1 裏切り
いつものように水読を見舞った私は、サニアと部屋に帰るところだった。今日もこれといった収穫は無く、階段を下りてとぼとぼと廊下を戻る。
渡り廊下を通り、薄暗い十字路を過ぎた時、突然横を歩いていたサニアの姿が消えた。
短い悲鳴が聞こえた気がして振り向くと、その瞬間心臓が止まりそうになる。暗い色の布で顔や体を隠した見知らぬ男がいて、サニアはその男の手で口を塞がれもがいていた。
誰……? っていうか女の子に何をする!!
一瞬恐怖より怒りが上回り、私はサニアを捉える腕に手を伸ばした。が、彼女を助け出すことは叶わない。相手が一人じゃ無かったのだ。不意に私も後ろから捕まえられ、黒い腕が喉元に回る。
「離し……!!」
叫んだらすぐ口を塞がれた。振りほどこうと目いっぱい暴れた結果、私の力ではどうしようもないと悟ってゾッとした。それでも抵抗していると、回された腕が首を締め上げる。
嘘、殺される……?
すぐに視野が点々と黒く滲んでいった。苦しい。頭まで十分な血が回って来ていない。何とかしないと、でも声が出ない。
ああ、力が入んなくなってきた。駄目だ、ほんとに苦しい。
誰か……。
◇
酷い振動と気分の悪さで目が覚めたときには、どこに居るのかわからなかった。
馴染みの無いガタゴトという音と、細かい石が跳ねて行くような乾いた音。視界は薄暗く、頭がガンガンする。何度か瞬いて、どうやら馬車か何かの乗り物の中と判断した。
――そうだ。 不審者に捕まって、あの後私達どうなった……?
起き上がろうと身じろぎして、バランスを崩した。腕が動かせない。同時に、すぐ隣で何者かがハッとした気配を感じた。
一気に緊張が走る。
私は今まさに、縄を掛けられていた所だったらしい。考えるまでも無くヤバい状況だ。頭がパニックに陥る。
「さ、触らないで……!!」
「うわっ、暴れるな!」
叫びながらじたばたすると、至近距離で怒鳴られた。その声を聞いた瞬間、恐ろしさよりも引っかかりが勝り、私を正気に引き戻す。この声、聞き覚えがあるぞ。
「大人しくしろ! 車ごとひっくり返りたいのか!?」
若い人物だ。少し鼻に掛かるツンケンした声に、小柄な体格。薄明かりでも分かる、癖のある黒い髪、猫のような目。
彼は。
「えー……なんとかかんとか・メルなんとか……」
「アルス・メルクリウスだ。無礼者」
間抜けな呟きに、腹立たしそうな声が被る。拍子抜けする私を睨みつけるのは、いつかの3番目の王子様だった。
え、なんでこの子……?
「……というか、もっと長い名前じゃなかったですっけ」
「うるさい。黙れバカ女」
ば、バカ女―!? ……いや、カチンと来ている場合じゃなかった。事態はもっと深刻だ。見た目がどうもかわいい系なので油断を誘うが、相手が誰でも危機的状況には変わりない。
「ここ、どこですか。何でこんなことするんですか!」
私は負けじとアルス王子を睨み返した。黙れと言われて黙るつもりはない。気迫負けしてなるものか! しかし相手に怯んだ様子はなく、それより更に重大なことに気が付いて血の気が引いた。
サニアがいない。
「……私と一緒に居た女の子は?」
「は? 城だろ」
「城って!?」
「置いてきたんだろ。でかい声出すな、口も塞ぐぞ」
サニアはあの後、一緒に連れて来られた訳ではないらしい。
「置いてきたって! ちゃんと、無事なんで……」
「他人の事より自分の心配をしたらどうだ。この状況で、よくそんな呑気な口が利けるもんだ。……この馬車は、どこへ向かっていると思う?」
「え……?」
冷たい口調が、不意にからかうような愉しげな声に変わった。私は、不吉な物言いに押し黙る。確実に、連れて行かれて嬉しい場所には向かっていないだろう。
人形のように綺麗な顔が私を覗き込み、その口が意地悪そうに歪んだ。
「死の海だよ。お前は生贄になるんだ」
「…………は?」
ちょっと待て。何の話?
生贄? 私が?
