18 秘密の共有
「ミウ」
その声で呼ばないでほしい。
魅惑的な視線に縫い留められ、体はピクリとも動かせない。
今日こそ私、心拍上がり過ぎて死ぬかも。
「俺は止めたぞ。よくも無視してくれたな」
落ち着こう。うん、まず落ち着こう。
さっきまで肌寒かったのに、嘘のように顔が熱い。息を殺していても、上下する自分の胸が見える。目を逸らしたいけど、その瞬間何が起きるか分からないので逸らせない。
王様はこちらを見下ろしたまま、その目を細めた。
「確かに信用しろとは言ったが、その自覚の薄さは何なんだ。立場を抜きにしても論外だろう。俺なら無害と高を括っていたか?」
低い囁きが背骨を駆け上がる。色んな意味でヤバいこれ。
私はブルブルと小刻みに首を振った。声の出し方は忘れた。離して。しかし、まだ離してもらえる気配はない。
「夢を見たと言ったな。お前は帰る気が無いのか?」
「…………?」
「分かっていないという事は分かっているが、この状況で相手の夢を見たなどと言うものではない。十中八九誘い文句と取られるぞ」
さそ……!? め、滅相もない!
これ以上どこにも触れないよう細心の注意を払って、私はもう一度小さく首を振った。意思表示をしたというのに、王様は更に数秒私の返事を待ったようだった。なんで。この時点で私に出来る事は呼吸と瞬きくらいである。見られてるというだけで首筋がゾクゾクする。
なんでこうなってるんだっけ。どうなればいいんだっけ?
もういっそ考えるのを止めようか。この状況、抗う意味とか必要とかあるだろうか。顔が熱い――。
錯乱してきた所で、ようやく肩を捕まえていた手が緩められた。
「……良いか。お前の基準で信用した相手、全てにそれでは困るんだ」
私を釘付けにする危険な笑みに、見慣れた呆れのようなものが混じる。
ゆっくりと背を起こし少し距離を取った王様は、言い聞かせるように告げた。
「いくら特殊な地位にあるとは言え、法の上で女の立場は弱い。力も弱い。必要以上に隙を見せるな。処女でなければ、国へ戻れんのだろう?」
「え」
なんでこの時うっかり声を出したんだろう。せめて目を見ていなければ。
今度は王様が目を瞠った。私の瞳に何かを読み取り、信じられないという表情でさっと身を引く。
「……どういう事だ?」
私は青ざめた。
えっ!? やばい、バレた……!?
質問をされ、声に出して返答してしまった。ガバリと身を起こし、慌てて弁解する。
「ち、違うんです! “泉の乙女”の前提がその、よく分からなくて!」
「前提?」
「し、処女じゃないと“泉の乙女”じゃないっていうのがなんか、違ってるみたいで」
「は……? まさかお前、処女じゃないのか?」
「え!?」
その事に気付かれたんじゃなかったの!?
どうやら墓穴を掘ったらしい。本当なのか重ねて問われ答えると、王様は片手で目元を覆い深々と溜息をついた。
「これだから女は分からん……」
「…………」
さり気なく足を引き寄せると、すかさずスカートの端を押さえられる。
「待て。相手は誰だ。水読か?」
「ええっ!? いや、ち、違います!」
「では誰だ。場合によっては、このまま塔へは返さんぞ」
「いえ、その……!」
あ、自分靴履いたままだ……ビーズの縫い付けられたそれにスカート越しに触れながら、私は必死に事情を説明する。まあその、向こうで彼氏が居たので、という話なんですけどね。なんて気まずい話題だろう。こんな話をする事になるとは思わなかった。
さっきから脳裏では、尻尾を押さえられたネズミが懸命に走ろうとしている。
ボソボソと話すのを、王様は何故か少し気の毒そうな顔で聞いた。
「では、近く輿入れの予定があったのか」
「え?」
「それは婚儀の相手であろう?」
あ、なるほど……うーん。
なんと返事をしたらいいか分からず黙ると、王様はそれを別の意味と取ったらしく、説明を追加してくれた。
こちらでは所謂、女性は結婚するまで清らかな身で、というのが理想的らしい。
婚前交渉があるとすれば、例えば近々結婚が決まっていて、正式な入籍はまだだけど相手の家との行き来がある状態……上手く翻訳されないけど直訳すると「ヒバリの巣作りの時期」みたいな単語になる……には、まあアリだそうだ。要するに、こちらの娘さんの方がよほど身持ちが堅い。
私はたまらず目を泳がせた。
すいません、その元カレとは大学時代に別れてそれっきりです。メールくらいは来るけど会わないし、当時も別に結婚とか意識してませんでした。だってほら、まだ想像付かなかったし学生だったし結婚願望無かったし?
