で固めた男がぬっと入ってきて私に手を伸ばした。


「こ、来ないでください! やだやだ触らないで!!」


 降ろされたら終わる! 狭い馬車の中で目いっぱい抵抗する。が、力の差は歴然で、さほど持たず敢えなく外に担ぎ出された。私が相当喚くさなか、アルス王子たちは逆に一言も発せず、それが非常に恐怖を煽った。


「こっちだ」


 皓々と月が冴え渡り、外は存外に明るかった。周囲は森のようだ。荷物のように担ぎ上げられ運ばれる。遠くに、城と思わしき建物とその城下街の光が見えた。

 いつも城から見えた湖は、ここだったんだろうか。ほんの数日前、一緒にこの湖と月を見た相手を思い出して、不意に喪失感に襲われる。


 “死の海”の湖畔は、防波堤のようにレンガの壁でぐるりと覆われていた。アルス王子はひょいと身軽によじ登ると、一瞬で向こう側へ消えた。内側にも陸があるらしい。

  私も男に持ち上げられて壁を越えると、そこへ立たされた。

 そこで湖の全貌を目にする。

 “死の海”は一見、ごく普通の湖のようだった。向こうの湖面には月の光がさざめき、とても静かで美しくすら思える。

 しかしほんの半歩ほど先の崖から足元を見れば、水面は黒々として薄気味悪く、底無し沼のような不気味さだ。先日のおどろおどろしい想像が、現実味を帯びて自身に迫る。


 水面まで5,6メートルというところか。

 私はゴクリと唾を飲み込んだ。どうしよう、流石に死ぬかもしれない。それなのに私の体は、どうしてこうも土壇場に弱いのか。気付けば全身が震えている。

逆にアルス王子と男を蹴り落として逃げる、くらいのことをやってのけねば生き延びられないだろうに、足がすくんで動けない。片足でも上げたら膝が崩れて、そのまま転げ落ちそうだ。


 その隣で、アルス王子と黒衣の男も、無言でじっと湖面を見ていた。人が命の際に瀕しているというのに、他人事の涼しい顔だ。憎い。くっそーせめて手が自由なら! 私、思い切って君たち二人とも道連れにしちゃってもいいんだぞ……!

 内心で罵りながら、深呼吸しスカートを握り締める。落ち着かなきゃ。拘束されているのは上半身だけだ。足がまともに動くようになったら、不意を付いて走る。逃げるなら体が小さい王子側だ。

 しかしその前に、アルス王子が動いた。


「ひっ」


 迫る手に、早速ドボンとやられるかと身構える。

 予想に反して、その手は私の体ではなく耳の辺りに伸びた。なぜか髪に指を差し込まれ、そっと梳かれる。驚いて上げそうになった声を、私は寸でで飲み込んだ。

 なんだなんだ、殺す前に証拠の髪でも切り取ってくのか。さぞや特定されやすい。良い証拠になりますね!

 半泣きで顔が引きつりまくっている私に対し、アルス王子の表情は静かだ。掬い取った髪に視線を落とすと、刃物を取り出す素振りもなく、呟く。


「……このうみと同じ色だな」


 胸に掛かるまで伸びた髪は、その手の中でまさに、湖面のように光っていた。


「その目も」


 今度は顔をじっと見られる。底光りするような青い瞳には、何かを見極めようと言うような不思議な色が宿っていた。今までと違い、敵意も嘲りも感じない。

これから殺す相手を前に、彼は何を思ったのだろう。

 少しでも同情や罪悪を感じていたなら、私は何か考え直させるような言葉を言うべきだったのかもしれない。ただ緊張も最高潮のこの状態で、殺人予告者に効果的な説得ができるなら、それは最早私じゃない。才女だ。大物だ。

 気の利いた台詞の一つも思い浮かばないうちに、短い猶予は終わりを告げた。髪を掬う手が上げられ、高いところからさらさらと落とされる。異様なほど滑らかになってしまったそれは、銀糸が零れるように光り輝いた。

 それを眺め、アルス王子は何故か少し疲れたように言う。


「……どうせなら雨を降らせろよ。お前も幾らか報われるだろ」

「や……」


 やめろ、送辞をよこすんじゃない!


「じゃあな、”泉の乙女”」

「いやーーーまだ死にたくないーーー!!!」


 背中を押され、私は崖からあっさり突き落とされた。闇夜の中、盛大な水音を立てて飛沫を上げる。

 いてっ! そして冷たい! 溶けるうぅぅぅ!!

