7 愚者の知恵(1) -- 花弁の夢
不思議に思った事はある。
アプリコット。
何故英語の名前なのか、とか。
よく考えたら「レオナルド」や「サニア」も英語圏風の名前だな、とか。
大学時代の夢を見た。
私は、図書館でレポートの下書きを作っていた。
ノートを開き、傍らに何冊も辞書を積んで必死に手を動かして。
――どうして。
怖い。
わからない。
ふと見ると、全然関係ないことを綴っている。
不毛だ。そんなものを何度書いたって仕方ないのに。
ノートを眺め他人事のように思っていると、向かいに友達が座った。
「教えて欲しいの」
私は顔を上げ、ああ、と呟く。
辞書を貸してくれた子だった。今手元にある内の、一冊の持ち主。
「いいよ」
彼女は微笑み、長い綺麗な髪を耳に掛けた。ノートを広げて見せてくる。
「これなんだけど、読める?」
「……うーん」
書かれていたのはミミズののたくったような文字で、読み取れなかった。
正直にわからないと答えると、彼女は一つ頷く。
「じゃあ意味を伝えるから。訳してもらえる?」
「訳すって、英語でいいの?」
私の専攻は英文学だ。
「ええ。私や他の子が読めなくて、あなただけが読める文字がいいの」
変な事を言う。英語なら、ここに居る学生達はみんな読める。
そう思いながら、私は紙の辞書を開いた。
ふと、愛用の電子辞書じゃない事に違和感を覚えたが、すぐに忘れてしまう。
私がペンを取ると、彼女もペンを取った。
ノートを押さえる手は、向かい合わせで同じ側だった。
あれ。この子、左利きだったっけ。
私が綴っている紙は、大学ノートよりずっと目の粗い日記帳だ。
短い文だったのもあり、翻訳はすぐに終わった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ノートから顔を上げると、相手も顔を上げた。
私ははっとした。
よく知っている相手だと思っていたのに、全く知らない子だった。
でも、親近感がある。
不思議な印象の人だった。
黒目がちの吸い込まれるような瞳に、チカチカと星のような輝きが光っている。
額と胸に何か、ほんのりと光るものを感じる。
何なのかは分からない。
でも、衣服の上からでも分かる。
彼女はその身に、天地を貫く何かを持っている。
「ごめんなさいね。本当は、それも置いておきたかったのだけれど」
立ち上がりながら、何故か彼女は私に謝る。
積んであった辞書が一冊、霧のように消えた。
同時に女の子も消えていた。図書館も、ノートも、窓も机も、私も。
――気付くと崖の上だった。
灰色の空。
灰色の雲。
灰色の湖面。
二人の男女の後ろ姿があった。男女と言うよりは、少年少女かもしれない。
二人共黒い髪をしている。
髪の長い方が女の子だけれど、それにしても長い、長すぎる。岩肌を引き摺る程だ。
その向こうで湖面が光っていた。
波が消え、まるでぴしりと凍ったように、石の断面のようにピカピカしている。
周囲に虹色の光が飛び交う。
二人は湖に向かって、何かしているようだった。
男の子は、何かを集めている。
女の子は、何かを切り離している。
私は彼らの姿を、この世界における二極の役割の暗喩なのだと解釈した。
男性と女性。火と水、天と地、太陽と月みたいな。
「何を探しているの?」
ハッとする。私は崖の上に立ち湖を見下ろしていた。
虹の光は消えていた。空は青く晴れて、清々しい風が吹いている。
声を掛けたのは男の子だった。
先程の女の子と入れ替わるように、私はその子の隣にいた。
「言葉が通じなくて」
「言葉?」
彼は不思議そうに首を傾げ聞き返す。
つやつやした黒髪が風に靡き、私は懐かしいような気持ちになる。
とても綺麗な子で、よく知っている人のような気がした。
「通じてると思うけど」
「今はいいけど、多分いつもは通じなくて」
今は、肉体を離れているから。
以前どこかで言われた言葉を思い出す。
「どうすればいいのかな」
男の子は、大きな黒い目で私をじっと見た。
ものを言うような眼差しに、見知った誰かの印象がちらつく。
しばらく私を観察し、彼は頷く。
「誓約で取り付けられた力だね。二重に掛けられてる」
