22 白線よりお下がりください
私と言えば、メンタル弱め筋金入りのチキンガールです。
可能な限り敵を作らないように生きてきた。その事に始終費やして来たのがこれまでの人生と言っても過言じゃない……ちょっと盛り過ぎか?
ともあれ、ショックでした。ショックだったよ! そりゃそれなりにそうでしょうよ! しかもその私の事嫌いな人と、今後も四六時中一緒に居てお世話にならなきゃいけないっていうね!
ジルフィーを側付きから外してくれと訴えるメリットは少ない。繰り上げでハノンさんがメインに据えられるだけだからだ。そんな事をしたら今度はハノンさんと関係が悪くなりそうだし、水読との間に入ってもらうには彼では頼りない。あと、言っても意味無いような気もする。
ある意味八方塞がりだが、ある意味順調と言えるだろう。私の胃さえ持つなら。
◇
4階の部屋に戻ると、リコもサニアもいつも通りに対応してくれた。
昨夜はトラブルがあって帰れなかったのだという簡単な説明で、二人はすんなり納得した。多分、大臣達の事とか王様の立場とかも詳しく知っているのだ。
以前聞いた、侍女達は国王の腹心だという言葉を思い出す。
思えば、帰りたいと言っているにも拘らず「気になる人はいないのか」とかその手の話をよく尋ねられたのは、王様の差金だったのかもしれない。あの人が私の心の在処を把握しておきたいと思う事は、今となってはなんら不思議はない。
それにしても、こちらでのホームグラウンドがこうも居た堪れない空間になるとは。
すぐ近くで行動を共にしてきただけあって、ジルフィーの手腕は的確だった。私の様子を見て心配してくれる二人の笑顔が、私にはどこかよそよそしく見え始めた。被害妄想だとしても、こういうのって、疑い始めた時点でどうにもならなくなる。
彼女達はとても有能で賢く、上品なお姫様達だ。きっと私への対応に私情は挟まず、今後も親切に接してくれるだろう。でも内心どう思っているかは分からない。リコが王様の事を好きだとしたら、私はなるべく彼に近付きたくない。
落ち込みながら早々に深紅のドレスを脱ぎ、しゃらしゃら言う鈴飾りも外して、私はそれらを丁重に返却してもらうようサニアに頼んだ。リコの用意してくれた馴染みの服に袖を通し、別の留め具で髪を纏める。そのまま書き机に向かい日記帳を開いた。
あの後、王様の方がどうなったかは知らない。水読や塔の様子も分からない。
外部の喧騒はここには届かない。それが私の立場だから。
完璧に取り繕われた平穏なその部屋で、私はしばらく諸々の出来事を書き記す作業に没頭した。
◇ ◇ ◇
水は読めないけど、空気なら多少は読めるのだ。あとは日本語と英語。メルキュリア語はもうちょっと待って、いや正直、マスターする前に帰りたいけど。
事の割に変わりのない日中を過ごし、夜湯たんぽを抱えて上階に上った時、私は昼間の行動を少しばかり後悔した。
水読の様子がおかしい。
ジルフィーの持つランタンを頼りに石段を上がって、短い廊下を進めば水読の住まいの扉がある。その横にはいつも見張りのおじさんが寒そうに立っている。今日は扉が開いていて、おじさんだけではなかった。
扉の横のランプが、鼻梁の高い横顔を照らしている。
背後の部屋からの明かりが、長い髪の外側を金色に縁取っている。
扉の前には、白い着物に身を包み、水読が佇んでいた。
出迎えられるとは思っていなくて、ぎょっとして足を止めると、ジルフィーから背中にチョップを受けた。いや、急に止まったせいで手が当たっただけだけど。嫌われているとなると、もはや一事が万事そう感じるね。
水読は私の姿を認めると、ほっと息を緩めた。張り詰めていた銀色の目を少し和らげたかと思うと、何も言わず踵を返す。
はらりと翻った髪が銀に光りながら入り口の向こうへ消え、私はおじさんと顔を見合わせた……いや、今一番私と意思疎通がスムーズなのは、恐らくこの人なので……。いつまでもやってるわけにもいかないから、中入るけどね。お疲れ様です。