「……どういうことですか」
唖然として呟くと、鼻で一笑された。
「お前、本当に何も知らず暢気に暮らしてたんだな。なんにも聞かされてなかった。自分の事なのに。……俺が教えてやるよ。お前が知らされていなかった歴史をな」
アルス王子は、前の座席に置かれた一冊の本を拾い上げた。以前私が借りた本の、倍以上は厚い。彼はおもむろにそれを開き、私の膝に乗せると、ランプの上掛けを上げ馬車の中を明るくした。トントンと指で示された場所を見ると、最近覚えたばかりの”乙女”の文字が目に飛び込んで来た。
印刷の本だ。思わず、その一文を声に出して追う。
「……愛、叶わず、の乙女? あ……雨、戻る、消える……低き、に水……?」
雨が戻って低い水に消える? いや水に消えて雨が戻る……? 発音が合っているのか分からない。愛叶わずの乙女ってなんだ。
「お前字も満足に読めないのか?」
アルス王子が馬鹿にしたように言う。
「いいさ、俺が読んでやるよ。ここにはこう書かれている。『悲恋の乙女は低き水に消え、国には雨が戻った』。“悲恋の乙女”は最後の”泉の乙女”の別称、『低き水』は死の海。これは百年前の記録だ。当時の“泉の乙女”は人身御供になることで雨を降らせた」
「…………?」
初めて耳にする内容だ。
「“泉の乙女”と言えば、黒目黒髪の女だ。国王は雨が絶えてから国中に触れを出したが、髪の黒い人間は居なかった。俺を除いて。目も黒いやつは一人もいない。お前だよ。お前だけだ」
私は凍りついたように、その青い瞳を見つめる。
「塔は、お前が来てからずっとこの話で持ちきりだ。てんで目出度い話だろ? お前みたいな毛色が違うだけの女を水に放り込んだって雨が降るとは思えないが、もし降れば儲けもの。とっととやってみればいいんだ。お前が無駄死にしたところで誰も困らないからな。なのに、レオはいつまでもグズグズしてる。『王様』は大変だな。だから俺が代わりにやってやるんだよ」
そう言って、アルス王子は冷笑した。あどけなさの残る顔が、皮肉げな表情によって妙に大人びる。
呆然とそれを見返し、徐々に頭が内容を理解していく。
“悲恋の乙女”……人身御供? 死の海、に、放り込む……? 死の海て、入ると体が溶けて絶命するとか言ってなかったっけ? 今からそこに沈められるって?
「え、ええっ!? ちょっと待ってやめてください、私“泉の乙女”じゃないですから! それに『低き水』って城の地下の泉じゃないんですか!?」
あの泉ならまだ分かる。なにせ出てきたことがある。
「地下の泉は水が無いんだろ。『低き水』があの泉だって思い込んだのが、そもそもの間違いなんだよ。あの泉を除けば、塩の湖がメルキュリアで一番低い水場だ」
「思い込みじゃないですって! 地下の泉で良いんですよ、あっちが本当!」
だから帰ろうぜ!
水が無いのは毎日見に行ってるから重々承知だけど、そのうちひょっこり湧いて来ないとも限らない。とりあえず塩湖行きは阻止しなければ、本気で命が危なそうだ。
「お前今、自分は“泉の乙女”じゃないって言ったよな? ただの女が何でそう言い切れるんだよ」
「えっ」
そ、そっか。
「……実は今まで隠していましたが、本物の“泉の乙女”です」
安の直にハッタリをかますことにした。手のひら返しだ。私には命よりも大事な恥やプライドなど存在しない。
「黒目黒髪は私しか居なかったって言ったじゃないですか。信じないのは自由ですけど、勝手に間違ったことして国が干からびても知りませんよ?」
「……お前、コロコロ言う事変えて恥ずかしくないのか?」
「だから、命より大事な恥なんてものは……」
言い募る私に、アルス王子は侮蔑の滲む目で薄く笑い、囁く。
「なあ。覚えておけよ、バカ女。危機に晒される度に立場を変える人間は信用されない。お前が本当に“泉の乙女”なら、今すぐ雨でも降らせてみろよ。それに“乙女”は水の化身だろ? 何を焦るんだ。水に入れられて死ぬわけ無いよな?」
勝ち誇ったように言われ、私はぐっと言葉に詰まった。
――水の中でも生きられるのか?
これは以前、クラインにも聞かれたことがあった。当然だけど、私は否と答えた。
最初のあの泉の水は、多分特別だったのだ。あんなに深く広大だったのに、顔を出した途端に水溜りになった。青く光り、私の髪や体を濡らさなかった。
でもそれ以外の、こちらで普段口にする水や身を清めるぬるま湯は、紛れも無いただの水だ。洗面器に顔を突っ込めば息はできないし、浸せば髪も水を含む。
もう一度、本に目を落とす。
『乙女は低き水に消え、雨が戻った』――これは、本物の“泉の乙女”の記録だろうか。
クラインは、そんなこと一言も言わなかった。
知らなかったのかな……? いや、この本は印刷だ。そこそこ冊数もあるはずだし、印刷するほどの価値がある内容ということだ。あれほど研究熱心な彼が、存在を知らないなんてあるだろうか? そして明らかに、「“泉の乙女”に関する重要な情報」だ。知っていたら教えてくれたと思う。
――じゃあ何で、私は今まで知らなかったんだろう?
私の困惑を読み取ったように、アルス王子が言った。
「お前、最近クラインとよく会ってるらしいな。部屋まで押しかけて。あの人間嫌いが、どうしてお前なんかを踏み入らせるんだろうな?」
形の良い唇には、微笑が浮かんでいる。
「……友達だからです」
「『友達だから』!」
小さく答えると、アルス王子は心底愉快そうに嗤った。
「は、お目出度いのは塔のやつらだけじゃなかったな! 本気で言ってるのか? お前を丸め込むのは簡単だろうな。あいつがいつも塔で何を話し合っていると思う?」
何を――
「お前を死の海に沈める算段だよ」