「誓約?」
「対価を支払って、因果を結ぶこと。因果というのは、二つのものを結ぶ糸みたいなもののこと。結果を作るために、理由を用意する」
「それって、魔法みたいなもの?」
「魔法?」
男の子は首を傾げた。
「そんなに便利なものじゃないよ、持ってるものと引き換えにするやり方だから。本当は何かをした時に、ついでに生まれるものが『因果』なんだけど」
見透かすような視線で検分され、私は虫眼鏡越しに覗き込まれているような気分になる。
「聞いたり喋ったりする為の力が最初にあって、その上から最近、別の力で覆われたんだね。上のだけ消せばいいかな? 下のを妨害するだけのものみたいだけど」
「消せるの?」
「勿論」
コクリと頷くと、男の子は手を伸ばし、私の胸の真ん中の骨の上にトンと人差し指を押し当てた。
すぐ離されたが、一瞬熱いような気がしてびっくりする。
「どう?」
うーん。今どうと聞かれても分からない。
襟から見てみると、触れられた所が指先の面積分、丸く赤い痕になっていた。
私は咄嗟に「これじゃまずい」と思った。水読にバレたら大変だ。
「これ、隠せないかな」
「隠したいの? ごめん、そっちは得意じゃない」
そうなのか。どうしよう。
もう一度自分の胸元を覗き込み、指の痕の近くに何かが貼り付いているのに気付く。
それは白い一枚の花びらだった。
疑問に思いつつ、閃く。
これで痕を隠せばいい。
名案だった。花びらは私の肌に吸い付くようにくっついて、赤い痕の気配を消してくれた。
「良かったね」
男の子が微笑み、私もほっと表情を緩めた。これでもう大丈夫、安心だ。
「ありがとう」
見知らぬ彼が親身になってくれた事が嬉しかった。
男の子も嬉しそうに笑う。
「困ったらまたおいでよ。知りたいこと、僕なら見つけてあげられるかも」
「ありがとう。でも、ここってどこなの?」
周囲を見回し、二人して首を傾げる。
どうやって来ればいいんだ。
「じゃあ、地図を描いてあげる。名前を教えてよ」
「美雨だよ。あなたは?」
「“ミオ”」
さあっと、一筋の風が吹き抜けて行った。
“ミオ”――それは恐らく、本当の名前ではない。だけど、彼を表すものだ。
黒い髪が、はためいて踊っている。
「ミウ。『美しき雨』。僕の呼び名を覚えておいて。また会うって約束してよ」
約束と聞いて何か引っかかる。
「ごめん、約束は出来ない」
首を横に振ると、男の子は少し悲しそうな顔をした。
「そう。なら、会えるといいな、にしておくね」
風の中に、金や銀に光る糸がたなびいていた。
それが彼の言う「地図」なのだ。
私は目の前の彼にも、あの力を感じた。
目には見えないけれど、確かに持っている。
額と胸の痕跡。
『引力』と言うに相応しい、その不思議な力を放つものが。
◇
――花と星だ。
目を覚まし、私は天蓋の内側の絵を眺めて明け方の夢を思い出していた。
変な夢を沢山見た。特に、学校の夢なんて久しぶりだ。あれこれ喋った。そして、水核の夢は見なかった。
……少しほっとしている自分に気付く。
傍らの空いた椅子を見て溜息を吐き、私はベッドを出た。
「おはようございます」
「まぁ、ミウ様……!」
隣へ行って挨拶をすると、言葉が通じていた。驚きだ。勿論リコとサニアも驚き、心底ほっとした様子を見せた。自分の事のように、手に手を握って喜んでくれる。
熱はすっかり下がり体調も元通りだったので、いつも通り着替えさせてもらって朝ご飯を食べる。胸元はただ白く、何も残っていなかった。
食事中、サニアが早速王様と水読双方に知らせを遣ると言うので、王様と面会出来るよう取り計らってくれと頼んだ。リコが気になるんだけど、今度ばっかりは仕方ない、私の手に負えない事が多すぎる。出来れば水読より先に王様と接触したかったので、そうしてもらえるよう付け加えた。
ドアの傍に立つジルフィーは、リコ達の前だからか何も口出ししない。
朝食の後、物理的に水読を避ける為散歩にでも出掛けようと目論んでいると、リコから予想外の申し出があった。
「明日から一週間程、お暇を頂けませんでしょうか」
「えっ」
私、遂に何かやらかしたか!?