でも付き合うってそういうことでしょとか何とか言われたらさあ……ああ、なんか自分がすごいフシダラな人間に思えてきた。
「……褥でする話ではないな」
ぼそっとそう言うと、王様はベッドを降りて暖炉の方へ歩いていった。詰まる胸が幾分ホッと緩み、体にようやく血が廻る心地がする。
暖炉には小さく燠が残っていて、手前のソファセットを照らしていた。王様が適当に薪を放り込むと、すぐに火が大きくなった。
薪をくべた主は、ドサリと奥のソファへ腰掛ける。
「その話、水読には?」
「……誰にも話していません」
「賢明だな。ではお前、処女ではないが“泉の乙女”ではあるという事か?」
「そ、そのようです……」
私はぎこちなく頷いた。体だけ、だけど。逆なら分かるのにな、体は“泉の乙女”じゃないけど中身は、とか。
王様は背もたれに頭を預けるようにしてこちらを見ながら、私が処女でないと知られるとどんな問題があるか話してくれた。
結構ダイレクトに貞操の危険がありそうで笑えなかった。
“乙女”は潔い身でなければならない。その前提が消えるとなれば。
「まずは、お前が事情を隠そうと思った理由と同じ問題だな。水読の出方が分からない。あっという間にあいつの餌食というのが最も有力だが」
嫌すぎる候補である。
「勿論、これまでと何も変わらぬかもしれん。が、お前を守らなくなる可能性もある。あいつがお前に情があるのか、“泉の乙女”に執着しているだけなのかによるだろう」
「…………」
私は水読に守られていたのか。
妙な感慨を抱きつつベッドの上を這い、床へ下りる。いつまでも土足で他人の寝台に乗ってちゃ落ち着かない。しかしソファに近づく度胸は無くて、裾をさっと直した後は所在がなかった。
「良い心掛けだ」
王様は、迂闊に近付かない私を褒めると腰を上げた。
「俺が退こう。ここへ来て火に当たるといい」
「い、いえ。そこにいらしてください」
少し迷った後、私は王様の斜向かいのソファに腰掛けた。広い部屋だし距離はある。しばらく顔は見られないかもしれないけど。一度席を立ち掛けた王様も、結局何も言わず腰を下ろした。
話の続きに戻る。
「水読に知られた場合に効力が残っているものは俺との婚約になるが、万全の制約になるかと言えば怪しい。法とは面倒でな。お前が生娘でなければ、そして相手が水読となれば、少々働きが悪くなる」
「ど、どのように、でしょうか……」
思ったけど、普通に婦女暴行罪って無いんだろうか。無きゃ困るぞ。
尋ねると勿論あると言われたが、ちょっと微妙だった。基準が「子供が出来たらいけない」という所に重きを置いているようなのだ。なんというか、育てる気がない、家庭を持ち自分の子孫を守っていくつもりがないのに女の人を妊娠させてはいけない、という感じだ。人権を守る方向性と若干ズレている。
女性が結婚するまで純潔を守るというのも、当たり前だけど夫以外の子供を身篭らない為である。
ちなみに、処女に手を出したら責任を取って嫁に貰う。それをしないのは悪党という事らしい。それ嫁に貰っても犯罪者に違いは無い気がするんだけど。
「そこが女の立場は弱い、という所だ。相手の身分が低ければ罰せられるが」
男性の身分が上だった場合は、大体縁談が纏まるらしい。理不尽だ。ただし女性側に泣いて嫌がられたのに、とか噂が立つと不名誉なので、体裁を気にする貴族社会ではそこそこの節度が保たれている。
あと姦通罪というのも一応あって、妻の不貞であれば離婚が可能なので奥様方は身を慎むそうだ。養ってもらえなくなると困るから。しかし夫に愛人が居るのは罪に問われないようで、先代国王のように、何らかの理由で跡継ぎに問題が起きそうな場合は一夫多妻も認められている。