 勢いの付いた体は一気に深く沈み、服にもしっかり水が染み込む。


 終わった……私の人生、終わってしまった……。

 一体、私が何をしたんだ。何でこんなことに。死ぬにしたって、せめて異世界とかじゃなくて日本で死にたかった。お父さん、お母さん。お兄ちゃんたちや友達にも、せめてもう一度会いたかったな……。

 じゅわーっと白骨死体になる自分を想像しながら、私は真っ暗な湖水に沈んでいった。




 ◇ ◇ ◇



 ――美雨さん。美雨さん、聞こえますか。


 穏やかで透き通るような声が私を呼ぶ。

 いつかも耳にしたあの声だ。

 目を開けるとそこは、ひたすら青く、薄明るい不思議な空間だった。


 私、死んじゃったのかな。となると、ここはあの世か。なるほど、結構静かなんだな。

 ぼーっと傍観する自分の中で、違う、と囁く声があった。この景色には見覚えがあった。ここはいつか、来たことがある。そうだここは……!


「あの水の中!」


 思わず叫ぶと案の定、水中なのに声が出た。息もできるし、腕も自由だ。

 でもなんで……? 安堵に次いで疑問が浮かんだが、それを検証する間もなく背後から謎の声に呼ばれた。


「あ、美雨さん。やっと気がついてくれました」

「えっ、誰!? ……ぷあっ」


ぎょっとして振り返ると、遅れてゆらりと髪がなびき顔に掛かる。慌てて指で払うと、神官のような白い長衣と帯、広口の袖、それから水の精のような、薄水色の長い長い髪が目に入った。

……え、まさか。


「水読さん……?」

「はい」


 そこにいたのは、塔で眠っているあの水読その人だった。


「美雨さん、やっとお話できましたねー」

「え、なんでここに……というか、ここどこですか?」


 予想外に、のんびりした話し方だった。勝手な印象だけど、見た目的にクールビューティーかと思っていたので少し驚く。

 水読はにっこり微笑んだ。


「ゆっくりお話したいのですが、それは後ほど。今は時間がないので。率直に言いますね。今、アルス殿下を死なせないでください」

「え?」

「あの方それなりに重要なんです。お願いしますね、美雨さんの故郷の明暗も懸かってますよ」

「え!?」


 何でアルス王子? しかもどうしてそこで、私の故郷とか出てくるんだ!


「”死の海”はただの塩水ですから無害ですよ。そもそも、貴女が水に害されることはありえませんし」

「え……」

「では、よろしくお願いしますねー」

「ちょ、ちょっと! どういうことですか!? うわ待って待って、水読さーん!!」


 私、ほぼ「え」しか言ってないんですけど!! 叫ぶ間に体が浮き上がり、ニコニコ呑気に手を振る水読が小さくなっていく。同時に視界もぼやけていった。


(水読さーん!! みずっ……!)


「んガぼッ!?」


次の瞬間、冷たい本物の水面に浮いていた。どうやら、さっき崖から落とされた続きらしい。沈んだはずじゃなかったっけ? そして今のは何? 幻覚?

 頭上では澄んだ夜空に満月が輝いていた、私と湖の上へ、熱のない清らかな光が降り注ぐ。体に異常を探したが、特に溶けた所はなさそうだった。塩湖の水は本当に普通の塩水らしい。ただひとつの要素を除いて。


「うぅぇぇ、苦ぁっ!!」


 湖水は想像を絶する味だった。しょっぱいなんて物じゃない、舌も痺れる拷問レベル! まあ、溶けるよりマシだけど!

衝撃的な味覚で再び失神しそうになるのを堪えて、私はこれからどうするべきか考えようとした。しかし、その時間は与えられなかった。


「うわっ!!」


 短い叫びと共に、少し離れた場所でばっしゃーん!と盛大な水飛沫が上がった。生まれた波も煽られ体が揺れる。崖を見上げると、背の高い人影が壁を越えて去って行く。他に誰か居る気配はない。と、いうことは……えっ、まさか!?


 バシャバシャ音がする場所に目を凝らすと、どうやら髪が黒っぽい。落ちたのはやっぱり、先ほど私をここへ突き落とした張本人だ。

 なんで……まさか私を助けに!? んな訳ないか。じゃあ、私を落としたことを悔やんで!? ……それもないなきっと。トラブルじゃなきゃ、「体が溶ける水」に自分から飛び込まないだろう。つまりなんだ、仲間割れ?


