2 不遜な協力者(1)
塔内は帯剣禁止のはずだけど、短剣はその内に含まれるんだろうか。
それ所じゃないとはわかっていたが、人間パニくるとどうでもいいことばかり思いつくらしい。
思考と裏腹に体はまともだった。ぶわっと鳥肌が立ち、全身の筋肉に緊張が走る。うっすらと汗が滲んでくる。
「*******」
私の顔が引きつるのを見て、ジルフィーは短剣を左に持ち替え、もう一度右手の人差し指を口へ当てた。そんな生易しい「静かにしろ」で言う事を聞ける状況だろうか。そもそもそういう意味ではなく、殺生をする前の祈りの仕草とかだったらどうしよう。
叫ぶ練習しとけばよかった。口がカラカラで喉が貼り付く。それを押して大声を上げようとした瞬間、片手で口ごと顔半分を掴まれた。がっちり顎まで覆われて口が開けない。
体の記憶が、前にも似た事があったと訴える。ジルフィーの表情は寒気がするほど冷静だった。あの時もこんな顔をしていたに違いない。
唸り声のようなくぐもった声を上げながら、必死にその腕を掴む。手袋のせいで爪が立たない。両手で渾身の力を掛けて引っ張っているのに、押さえる手の平も袖の中の硬い腕も全く揺るがない。叩いても同じだ。ジルフィーは何も感じていないかのように、私の目から一瞬足りとも視線を外さなかった。
暴れながら一歩後退し、見事にドレスの裾を踏んづけた所で私の抵抗は終わる。
あっという間だった。
よろけた瞬間腰を掴まれ、鮮やかな手つきで絨毯に仰向けに転がされる。起き上がろうとしたけど、脚が動かせなくて無理だった。スカートに膝を立てられ留められている。
あ、もう無理かも。
「*******」
燭台が背後の壁を照らし、淡く逆光になっている。
ジルフィーは低く何事か言うと左手を横へ伸ばし、握った細い短剣の鞘を親指で外した。鞘はするりと抜け、音も立てず床に落ちる。
銀色に光る抜身は真っ直ぐで鋭く、暗器のようだった。そうか、この人殺し屋だったのか。こんなの隠し持ってるなんて。瞬きをしなさすぎて、目尻にじわっと涙が滲んできた。
一瞬暴れるのをやめた時、ジルフィーが左の親指を刃に滑らせたように見えた。
そして彼は私の目を見据えたまま、まるで見せつけるように――――ぽいと短剣を投げ捨てた。鏡のように光りながら、それは向こうの壁際の、ベッドのフリルの下に転がって消えた。
「*******」
……?
ナイフの行方を見届けて、私は口を塞ぐ手を掴んだまま相手を見上げる。
何で、捨てたんだろう? 素手でも殺せるから?
ジルフィーは空になった左手で、再三あの人差し指を当てる仕草をした。親指の側面からは、やはり血が出ていた。ぷくっと盛り上がっていたそのひと雫が、赤黒い筋を作って指の付け根まで伝っていく。暴れるとこうなるぞ、ってこと? という事は、今殺す気はない? いや、手の力加減からは結構本気が伝わってくる。
と思っていたら、微妙に力が緩められた。
ジルフィーは殺意でも哀れみでもない全くの無表情のまま、どうやら私が落ち着くのを待っているようだった。沈黙と静止が、確かに幾らかの冷静さをもたらす。そのうち掴む手が押さえるだけに変わり、触れるだけになり、やがてゆっくりと離されようとする。
――今こそ叫ぶべきだろうか?
迷っている間に右手が離され、代わりに血の滴る左手を唇に擦り付けられた。
「……!?」
「*******」
口に他人の血が付いている。
意味がわからず固まっていると、ジルフィーは指を戻して確認し、傷口付近を他の指に押し付けるようにして圧迫した。せっかく止まりかけていた血が再び滲み出る。
そして再び私の口元へ下りてきたかと思うと、今度は擦り付けるのではなく、強引に口の中まで指を突っ込まれた。
「ふぁ!?」
なっ!?
「*******」
「むご……!」
「*******……てください。言葉がわかりますか」
「ふェ!?」
言葉?
