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雨の冠  作者: 桃宮
7.七番目の乙女
83/103

6 熱病

 具合がおかしくなってきたのは、夕食の辺りからだった。


 水が欲しい。水が足りない。

 でも、飲んでも飲んでも渇きが癒えない。

 二杯も三杯も水を飲み干し、飽きたらず水晶杯に手を突っ込んだ辺りで、どうやら自分が正常じゃないと気が付いた。ぼーっとするしフラフラするけど悪寒は無く、風邪じゃないのは分かっている。

 早目に寝室に入り着替えると、胸の真ん中に赤い痣が浮き上がっていた。触ると熱を持っている。思った通りだ。昼間アルス王子が倒れたのは“呪い”が原因で、私のこれも以前と同様、発作中の彼に触ったせいだ。


「もっとください」


 ベッドの中から空いたグラスを差し出すと、リコが心配そうに水差しから新しく注いでくれる。私はぐったりと枕に沈み込みながら、きらきら光る水を見て焦れていた。体中が熱い。私の顔は、火照って真っ赤だろう。もういっそ、水差しの中身を頭から被りたい。

 水読を呼んでもらわなければ。っていうか多分、呼ばなくても来るけど。


「ミウさん」


 ほら来た。

 掛布を肩まで掛けられた頃、サニアに案内されて水読が部屋に入ってきた。枕元までやって来て身を屈め、不思議な色の目がこちらを覗き込む。濡れたような薄水色の髪が銀に光りながら肩を滑り、ぱたぱたと音を立ててシーツに落ちた。私は布団から手を出し、近付く額を指の背で止めた。

 こんな時にも油断大敵だ。不必要に顔をくっつけるんじゃない。


「以前より酷いですね」


 水読は大人しく手から状態を「読む」と、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。

 そしてリコ達に尋ねる。


「彼女の胸元に、赤い痣がありませんでしたか?」

「御座いました」


 リコが緊張気味に肯定すると、水読は頷いて丁重に礼を言った。更に「治療をするので」と、サニアと共に退室するよう促す。二人は戸惑いつつ、従順にドアを出て行った。私はぐったりしているし、この状況で水読の言う事に逆らう人間はそうそう居ない。

 扉が閉まった後、その稀有な一人であるジルフィーだけが残って、昼間アルス王子と接触した事を説明した。


「貴方が居ながらどういう事です。役に立ちませんね」

「申し訳御座いません」


 ジルフィーが直立したまま謝罪する。おお、私のせいで怒られている……けどま、いいや。それより私は、この後が肝心なのだ。


「ミウさん」

「…………」


 こちらに目を戻した水読に、私は毛布を首まで引っ張り上げた。言葉が通じなくても主張はするぞ。顔から下は絶対布団から出さないからな。

 交渉しなければ、多分私はこれから痣の所に口付けられる。一体どんな罰ゲームだ。


「いつも、手首のとこで私が引くじゃないですか。それでお願いします」


 怠さを押してジェスチャーでそう伝えると、水読は首を横に振った。いやいや、それ以外に選択肢無いから。


「内部までかなり火が回っています。いつもの微々たる処置で全て消し去るには、時間が掛かり過ぎるでしょう。消耗しますよ」


 水読は私に向かって話し掛けるけど、実際に聞かせている相手はジルフィーのつもりだろう。ジルフィーは後ろの方で油断なく見張っている。


「ミウさん」


 宥めすかすような声で呼ばれ、尚も布団に引き篭もっていると、水読は片袖を少し捲った。滑らかな白い腕の、手首の所がひときわ青い。そこが顔の前に差し出され、唇に充てがわれて私は目を瞠った。


 ――水だ。

 せせらぎの音がする。


 考える前にその力を「引いて」いた。唇を伝って、清廉なか細い流れが確かに体に取り込まれていく。熱を持った体が、これを待っていたと歓喜した。いつもの比じゃない、あまりにも心地良すぎて感動すら覚えた。

 ただ、量が少な過ぎる。

 例えば喉がカラカラで、冷たい水が満タンの透明なボトルがあるのに、外側の結露だけしか舐められないみたいな。この見えない隔たりが口惜しい。向こうに沢山水があるのに。


 気付いたら両手で取りすがり、その皮膚を食んでいた。僅かな水の心地よさが喉を滑り降りたとと思ったら、すっと腕が離された。

 なんで。

 物凄くがっかりして瞼を開くと、淡い色の瞳と目が合った。何故か、驚いたように見開かれている。

 しかしすぐにそれは、困ったような微笑みに変わった。


「ミウさんが“こちら側”だという事がよく分かるでしょう。今は異常事態なんですよ……例えば今夜一晩中、こうして僕の手をお貸ししたとしても、その熱は下がりません。夜が明ければ尚の事です。腹立たしい事ですが」


 一晩中、は、長いなあ。

 その言葉を霧の向こうの出来事のように聞いていると、水読は次こそ明確にジルフィーに向けて言った。


「今から彼女に私の力を送ります。ミウさんが暴れたら止めて頂けますか」





 ……ん?