 ――アルス殿下を死なせないでください。

 水読の言葉が蘇る。ついでに、「故郷が懸かってます」との脅し文句も。


「ちょっ……ああもう!!」


 手を伸ばそうとして、縛られていていた事を思い出す。


「アルス王子、落ち着いて! この湖、ただの塩水です、力を抜けば勝手に浮きます!」


 とりあえず叫んだ。浮力は相当ある。落ち着いてじっとしてさえいれば、沈む方が難しい。でも、パニックになっているアルス王子には聞こえてなさそうだ。激しい水音が続いている。これじゃあ、助かるものも助からない。

 呼び掛けながら、私は腕を必死に動かした。運良く、ロープから抜け出せるかもしれないのだ。縄を掛けたのがそこの王子様で助かった、素人だからか結び方が甘い。

もがきにもがいて、遂に拘束を解くことに成功すると、自由になった腕で水を掻く。


 ――今が薄着の季節で本当に良かった。これ冬で厚着してたら死んでたかも。

体が浮くとはいえ、溺れる人間とは恐ろしいものだった。助けようと手を伸ばしたら思いっきりしがみつかれて何度か沈み、脳裏を「溺死」の文字がよぎること数回。喋れる状況じゃないので、私を浮き輪だと思ってるらしい相手の背中をポンポン叩いて、どうにかして一瞬息を吸って、また叩いて……死闘の末、何とかパニックを鎮めることに成功した。

暴れなければどうにかなる。アルス王子を引っ張って湖岸へ泳ぎつけると、狭い砂浜に上がり、へたり込んだ。

しばらく無言だった。息が上がってそれどころではないし、死ぬような目にあったばかりで、心身ともに消耗しきっていた。


「……なんで、生きてるんだ」


 いくらか落ち着いた頃、アルス王子が呟いた。


「”死の海”っていうのは……、嘘だったみたいですよ……」


 掠れた声しかでなかった。劇薬味の塩水のせいで喉がヒリヒリする。うぇぇゲホゲホッ。湖水まっず……。


「……お前、なんで俺を助けた」

「知りませんよ……水読さんが、あなたは重要だから助けろって」

「はあ……? なんだそれ、水読は寝てるんだろ」

「そのはずですけど……それより、そっちこそ何で湖に落ちたんですか。さっきの男の人、仲間じゃなかったんですか」


 逆に質問すると、アルス王子は黙ってしまった。……まあ、どうせ裏切られたとかで確定だろう。


「とりあえず、ここ出ますか」


 あまりにも色んな事が起こりすぎて、さっきまでの恐怖や怒りや絶望が、どこかへ行ってしまっていた。水浸しのアルス王子はただの子供にしか見えなかったし。もちろん今に限らず、常に子供と思ってたけどね!!

 私が立ち上がると、彼も案外素直に倣った。服をはたき砂を払う。相変わらずむっつりと黙っているけれど、もう私への害意はないようだ。一応目的は達成してるしね。私の方もあまり、警戒する気が起きない。疲労困憊だ。最早どうにでもなれ。

 長いスカートの水を絞り、膝の辺りで結ぶと、重い体を引きずってレンガの壁に手を掛ける。腕力には自信がないので億劫だが、これを越えねば始まらない。


「……手」

「あ、どうも……」


 のろのろ懸垂の真似事に入ろうとしている私に、先に上によじ登ったアルス王子が手を差し伸べた。ちょっと驚いたがありがたく手を借りると、意外と力強く引っ張り上げられる。


「下りられるか」

「……大丈夫です」


 下りも気遣われ、微妙というか奇妙というか、若干戸惑いながら壁を伝い降りると、また手を差し出された。何でしょう。繋げって?


「はぐれたくないだろ。お前、ここがどこだか分かってるのか」

「…………」


 はい、分かりません。

 早速躓きそうになり、私は大人しくその手を取った。夜に整備されていない森の道を歩くには、確かにその方が楽だった。日本にいた時は普段、夜に人里離れた森林を歩くなんてなかったし。

木々の影は黒く、時々遠くで何かの鳴き声もするし、状況は正直かなり心細い。なのに、今頼れる相手はそもそも自分をこんな場所へ連れてきた加害者一人とか……心許ないにも程がある。でも今は、誰もいないよりマシと思うしかなさそうだ。

 暗い足場に躓くたび、また物音に不安になるたびに、私は繋がれた手にぎゅっと力を込めた。私と同じ黒い髪はただの一度も振り向かなかったけれど、その手が振り払われることはなかった。

 妙な連帯感で結ばれ、私達は月明かりを頼りに無言で歩いた。


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