部屋に入ると水読は普通にいつものソファの所に座っていて、私も普通にそこへ行って水を”引く”例の儀式をこなした。
ジルフィーが目を光らせている中、今日は眠気が来るまでちょっと長かった。それだけ容量が減ってたのかもしれないし、色々気になる事が多すぎて調子が出なかったのかもしれない。とにかくロン毛二人の、それぞれ別の雰囲気で遠慮のない視線が気になる。こういう時は数を数えて凌ぐべし。
少しすると、軽い眠気を感じてきた。ちょっと早いけど、この程度の内に切り上げとこうか。
「じゃ、今日はこれでそろそろ……」
「…………」
手首から唇を離しそう言っても返事はなかった。
訝しく思って顔を上げると、ぼんやりした表情と目が合う。無言で私を見詰める水読は、ぼーっとするばかりで瞬きもしない。ちょっと、目開けて寝てるんじゃないだろうな。
「水読さん?」
「…………」
「水読さん!」
「……あ。はい。そうですね」
おかしいだろこれ。
生理的な欠伸を噛み殺しながら、私は傍らに立つ人物をチラッと覗った。ジルフィーは無表情だ。視線に言い訳するように手を離し、私は距離を取ってから水読にきっぱり言う。
「あの、昨夜はご心配をお掛けしてすみませんでした。私、今も変わらず何が何でも帰りたい所存ですので、引き続きご協力お願いします」
水読はしばしの間を置いてから、遅れて意味を理解したようにはい、と頷いた。かつて無く鈍いリアクションだ。
私は戸惑いつつ、ジルフィーにもう一度視線で「これでいいか」と尋ねる。灰色の目は、これまでのように伏せられる事は無かった。嫌悪のカミングアウトから、どうやら私を必要以上に敬うポーズはやめる事にしたようだ。全然いいけど。
とにかくこれで、朝に打った下手は幾らか返上出来ただろう。
「では、おやすみなさい」
水読をソファに残し、私は制服の影にきっちり付き添われて自室に引っ込んだ。ジルフィーはドアを閉める前、いつかのように「椅子をちゃんと置け」と釘を刺した。
彼が調査して来た事によると、やっぱりここのドアノブには仕掛けがあるらしい。多分、装飾の一部を捻るとか押し込むとか何とかしながら開けると開くようになっている。
それは神官の中でも極一部にしか知られていない、水読も知らないはずの機密事項で、本来は安全確保の為に考えられたものだそうだ。この部屋は高所で窓から入れないから、中からしか開かないと緊急時に困るという事らしい。
そして私は、それを知らないフリをしなければいけない。
水読が扉を開けられると明確に分かっていた上で「まあいっか」とやっている事は、隙を見せると同義である……とはジルフィーの言葉である。彼がそう言えば、私もそうですか、と言うしかない。
「明日お迎えに上がるまで、決してこちらを出られませんように」
「はい」
無表情怖い。
神妙に頷く私を見て、ジルフィーは素っ気なく一礼しドアを閉めた。
……さて。
これで済むなら私も楽なんだけど、悲しいかな、現実問題そうも行かない。
椅子を動かし、去っていく足音に聞き耳を立てながら、私は着替えず湯たんぽを抱えてベッドに腰掛けた。これからきっと、水読が訪ねてくるはずだ。
しかし、いつまで待っても音沙汰はない……あれおっかしいな、何でだ。どう考えても話すことあるだろ。
仕方なく椅子をどかし扉を細く開けてそーっと覗くと、中央のソファに白っぽい後頭部が見えた。水読はさっきのまま座っていた。
部屋を出て、その傍まで近付く。
「水読さん」
声を掛けると、水読はゆっくりと、夢見るように振り返った。
淡く輝く瞳は、何か不思議なものでも見たかのように見開かれている。
「あの、雨のことですけど……」
「…………」
「話し合っておかないと、拙いですよね?」
「…………ああ、そうでした」
先程にも増してぼうっと答え、水読はコクリと頷いた。私は湯たんぽを抱きしめ、やや遠い一人掛けのソファに浅く腰を下ろす。
水読は置物のように静かだった。その身を包む白っぽくてあちこち長い独特の装束は、ぱっと見夏場と変わらない。せいぜい一番上に着ている繻子のはおりものが少し厚地になった程度か。寒くないんだろうか。夏は夏で暑くないのかなと思ってたけど。