わ
わかる。
なんで……!?
指が引き抜かれ、ぽかんと口を開けたままでいると、無表情がやや面倒臭そうに重ねる。
「私の言葉がわかりますかと聞いています」
「…………あ、はい。なんで……」
「ならば結構です」
結構だろうか。
真下から仰ぎ見る灰色の目は、垂れ目具合が消えて物凄く冷徹そうに見える。
いつも通り淡々と答えると、ジルフィーは立てた片膝の上に左の肘を置き、血と唾液で濡れた傷口を自分の口へ当てた。……止血の為とはいえ、本当にこだわりの無い人だな。地面に落ちた食べ物とかも食べれるタイプだろ。
皮肉にも実際その様子を寝転んで見ていると、サバンナの土の上で仕留められたガゼルの気持ちがわかる気がしてくる。わかりたくなかった。早く脚どけてください。
「殺されるとでも?」
「……正直」
「それで済むならそうしています」
怖いわ!!
最後に私を盛大にビビらせて、ジルフィーはようやく立ち上がった。その後は手すら貸さず仁王立ちだ。
私はその尊大な様子と、手を差し出されて当然という感覚を僅かながら持っていた自分に驚きつつ身を起こす。顔に出したつもりはないのに、頭上から「触れられたくないのでしょう」と言われた。いつかの事を根に持たれてるらしい。陰険だ。いけず。鬼。冷血漢。さっきは思いっきり顔とか掴んだ癖に。
「……それで、何で言葉が通じるんですか。今の何だったんですか、あなたは何で来たんですか」
立ち上がって壁際のソファをびしびし指差しジルフィーに座れと訴え(怖いから)、自分は少し離れた書き机の椅子に浅く腰掛けた。ジルフィーはとりあえず全部無視して私の椅子の正面に立った。無視するな。特に、手の長さ的にあちらは届くけどこちらは届かない、というこの距離の嫌な感じ。
「み、見下ろさないでください!」
「先程、右手を上げろと指示なさったかと思います」
「えっ?」
先程って何……あっ、手紙読んで言葉通じなくなった直後?
「あの時、意味わかってたんですか!?」
「大声を出さないように」
平然と凄まれる。相変わらず言いたい事だけを言う人である。
「ご書状にはなんと書かれていましたか」
「……日本語がわかるんですか?」
素直に答える気になれず質問返しをしたが、ジルフィーは眉一つ動かさない。
「貴女の国の言葉は解しません。貴女の口から聞く場合においては、意味はわかります」
「それは、あなたのお祖父さんもですか?」
私は背もたれまで体を引きながら更に尋ねた。今言われた事の仕組みは不明だが、それはまた後だ。
「“悲恋の乙女”と“叡智の乙女”のお手書きの内容が同様だったと言うのは真実ですか」
「わっ……私が聞いています!」
「文書に我ら一族の名があったのでしょう。二通の内容が同様であればそれで結構です。長居は不審がられますので手短に。先代、または先々代から何かご指示はありましたか」
この人嫌いだ! 全然主導権を握れなくて涙目だが、それでも私は全眼力を掛けてジルフィーを睨み上げた。
「私があなたに話すと思うんですか」
「そうして頂きます」
全く効いてない。
逆に睨み返す勢いで見下され、言い放たれる。
「お忘れなきよう。私は貴女の帰郷を望んでいます。そしてそれを叶える為に、貴女には私の協力が不可欠だとお知らせしに参りました。今現在貴女がこちらの言葉を理解出来る理由は私にあります」
「……どういう」
私の知らない何かを、知っている。
“悲恋”の一文を思い出す。
「――添え状の代筆者は、あなたのご先祖なんですか?」
「ジルフィー・エリクス・リード。私の名です」
『ジルフ』は“灰”。
『エリクス』は“叡智に連なる者”。
『リード』は導く・読む、の意。
「継ぎ名と家名は、我が祖が“叡智”より直々に賜ったもの。グルマニー・エリクス・リードは“悲恋の乙女”の側近でした。我々は“叡智”の頃より常に“泉の乙女”の傍らに在りました」
「……そうなんですか」
相変わらずの無感情で、彼は初めて自身のフルネームを名乗った。
