13 二日酔い(1)
クラインと並んで王様の住居らしき一区画を抜けると、手広いホールのような所に出た。
行きも通った場所で、絨毯敷きの床はここまでだ。開けた階段の下で、クラインの従者とハノンさんが待っていた。声を掛けると、ハノンさんは私とクラインに神官の礼を取る。
「あれ、ジルフィーは……?」
「彼は現在、所用で塔におります。呼び戻して頂いても構いませんが、出来れば本日中は私でご容赦頂けると……」
「それは勿論、大丈夫ですけど」
ハノンさんは急遽代役で来てくれたようだ。きっちり当番制になっている彼らの仕事が、こんな風にイレギュラーなのは珍しい。原因は他でもない、私のせいだろうけど。
部屋まで送ると言ってくれたのを丁重に断って、クラインとはそこで別れた。従者の持つ銀盆に文鎮で押さえた紙束が乗っていて、この後も仕事がありそうな雰囲気だったから。
「いつでも呼び出してくれて構わない。些細な不安でも」
別れ際、薄暗い燭台の光の中、クラインが小声で告げる。彼の声は不思議な声で、どんなに小さく話しても誰もが聞き取ろうと無意識に耳を澄ませてしまう。その時も束の間しんとした。美貌といい、注目される為に生まれてきたような人だ。
微笑んでお礼を言い、夜の挨拶をして、私とハノンさんはクライン達と別の通路を辿った。
◇ ◇ ◇
おかしい。どう考えても絶対おかしい。
いつもより気が緩んでいたとしても、だ。あの人と同席してて寝落ちとか、私にはハードルが高すぎる。
部屋のソファに座り、私は膝の上で日記帳を開いていた。
サイドテーブルの上の優美なインク壺にペン先を浸し、新しいページに日本語で丁寧に文字を綴る。夢で見た事やその後聞いた事を忘れないようにメモするのだ。
私ではない“ 泉の乙女”と、“悲恋”の伝言。
眠る前の事はどこまで残っているのか記憶を辿り、ケーキを食べていた所を思い出す。そうだ、あの辺で会話が途切れた。喋っている真っ最中に寝てしまったという事は流石にない、と思う。でも食べながら寝るのもあり得ないよね、普通。
途中で夕食と入浴と着替えを挟み、引き続き悩む。
薔薇の花が描かれたガラスのシェードが、火を透かしてほのかに辺りを照らしている。
テーブルにはランプの他に、脚付きの銀杯があった。中身は琥珀色の甘いお酒だ。サニアに頼んで用意してもらった。干し葡萄から作られていて、子供でも飲めると言われる程度数が低い。しかし友人達が「ジュース」と称するカクテルでも一杯も飲めばすぐクラクラする私には、そのくらいで十分だろう。リコ達も心得たもので、こちらに来た当初は食卓に並んでいた食前酒も今は出されない。
でも、今夜は敢えて。
私は杯を手に取り、金色に揺れる水面を傾ける。一口含むと果物の爽やかな香りがして、ピリピリした僅かな刺激が舌を刺した。鼻に抜けるアルコールの風味に目を閉じる。飲み下すと同時に、私は自分の推測が当たっていたと確信した。急速に回る酒気。首から頬、こめかみと熱が登ってきて、猛烈な眠気が襲ってくる。
こっちの子供達が物凄い酒豪、って話ではないはずだ。幾らお酒に弱いと言っても私、流石にこんなに弱くはなかったぞ。
「ごめ……ちょっとだけ寝ます……上に行く時間になったら起こして……」
杯を辛うじてテーブルに戻すと、私はその場でクッションに突っ伏した。
『晴、ソファで寝ない。邪魔』
『んー……』
飲み会に出かけた下の兄が、よく夜中に帰ってきてリビングで寝ていた。ソファを占領されて、上の兄が下の兄を小突く。あまりお酒が強くないのは一家揃ってだけど、イコール酒嫌いという訳ではないようだ。下の兄に比べ、上の兄は然程飲み過ぎたりしないけれど。
『いいよ美雨。寒くなったら部屋戻るだろうし』
『その前に風邪引いちゃうよ』
起こしても起きないので、仕方なく毛布を持ってきて掛けてあげる。
こういう時思い出すのは幼い頃、上の兄が遊び疲れてぐらんぐらんしている私を抱き上げ、布団まで運んでくれた思い出だ。その頃はまだ両親共働きで、兄がよく私の面倒を見てくれた。
当時住んでいた狭いマンション。起きてほんの少し歩けば済むことなのに、ゆらゆらと揺れると気持よくて、私はしがみついて目を閉じていた。
兄は、重たくても私を運んでくれる。
甘えたかっただけなのだ。ごめんね。
「ごめんね……ありがとう。大好き……」
呟きながら、私はその体温に頬を寄せた。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと朝だった。
木枠の天蓋を見上げる。金箔が貼られた縁取りと、花と星の絵。束ねられた茜色の幕の裾には、同色の小さな房飾りがずらりと並んでいる。いつもは菫色の布を吊った天井だ。
ま、また……!?