「ちょっと待った……」


 一拍置いてから、私は手をどけて口を挟んだ。何だその指示は。

 水読は少しこちらを見たが、言葉が通じない前提だからか微笑みを深めるだけだった。


「抵抗を受けるような処置を?」

「どうでしょう」


 ジルフィーが一歩進み出るが、水読は振り返らない。


「怯えさせないよう気を配れば、受け入れてくれると思います。彼女は事情が分かっているはずですから。ただ、酷く暴れられるような事があれば、私を止めてください」

「…………?」


 あれ。私じゃなくて、水読自身、を?


「そのようなご指示は不要です」

「返事はもっと短くて結構ですよ」


 水読は微笑んで、私の手を軽く握った。そしてどちらが良いか訊ねるように、空いた方の手で自分の唇と胸にちょんちょんと触れる。答えた方に「処置」を施す、と。ご冗談を、どっちも嫌だ。


「他の方法は無いんですか……」

「すぐに楽になりますよ。水が欲しいでしょう?」


 嫌だ。けど、微笑する薄い唇を見ているとグラグラ心が揺らぐ。悪魔的な誘惑だ。どうしよう。今すぐどうしても、この人の中身が欲しい。いつもは馴れ馴れしく触るなと振り払う手を、今はとても離す気になれない。惜しい、と思ってしまうのだ。貴重な水をみすみす手放すなんて。

 ……それに今、この体は「火寄り」になっているはずだ。私を「水」に保つ事で雨が降ったのに、何日もそのままにしておいたら、雨も気温もまた上がり始めるかもしれない。

 水。水が欲しい。


「ジルフィー、出て行ってください」


 呟くとジルフィーが私を睨んだ。多分睨んでるこれは。怖いので微妙に目を逸らす。


「怠いですけど、安静にしてるだけなので、実はそこそこまともに動けます……一対一じゃないと集中出来ません。拙いと思ったら叫ぶので、助けに来てください」


 ジルフィーは少し間を置いて、「ここにおります」とだけ言った。

 正しいのは、そちらかもしれない。でも私は、ジルフィーに「現場」を見られるのは抵抗がある。もっと言えば、そのやり方を受け入れる私について、後からネチネチ言われるのが物凄く嫌だ。

 水読は以前に比べれば、格段に冷静だ。多分、大丈夫。水が欲しい。


「二人になったら、何か言うかもしれませんよ」


 鎖骨の所をトントンと触り、制服とドアを指差すと、水読が意図を理解してジルフィーに退室を命じる。動かない。


「出ていって。私だって、早く帰りたい」

「…………」


 これで行ってくれなかったら、もう嫌味回避は諦めよう。

 しばらくの睨み合いの後、とうとうジルフィーは扉を出て行った。勝った。

 私はのろのろと重い体を起こし、枕に背を預けた。白い寝間着のボタンに指をかけ、自分で幾つか外す。一番上のリボンで留まっている所は残した。肌を覗き込んで、丁度痣だけが見えるように調節する。うっかり「落とされ」ないようにしなければ。


「水読さん」


 これで水が貰える。

 顔を上げると、水読はポカンと口を開けていた。え、と思うと同時に閉じられる。そして黙ったまま私の胸元を見た。凝視だ。……こう言うのもなんだけど、敢えて言おう。見るな。

 なんだか物凄く気まずいが、我慢すればもうすぐこの渇きから開放される。そこには確かに猛烈な魅力があり、そう思うと些細な事はどうでもよくなる。

 水が欲しい。

 目を逸らすと、肩に水読の手が添えられた。もう片方の手を支えに身を乗り出し、布の開いた所にそっと顔が寄せられる。

 ぎゅっと目を瞑ると、肌に口付けが届いた。


 冷たい唇だった。


 途端に、よく知る心地良い力が一気に体の隅々へ駆け巡る。

 以前より大きく、速く、力強い流れの渦。なんて純粋で、自然で、美しい力だろう。命が吹き込まれるみたいだ。体が瑞々しく生き返っていく。

 感嘆の息と共に一瞬、このまま意識を投げ出したい衝動に駆られた。抗いがたい快感に、丸ごと身を委ねたい。服を押さえていた手から、力が抜けていく。

 誘惑に負けそうになったその瞬間、私は枕から斜めにずり落ちた。胸の痣に触れる冷たさが消え、襟の結び目がほどかれる。ひんやりとした手が頬を包むように触れ、ある種の直感が電光のように走る。