「あの瓶は、確かにレオに渡しましたか」
「あ、はい」
黙っていると、呆然と尋ねられた。あのお酒なら、起きた後即行で王様に取り上げられた。
「僕の落ち度でした」
水読は消え入りそうな声で呟いた。思い切り約束を破った私を責める色は無く、後悔している感だけがありありと伝わってくる。覚悟はしてたが中々気まずい。
信じられない事に、水読は昨夜、一晩中あの階段の下に立っていたそうだ。
一度交代したらしいが結構な時間付き合わされたであろうジルフィーには、そう聞いた瞬間平謝りした。
私は水読にも「ごめんなさい」と謝った。
「もう、無茶はしないでください」
「はい……」
色々あったんで結構反省しました。すんません。でも一応成果もあったよ。
今回とこの前と王様が眠った事、変な夢を見た事を報告すると、水読は頷いて「様子を見ましょう」と言った。特に反論は無い。私も同意見だ。
あとは雨と、“二の月”だよね。
「えーと、それで雨が戻ったかもしれないって事は、王様には言っても……」
「駄目です!」
言い掛けた途端、水読が身を乗り出して止めた。ビクッとすると、水読ははっとして姿勢を戻す。
「ごめんなさい……でも、やめてください。誰にも言ってはいけません。お願いします」
血の気の引いた顔で言われ、私は口を噤む。
王様には言ってもまず大丈夫。そう思うけど、その理由をこの人に説明する事は出来ない。
「それなら、ジルフィーにも内緒にした方がいいんですよね」
「勿論、そうしてください」
ジルフィーが知ったら、王様にはすぐに報告するだろう。王様は“乙女”の条件を、彼にも話すなと言った。私は、ジルフィーにも知られたって平気だと思うけど、王様がやめろというなら従いたい。
何だか、ジョーカーの居ないババ抜きでもしているみたいだ。
全員が同時に手札を見せ合えば綺麗に上がれるはずなのに、誰もがそうは出来ずにいる。誰がこっそりカードを隠していないとは言い切れないから。
「……所で、今朝の雪のことですけど」
複雑な気持ちを一旦脇に避け、私は次の話題に入る。
雪については、ジルフィーに対して「昼間に実験的に祈雨をした結果」みたいな雰囲気で説明付けたはずだ。最近は夜に雨呼びをするとその晩の内にすぐ降り出していたから、そう誤魔化したのは妥当に思えた。
ただこれからは、そうは行かないだろう。
「あの、私、朝ジルフィーが来る前に部屋を出てると怒られます。なので、雨を降らせている振りみたいにするなら、ちょっと考えなきゃいけないと思うんですが……」
ジルフィーはきっと今後、絶対に私と水読から目を離さない。水読と二人だけであの儀式をしたなんて言ったら、今度こそ睨み殺されるかも。
「では、今後もし遠方で雲が生まれましたら、見計らって行う事にしましょう。王弟殿下にも、都度ご連絡差し上げます」
「そうだ、クライン達もいるんでしたね……」
何気に関わる人数が多いのを忘れていた。いつ雨が降るかわからないのに、意外と大変そうだ。
「大丈夫です。しけは僕が読みます。火を借りて、日中その場で呼ぶ振りをしましょう。実際は昼間行ってもそれなりに降りますが、不得意としておきます。それなら、時間差があっても不思議はありません」
「なるほど……分かりました」
じゃあ後は、月についてだ。
「“二の月”の事は、周りには言ってないんですか? 保険として、広めておいた方がいいと思ったんですけど」
「それについては……」
水読は少し口篭った。
「……各方面へは、私からお話します。ミウさんは、何か聞かれたら私が必要としていたとだけ答えてください。心配は要りません」
「何で、ちょっと濁すんですか」
――あいつは、何か隠しているぞ。
硝子玉のような目が私を映し、迷ったように目線を落とすのを見て、私は王様の言葉を思い出した。確かにこれは、隠し事がある風に見える。ただ、水読が動揺を見せる事自体が珍しい。演技じゃないよね?