昨日の朝を思い出してひやりとし、すぐ違う、と安堵する。大丈夫。ここ、4階の私の寝室だ。昨夜はお酒を飲んで……あの後上に戻った記憶も、そもそも起きた覚えもない。
体を起こそうとして、妙な怠さに息を吐く。もしや、これが二日酔いか……? 私は少量のお酒で眠くなる事はあっても、翌日に持ち越したことはない。そもそもそんなに飲まないからだけどね。
ベッド脇には深紅のビロード貼りの足台が置かれていて、私の靴がちょこんと揃って乗っていた。フラフラしながらそれを履いて、隣室に向かう。
「まあミウ様、大丈夫ですか?」
ドアを出ると、リコはすぐ私の不調に気付いた。肩を支えられ、たちまちベッドに逆戻りさせられる。
シーツの上で、例のパーティードレス顔負けのネグリジェに着替えた。コルセット風の下着の編み上げ紐は、既に緩んでいた。多分昨夜リコかサニアが解いてくれたんだろう。
水差しとグラスの盆をベッド脇の机に置き、二人はあれこれ世話を焼いてくれた。朝ご飯は鶏のスープで煮た温かいお粥だった。
「何か、混ぜ物があったものかと思いました」
「ごめんなさい……本当にすいません」
昨夜私がほんの一口の果実酒で即刻眠り込んだせいで、あの後はちょっとした騒ぎだったらしい。杯とその中身の検分に加え、私の食事に関わった人間が漏れなく王族の詰問を受けたとか。「ちょっとした」の範疇を超えている気がする。
結果は白で、毒物や薬品の混入ではないらしいと判断された。城や王城近辺にいる王族は勿論私の知る3人だけじゃないだろうけど、聞いた感じ、少なくとも王様の手は煩わせたようだ。普通に仕事増やしてる私。
でもこれで、昨日王様の部屋でいきなり眠った理由が分かった。十中八九、ケーキに使われていたお酒のせいだ。
「体質でしょうね」
私が起きたと知らせを受けて、水読が4階を訪ねてきた。リコが私にレースの肩掛けを掛けてくれ、その後で寝室に通された水読がベッドの傍らの椅子に浅く腰掛ける。リコ達が退出し、同行してきたジルフィーだけがその背後に立ち水読の動きを見張っていた。
「前は、そんな事なかったんですよ?」
「変化したんでしょう。こちらにきた当初と今のミウさんは、私からすれば大違いです」
へえ、そうなんだ。
因みに昨夜私の体の診察をしたのは、医者ではなく水読だったそうだ。マジか……後でリコに、コルセットの紐について聞こう。
水読は目が据わる私の手を取り、自分の額に当てる。
「昨夜は体に酒気と眠りが回っていました。今は、怠さが?」
「……なんとなく」
手が降ろされると、今度は逆に水読の手の平が私のおでこに触れた。ひんやりした手が驚くほど心地よくて、思わず目を閉じる。
「気持ち良いですか」
「…………」
「ミウさん、僕が好きでしょう?」
なんだこいつ。
答えの代わりに呆れ顔を返すと、水読は長い水色の髪を揺らしてにっこりした。気分と同様に体を引く私から手を離し、脇の机へ腕を伸ばす。水読は水差しを傾け、金の脚が付いた水晶杯に八分目まで注いだ。
「どうぞ」
「……? ありがとうございます」
私は差し出されたグラスを受け取り、口を付ける。ご飯の時にも飲んだのに、喉が渇いていたようで一息にごくごくと飲み干してしまった。グラスが空になると水読はそれを取り上げ、二杯目を注いでくれる。しかし今度は私に渡すのではなく、何故か自分で一口飲んでから差し出した。
「……なんで」
「その怠さを取り除く為です」
「水読さんって二日酔い治せるんですか」
「そうですね、ミウさんのでしたら恐らく。でも今のそれは、二日酔いじゃないですよ」
「そうなんですか?」
じゃあ何なんだ。てか治せるんかい。
「昨夜、私と一緒に眠らなかったせいです。寝室でお待ちしていたんですけど」