 短い声を上げ、私はその体を押し返した。


 目を開けた視界には、水銀の長い髪が上から影を差しかけていた。ゆったりとしたネグリジェの中で、汗をかいた肌がスースーしている。

 動けずにいると、頬から冷たい手が離れた。影も引いていく。

 部屋は静まり返っていた。

 自分の、乱れた息遣いだけが聞こえた。




 水読は、ベッド脇の椅子に腰を下ろしたようだった。

 体調は確かに回復していた。怠さは残っているがさっき程じゃないし、頭がクラクラするのも、かなりマシになっている。

 俯いて呼吸を整えながら、私はボタンを掛け直した。首元のリボンも結ぶ。


「ミウさん」


 少し掠れた声が私を呼んだ。

 ……えーと。どうしよう、振り向けない。気まずい。

 返事が出てこないくらい、私は混乱していた。


 今、何か……危なかった、かも。

 水読の手が素肌に触れ、吐息を感じた瞬間、反射的に抵抗していた。本能的に、これ以上はまずいと思ったからだ。そしてそれを受けて、水読は退いた。

 退いたのだ。

 今何も言わずに座っているのは、私の具合を「読む」必要があるからだ。今、強引に手を取ったりしたら、私が怯えると思っているから。

 それは、理性だ。


 十分躊躇した後、私は振り返らないままもそもそと布団の中に引っ込んだ。首まですっぽり隠れてから向き直り、そーっと片手を差し出す。水読はそれを額に当て、それからベッドの上に下ろした。


「――大体、元に戻りましたね。眠気が来るまで、いつものようにしましょうか」


 水読は何ごともなかったかのように、ごく穏やかに言うと、私の手を布団の中に仕舞う。先程のように腕が差し出され、口元に当てがわれた。微量の水流を感じる。心地良いけれど、さっきのような焦る程の渇きはもう無い。よかった。


「言葉は、いつ戻るんでしょうね。この前のは効果がなかったんですね」


 続けて水読が口にしたのは、水核での処置の事だった。

 私は目だけを動かしてその顔を窺う。水読は微笑んでいる。片時も外さず、私を見つめている。

 ――駄目だ私、この人がわからない。

 うっかり騙されそうな程の、あんまり優しい表情なので戸惑う。そこに水読がいることが、怖いと言えば怖いし、怖くないと言えば怖くない。

 ただ私は多分、自覚しているより水読を信用しているんだろう。だって、今すぐ叫んで人を呼ぼうとは思わないから。


「僕と貴女がもっと昔に出会っていたなら、きっと、お教え出来る知恵も多かったんでしょうけれど」


 勝手に喋るのを耳に、私は半ば目を伏せた。

 眠りを誘う声だ。少し眠くなってきた。ジルフィーは、あんまりにも時間が掛かっていたらドアを開けて入ってくるだろうか。


「水には、記憶や知識や人の思いが溶けているんですよ。それらは、水に溶けて巡るんです。地表を漂い地下に染み込み、波に洗われてやがて消えます。純粋で単純な結晶だけを残して」


 重い瞬きをしながらぼんやり聞く。何の話だかわからないが、構わない。心地良い。


「それを読むから、『水読』と呼ばれます。しかし百年もの時を長らえるには、私達はあまりにも多くを知りすぎていた。だからいつからか私達も、人のように、忘却という恩恵を手にしました。それでも『水読』の鎖は神代の因果の根本に繋がれ、脈々と続くと定められています。雲から落ちた水が、消え失せず永遠に天地を巡るように」


 掴み所の無い話をぽつりぽつりと語り、水読は私の口から手を離した。ひんやりした手の平がそっと頬に触れる。


「僕には名前が無い」


 目を開けると、泡のような瞳がこちらを見ていた。


「人は皆、生まれた後に名を戴きます。でも水読が個々の呼び名を冠するのは、死んだ後です。不公平でしょう? だから、こんな世界に未練なんて無い。僕にとって大切なものなど、この世に一つしかありませんでした――――貴女が露れるまでは」


 水読は微笑む。


「ミウさん。僕の“乙女”。


 僕は、貴女が好きですよ。だから、必ず帰してあげますよ」



 …………?


 私は呆けたまま、水読を見返す。

 なんて言った、今。

 目を見開く私を見て、水読は少し首を傾げた。そしてにっこりとすると、身を乗り出して顔を近付ける。

 ――直感が走った。

 ただ、額をくっつけようとしているのではない。

 キスされると判ったから、私は顔を背けて拒絶した。手を突き出して押し返すと、白い衣は予想外にあっさりと引いた。


「それでいい」


 呟き、水読が笑う。


「それでいいんです、ミウさん。いつも少しだけ、僕を拒んでいてくださいね。触れれば消える水面の影だと、僕に思い出させてください」


 水核での対面は、正確には夢じゃない、と言ったのは水読だ。ばれない嘘はつかないと言ったのも。


「夢でお逢いしましょう」


 幽かな音を立て、目の前の椅子は空になった。

 私は、鼓動がバクバク言うのを聞きながら呆然としていた。


 好きって?

 どういう意味で、どうしてそんな事を、今。


 水読が何者なのか、何を思うのか。

 私にはもう、何もわからない。


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