静々と告げられ焦ったが、聞いてみるとそうではなくて、帰省と弔問の為だそうだ。
リコの婚約者が、昨日亡くなったらしい。
「急なことで、申し訳御座いません」
「…………」
こんな時って、何て声を掛ければいいんだろう。
動揺を隠せない私に対し、リコの方が断然しっかりしていた。深々と謝り、日程などを丁寧に説明する。でも正直、リコが謝る事じゃない。寧ろ昨日から今朝まで、そんな事情はおくびにも出さず仕事をこなしてくれていた彼女に私が謝りたい。
明日と言わず今すぐ支度をして向かってほしいと言うと、リコは一度迷った後頷き、サニアに留守を託して部屋を出て行った。
次々と色んな事が起こって、休まる隙がない。
毛皮の付いた白いマントを着込んで、私は城の庭を歩く。曇天は寒々しく、水路に跳ねる水音も同様で、吹き抜ける風は耳を切るように冷たい。こんな日に散歩したいなんて、私も相当の庭マニアになってしまったものだ。
斜め後ろを、ブーツの足音が付いて来る。うーん。そろそろジルフィーと話す為に部屋を抜けている、とか勘繰られてもしょうがないかも。最近、その辺どうでもよくなりつつあるけど。
そしてそのジルフィーは今日、明らかに不機嫌なのだった。
わけが分からない。指切る必要が無くなったんだし、ちょっとくらい喜べばいいのに。睨むばかりで、返事はおろか頷きもしないので物凄く感じが悪い。
「昨夜は何を」
黙って石畳を辿っていると、人気が無くなった所でとうとう向こうから聞いてきた。
「額を合わせる必要があったと」
私は答える前に、その意味を考えた。
水読の事というのは勿論分かったけど、何の話だ。ジルフィーに出てってもらった後の事かな?
水読はどのタイミングでか、彼にフェイクを吹き込んだらしい。ジルフィーは言葉が戻った理由を、水読による何らかの処置の結果だと考えたようだ。違うと思うけど、正しい理由は私にもよく分からないし。
「朝起きるまでは、言葉通じませんでしたよ」
「貴女が出て行けと仰りました。少々恐ろしい思いをなさればと期待しましたが」
思わず振り返る。ジルフィーは私を冷たい目で見返していた。何なんだこの人、本当にわからん。ていうか会話しろ。
「別に、怖いことなんて起きてませんよ。水を戻した後はなんか、身の上話みたいなのちょっとされて」
私は正面に目を戻し歩き続けた。微妙に嘘だけど、顔さえ見られなければバレないはず。付随して思い出された記憶に気まずくなり、ついでに頬に熱が灯ってくる。
「その他には」
「特に無いです」
この嘘は一発でバレたらしい。大回りで建物の方へ戻ろうとしていたのに、途中で阻まれた。
長い足で私の前に回り込んだジルフィーは、冷徹な門番のようだ。
「その他には」
「…………」
なんでそんなに知りたいんだ。
確かに、昨夜の一部始終は問題と言えば問題かもしれないけども。それでも、私が一番頼りにしてるのはこの人じゃない。情報は、私の持てる唯一の手札だ。
「私が王様と話す時、退室しないつもりですよね?」
「務めです」
「じゃあ、その時に話します。その代わり、王様と二人で話せる時間を少しください」
それでジルフィーの機嫌が回復する……なんてことはなく。冷たく見下され、寧ろ悪化したんじゃないかなーみたいな? でも、気にしすぎるのは無駄だ。目の前に居るのは、水読と張るくらい不可解な相手である。
睨み合っていると、目の下にポツリと水の粒が触れた。
雨だ。
もうちょっと歩けば温かくなると思ったのに、間が悪い。私は急いで庭を戻った。
部屋に帰ると、サニアから王様との面会時間が確保出来たと言われた。夜だそうだ。その前に水読と顔を合わせたくないと訴えると、ジルフィーが門前払いを引き受けてくれた。特に報告は無く、実際に水読が訪ねて来たかどうかは不明だった。
日が暮れた後、王様の部屋に招かれた。夕食は済ませて来いとのお達しだったから、超忙しかったに違いない。すいません。
侍従達に扉を開けてもらい部屋に入ると、黄金のシャンデリアの下にその人が座っていた。いつぞやの、深い葡萄色の装いに身を包んでいる。
顔を上げた王様は私を見てニヤリと笑うと、艶やかな木枠の長椅子から腰を上げ、優雅な手振りで着席を促した。
「王様」
「言葉が戻ったか」
事前に話が通っていたんだろう、口を開いて驚かれることは無かった。テーブルに飲み物などが用意され、召使い達が全員退出すると、部屋には私と王様とドア脇のジルフィーだけになる。
王様は今夜、結構お疲れの様子だ。
この前からちょいちょい疲れてるなー疲れてるなーとは思っていたが、今日は特に覇気がない。いや、この人から通常分の覇気が消えた所で、迫力が並に抑えられる訳じゃあ無いんだけど……寧ろいつもより少し緩慢な反応とか、トロンとした流し目に色気が漂い、別の迫力が増している。疲労すら美形にはエッセンスにしかならないのか。悔しい。
若干見とれた後、私は早速本題を切り出した。まず昨日寝込むまでの一部始終を伝え、その後水読から聞いた話について言う事にしよう。
聞いた話っていうか、私が今一番持て余している、某問題発言について。
「……水読さんに好きって言われたんですけど、どう思います?」