私はその顔を、首が痛くなるような角度で見上げる。なんで今までその事教えてくれなかったんだ、とかは言わない。私に知らされなかったという事はそれなりの理由があり、せがんでも破られるものではないのだ。
それで、先祖代々の話なんて本当ならとても興味深いけど。
どういう因果か、今もまたこうして彼らは“泉の乙女”の間近に居る。彼の生家はそれだけ長く続く大家で、塔での立場もずっと強いという事なのか、それともかつて“乙女”の側近を務めた故の今なのか。
「……困ったら、添え状の代筆者の縁者を訪ねろと」
迷った末、私はそれを口にした。
「“叡智”に誓いを立ててるから、その家の末の血は『あなた』のものだ、と。……宛名が『七番目の乙女へ』だったんでよくわからないんですけど」
「そう書かれていたのですか」
「はい」
「現時点では、一族の末裔は私です」
そうですか。
「“泉の乙女”が言葉を解せぬ場合、末裔の血を用いよと伝わっております。私の血には“叡智”に通ずる力があります」
ジルフィーは滞り無く説明した。
曰く“叡智”の神通力は、言語の壁を超えるものらしい。
これまで私が助けられつつも首を傾げていた自動翻訳も、“叡智”の力が何らかの形で影響していたのではないかという事だ。……“叡智”の手紙が英語だったのも、そこに関係してるんだろうか? でも“悲恋”と同じ内容って謎だけど。
そしてジルフィーのご先祖は、手紙にあった通り“叡智”と何らかの契約をした為にそんな力を得た。
「契約から数百年を経てなお門外不出が固く守られ、一族の末子のみに許さてきた秘匿です。例外は貴女と恐らく“悲恋の乙女”のみでしょう」
そこまで聞いた時、外からノックが響いた。座っていろと目で制し、ジルフィーがドアを開けに行く。ノックの主はサニアだった。
『失礼します。お夕食はいかがなさいましょうか』
「あ、ご飯か……もう準備してくれちゃいました?」
腰を浮かせながら話し掛けると、サニアは戸惑ったような悲しそうな顔をした。
『ミウ様……申し訳ございません、お言葉がわかりません』
「えっ」
顔を見て瞬いた所で、ジルフィーが隙を与えず会話を取り上げる。
「まだお書物の途中のご様子。支度後にもう一度お呼びください」
『……畏まりました。では少し後に』
そしてドアは閉まった。サニアを短い会話で締め出したジルフィーは、再びこちらへ戻ってくる。私は席を立ち椅子の背もたれに片手を置いた。
「今、言葉って……」
「私の血は“泉の乙女”に言語を理解する能力を与えますが、それだけです」
つまり、私はこっちの言葉が喋れるようになるわけではないようだ。
今会話が通じてるのは、相手が“叡智”の影響を受けた血を持つジルフィーだから。
「言語を聞き取れる事は伏せて頂きます」
「…………」
私はしばし押し黙った。
ジルフィーにとって、一族の秘密はものすごく重要なものらしい。大嫌いでも教えたのは、私が例外である“泉の乙女”だから。
「……最悪、王様と水読さんに知られる事は許容してもらえませんか? 通訳をしてほしいんですけど……」
「承諾致しかねます」
「帰るために必要なんです」
「それはご書状に?」
「…………」
往生際の悪い私を、灰色の目が関心薄に見下ろす。
「先に話しました」
言葉の前に、「今回は」と言う意味を感じ取る。
そう、私が注目するべきは、いつも不便なほど無駄口を利かないジルフィーが自主的にここまで喋ったという事実だ。
「血の効果に永続性はありません。貴女が最も重用すべきは王族でも水読でもない。そして塔の総意、我が祖父は貴女を留めたいという事を覚えておいてください」
「…………」
あの爺さんは確かに、私を帰らせたいとは思ってなさそうだ。
何でいつも私には選択権がないんだろう。譲歩というより脅されているようにしか思えないのがアレすぎる。
「……わかりました。手紙の内容を読みますので、協力お願いします」
観念して言うと、「代筆者の縁者」は当然とばかりに目礼した。