夫が通じた女性が未婚の処女だった場合は、やっぱり責任を取って二人目のお嫁さんに貰う。養えないのにそれやったら厳罰。罰があるのは当然として、それでも女性の人権どこいった状態である。男性側は間男を訴える事も出来るけど、女性側は直接男性を罰する事が出来ない。
……とここまで聞いて思い出したのは、水読の事だった。まさかあの人、立派に犯罪者じゃないだろうな。それとも立場的になんかお目こぼしでもあるんだろうか。結婚できないからとか、罰せられない地位とか。
「水読は妻帯可能だぞ。塔の敷地内に離宮があるだろう?」
「そうなんですか……?」
塔の上から見下ろせば、広々とした敷地には幾つも建物があった。全て聖堂の類だと思っていた。
「歴代も半数程は妻を娶ったはずだ。あれがのうのうと遊び歩いていられるのは、子が出来んからだな。水読は各々一代限りと決まっている」
「…………」
私は微妙な表情で記憶を掘り起こす。確か、そんな事言ってたかも。血縁が増えないとかなんとか……まさかそういう意味だったとは。
詰まるところ、水読は体質的な理由で法律の抜け穴を通れるらしい。
「あれもその辺りをよく分かっているからか、人妻にしか手を出さん。しかも神官ばかりのな。法改正をしたいが、中々行き届かぬ場所だから頭が痛い」
……ヤバい、水読の印象悪化に歯止めが掛からないんですけど。こりゃ奈落の底まで落ちて行くわ……。
「水読さんだけには、絶対知られないように気を付けます……」
「そうしてくれ。水読と言わず、これまでのように誰にも知られぬよう注意しろ。知れればお前、明日にでもここで寝泊まりさせられる事になるぞ」
「え!? な、なんでですか」
「現に今ここに……いや、まだ話していなかったな」
王様は火を見て一つ欠伸をしてから、私がお酒を飲んだ後の事を話してくれた。
まず私はあの後、即眠り込んだらしい。声を掛けても全く起きない。
王様は私がただ眠っているだけだと確認してから、侍従を呼ぶ事にした。しかし部屋を出ようとしてみてびっくり、両開きの豪奢な扉はびくともしない。外から鍵が掛けられたのだ。呼び鈴を鳴らしても扉を叩いても応答なし。勿論わざとである。誰が発案かは知らないけれど、この王様相手にそう何度も仕掛けられるとは、流石に御付きの人も肝が座っている。
「分かるか? こういうややこしい事になるから、勝手をするなと言ったんだ」
「すみません……」
私は居た堪れない気持ちで謝った。もしかしたら王様の付き人には、“泉の乙女”の言葉なら効果があったかもしれない。
ともあれ仕方がないので、王様は一旦私をちゃんと寝かせ、それから腰を据えて控室と交渉しようと考えた。でも私を寝室に運び寝台に下ろした所で、何故か王様も眠ってしまった。いつの間に眠ったのかは王様自身も覚えていないとの事。
……私がお酒飲んで寝たら王様も寝てしまう説が補強されてしまった。
「と、取り敢えずその事も、大臣には内緒にする方向でいかがでしょう……」
「良いだろう」
なんか、どんどん秘密が増えていく。
で、“泉の乙女”の条件だ。
「特に、塔の者には気取られるな。護衛にもだ。お前の場合は、そのまま振る舞っている分には心配無用かもしれんが」
……いや、ここは聞き流しますけど。
王様曰く、今の理由が加わったとしても、本当に危ないのは大臣達の思惑ではないそうだ。
「俺の目の届く範囲であれば手助けしてやれる。だが塔に囲われると拙い。例えば――」
王様は一度言葉を引っ込めた。
「ここからは、あまり愉快な話ではない。聞けるか?」
「聞いた方が良い、お話でしたら」
すぐにそう答えると、王様は何故か少しだけ嬉しそうに笑った。
「では話そう。何度もせぬから覚えろよ、ミウ」
揺らめく火を受けて、若葉色の目が金色に輝いていた。