「秘密を隠す最良の手段は、そもそも秘密があると疑われない事です」
水読は、私の爪先辺りを見たまま言った。
「次に良いのは、尋ねられない事。その次は、複数の答えを持つ事。“二の月”に関しては、ミウさんの口から語られる事があっても、私が明言しない方が良いです」
潜められた声は、誰かが聞き耳を立てているとでも言うようだ。
これは、王様に話が行って尋ねられては困る、という話だ。多分。水読は、王族の目を強く意識している。
「ミウさんがご存じないのなら、探す必要はありません。大丈夫、帰れますよ。……納得出来ませんか?」
そりゃそうだろう。何を以って大丈夫って言うんだ。
そう思ったが、口に出して追い打ちを掛ける事は少しためらわれた。
膝の上で固く手を握りしめる水読はいつになく不安に満ちていて、全身で私の反応を窺っていた。結ばれた唇が、更なる説明の言葉を紡ぐべきか迷っている。
そして、結局言う事にしたらしい。
「ミウさんは必ずお国へお帰しします。本当です。“二の月”について伏せているのは……伏せている理由は、本当は、貴女は知らずにいた方が安全かも知れないからです」
「……どういう事ですか」
「77日になれば、ミウさんは“悲恋の乙女”の残した文書を見る事になるでしょう。こちらの人間には読めない文字です」
「え、文書で残ってるんですか?」
こちらの人が読めないって事は、もしかしなくても日本語か。“悲恋”は後続の“泉の乙女”が現れる事を予想して手紙をしたため、期日になったら見せるように手配してから去った? 一体何を?
水読は、ごく静かに答えた。
「そこに、“二の月”の起こし方が書かれている、可能性があります」
「えっ……じゃ、じゃあ77日になれば私、帰れるって事ですか!?」
「あくまで、可能性があるという程度です。もし書かれていなかったとしても、ミウさんはお帰しします。ミウさん自身も双方の国も安全に、これまで通りに保たれる方法で」
「出来るんですか……?」
なんかどうも、“二の月”が動かなくても帰れるみたいに言われている気がするんだけど。もしや私、もう既に帰れるのか? いや、77日になるまでは無理?
しかし“二の月”が必要だと聞いた当初は確か、水読は私が方法を知っているかもと期待していた。
「この内容も、絶対に人に言わないでください」
水読は、本当に今の話を私に言いたくなかったようだった。
今のは別に、王様とかから突っ込まれても困らない気がするけど。どうせ雨のこと隠すんだったら、77日に手紙を読み可能なら“二の月”を動かし、私が帰ってオールオッケーだ。
しかし水読はいいえ、と答えた。
「“悲恋の乙女”も、可能ならば“二の月”を起こしたいと考えたでしょう。当時からあれは眠っていました……しかし、彼女は成し得ませんでした。もし書簡にその手段が書かれていたとしても、それは危険を伴う内容かもしれません。その際、周囲に知れていると逃げ場が無くなります。また“二の月”について書かれていたかどうかを、尋ねられる恐れも出てきます」
「な、なるほど……?」
つまり何かヤバい内容が書かれていて……例えば手足を一本置いて行けとか。私がそれは無理! と思ったら、見なかった事にしてトンズラしてもいい、と水読は考えてくれているらしい。ただしその手紙は読解してから帰ってほしいようなので、実質77日が私のメルキュリア滞在時間の最短となりそうだ。
なんか色々複雑だけど、水読はとにかく大丈夫としか言わない。“悲恋”が帰れたと言うのを信用するしかないのか。
うーん、頭痛くなってきた。というか眠くなってきた。
「ありがとうございました。今日は、これで寝ます。本当に、色々ご心配をお掛けしました」
今夜は駄目だ。明日起きて頭スッキリしてから、また考えよう。
切り上げて寝る事にし、私は頭を下げた。伸びた髪が肩を滑り落ちる。
湯たんぽを抱えソファを立つと、ぼんやり見送っていた水読が、一拍遅れてすっと立ち上がった。
「ミウさん」
「何ですか」
突然の動きに、微妙に緊張が走る。
何故か水読も少し緊張しているようだった。私の目を、じっと見つめて言う。
「髪に触れても、いいですか」
何で。
これまで、そんなこと聞きもせず勝手にベタベタ触ってた癖に。
「……駄目です」
さっと顔を背けると、私は自室に戻り音を立てて鍵を掛けた。