「…………」
いつもそうしてるみたいな言い方やめてくれますか。
ともあれ上階で眠らなかった事。それがこの怠さの原因らしい。
昨夜水読は、私が上階に来ないのでここへ来て私を「読み」、単純にお酒のせいで眠っているだけだと判断した。水寄りの体質は、アルコールや薬品の回りが早いそうだ。
それとは別に、水読のように自分で「水」を汲み上げる事が出来ない私は、「内側」の容量が増えたのに供給がないと内圧が足りなくてクタッとしてしまうらしい。本気で水風船かこの体。
「僕がここで眠れば、幾らかは満たされたかと思いますけどね。邪魔されました」
止めてくれた人、本当にありがとう。
水読は眠る私に水を与えようと試みたらしいが、あまり上手く行かなかった。起きているか眠っているか、双方同じ状態でないと同調しにくいとか。所で「力を与えようとした」って、どのようにでしょうか。水読はそれには答えず、ただ銀糸のような睫毛の奥から薄水色の目を瞬かせる。……はぁ。
ともかく、そういう事ならば眠る私を上へ運ぼうかとなった。が、今度はそれに水読が反対した。
「僕以外の人間が貴女に触れるなんて、おかしいでしょう?」
「ちょっと何言ってるかよく分かんないです」
「私が運んで差し上げられれば良いんですが、自慢じゃないですが非力ですし。階段、長いですよね」
ま、王様とかそこのジルフィーとかに比べたらもやしっ子かもね。背は近いのに水読だけなんか薄っぺらい。どうでもいいけど。
そう言い放つ前に、柔らかい手つきでグラスが唇に押し当てられた。勝手に背中に手を添え、水読はニコニコしながら問答無用で水を飲ませてくる。ちょっと待った、自分で飲む。自分で飲むから! ほんと何なのこの人!
ジルフィーにヘルプミーの視線を送り、彼が一歩動いた所で更に面倒くさいことが起きた。俄に隣が騒がしくなり、ドアがパッと開いたのだ。
サファイアのような、澄んだ色の猫目と視線が合う。
「…………何やってんだ」
「……いえ……」
なんでこう、唐突に来るのかな。
ドア口で固まるアルス王子に、水読に抱きかかえられるような格好のまま私も固まった。落ち着いた藍色の上着の肩越しに、隣室からリコとサニアが心配半分、好奇心半分で覗いていた。目が合うと二人してニコッと微笑む。後で質問攻めか……。そしてその光景も、後ろ手にドアを閉めたアルス王子によってすげなく遮断された。私なら、逆に向こうに引っ込むけどなあ。
「ミウさん、まだ残ってますよ」
水読がまるで他の人間など居ないかのようにのたまい、口元のグラスを傾ける。だからちょっと待てって……ていうかなんで飲ませる。どいつもこいつも理解不能だ。
私はグラスを奪い取ってぐいっと煽りながら、白い長衣の肩を押しやった。ジルフィーが水読に触れないように間に割り込み、ブツブツ文句を言われている。
「それで、アルス王子はどうしてここに」
「……お前が倒れたって聞いたから来たんだろ」
アルス王子は、怒ったようなやるせないような複雑な顔をしていた。
昨夜は知らされていなかったらしい。多分、その目を使って仕事をさせるにはまだ未熟なんだろう。前にクラインにそんなような事言われてたし。一夜明けてから耳にし、すぐ駆け付けてくれたのだ。その表情から随分心配してくれたと分かって、少しジーンとしてしまった。
しかし来てくれたものの、何だかこちらに近寄る事も戻る事も出来ない様子でドアの前に立っている。
水読が困ったように眉をひそめ、穏やかに諭すように言った。
「そういった事情でも、いきなり女性の寝室に押し入るのは如何かと思いますよ」
一体、どの口が。
ふてぶてしいにも程がある。




