11 ケーキ皿の上の夢
水読には歴代共通の別称があるそうだ。
「奴が、七つまで自我がないと話していたのを覚えているか?」
「はい」
平和になった応接室で、私はケーキのお皿を手に頷いた。
年齢詐称の話なら忘れもしない、あの大嘘吐きが発覚する発端となった情報である。王様は淹れ直されたお茶に一度だけ口を付け、私にその魅惑的な目を向けた。
「水読は皆、満7歳になるまで“全知”と呼ばれる。その名の通りあらゆる知識を備え、『この世の全てを知る』という意味だ」
「全てを知る……それって例えば“泉の乙女”のあれこれとか、月の動かし方も?」
「通説通りならな。誰に教わらずとも完全な治水を敷き、その代の中でも最も水が安定するのが”全知”の7年間だ。自我を得た後の水読は、水を操る手段をその時期から引き継ぐ。書物にも口伝にも無い“泉の乙女”関連の知識を持っているとすれば、その時一緒に特殊な情報も持ち越している為だ」
「じゃあその時期なら、何か分からない事があっても何でも聞き出せるんですか……?」
どちらにしても、今の水読とは時期が合わないから駄目だけど。
「いや、それは時期が合っても叶わない。水読は満7歳を過ぎるまで一切の言葉を口にせず、感情表現も無いと言うからな。赤子であっても泣きもしないそうだ」
「へえ……」
怖い子供だな。
「意思の疎通が可能になると同時に、“全知”は失われるとされる。が、それが真なのか、また水読がその名残をどの程度保持しているのかは、当人の他には知る由もない。そう言えばお前、水読に“二の月”に関して調べてくれと頼まれたのか?」
「えっ、いえ……」
頼まれたのかと言われれば、そうじゃない。
かつての記憶を振り返ると、私は”二の月”に関してはその必要性と、“泉の乙女”こそが事情を知っているが水読は知らない、と言われただけなのだった。是が非にでも方法を探しだしてくれ、とは言われていない。私は自主的に調べていた。
「そうか。ならば先程も言ったが、帰還に関しては水読に任せても良い様に思う。あれは、可能性の薄いものに入れ込む質ではないようだからな。盤を挟んでよく分かった。初めは勝ちに来たが、途中で手を抜き出した。早く帰りたかったらしい」
「へえ……」
じゃあ何でゲームとか引き受けたんだ。そう言ったら、王様は私が勧めたからだと答えた。本当に水読って何なんだろ。
「慎重でもないが、向こう見ずでもない。周到な性格だ。お前と目的を違えぬのであれば、既に最善を尽くしているのだろう」
「……なるほど」
王様、そんな事を考えながらゲームしてたのか。
そして、水読が知ってて言わない事に関しては、やっぱほっとくのが一番という結論になった。“二の月”に関して分からないからと言って、そんなに悲観的にならなくてもいいのでは、というのが王様の見解だ。水読は私には分からないという事を見越していて、且つ可能性が無いとは考えていないと。
「但し、重ねるがくれぐれも油断せぬよう気を配れ。俺の懸念はそれだけだ。下手に刺激して気を変えられては困るだろう? 今朝の様な事がまたあれば、俺は保証できんぞ」
「は、はい」
それはもう、仰るとおりで。しかしあの人がもうちょっとまともっぽい感じなら、謎多き人物でもこんなに悩まなくて済むんだけどな……。
地味に愚痴りつつ、私はフォークでタルトを切り分けた。淑女のマナーとしては一口を小さめにする事が肝心との事だが、そうじゃなくても甘いものはチマチマと大事に食べるのが美味しい。ほろ苦いキャラメルクリームにサンドされた煮リンゴは、お酒がたっぷり効いていて、ちょっと辛いくらいだった。でも同時にこってりと甘いので、そのハーモニーがまた癖になる。
会話が途切れると、部屋は静かだった。聞こえるのは薪の弾ける小さな音と、時々窓を揺らす風の音。後はせいぜい、私の立てる微かな食器の音が紛れる程度。
また一口タルトを頬張りながら、私は自分が案外リラックスしている事に気付いた。好き勝手にベラベラ喋り散らす水読に、ついいつもの調子で突っ込んでしまったせいだろうか。その雰囲気で王様とも普通に会話してしまった。まあいっか、緊張してるよりは。
当然最初からずっと寛いでいる王様は、考え事をしているのか、今はただ暖炉の火を眺めている。何を思っているんだろう。
抱えていた慢性的な不安は今、驚くほど大人しくなっていた。
王様の言葉には、不思議な力がある。
推測に過ぎないとしても、意見を聞けばすっかり納得して安心してしまうし、何かわからない事があっても、それでも何とかしてくれるような頼もしさがあるのだ。
この人が、この人さえ居ればと。
「……ああ、だからかぁ……」
「ん?」
私は、独り言だと首を振った。
こんな風に思わせてしまう人だから、何でも出来てしまうから、普通の人の何倍も色んな事を考えているから。期待と能力と必要性が揃っていたなら、寝る間も惜しむ生活にもなるかもしれない。
そして私や大臣達やこの国の人には王様がいるけど、王様にそういう人はいないのだ。
その目がこちらに向けられていないのを視界の端で確認してから、私は密かにその姿を見た。ゆったりと寛ぐ王様は相変わらず気品に満ち溢れ、生まれてこの方、気懸かりなど一つも抱えた事のないような優雅さである。そんなわけないのに。
今ここに居る私は、彼の邪魔にはなっていないだろうか。
どうせならマロン大臣が言うように、本当に癒しになれてたら良いのにな。
実態はこの髪が、目が、存在が気懸かりそのものだとしても。
◇ ◇ ◇
気が付くと見慣れた部屋に居た。
分厚い本がびっしり並んだ、背の高い本棚。
曲線的な模様が大胆に織り込まれた、深い色の絨毯。
王様の執務室だ。
ただ、以前朝食を出して貰ったテーブルは無くて、ソファも無い。
飴色に磨き上げられた執務机に、部屋の主の姿があった。
「誰だ?」
「美雨です」
呆然と部屋の真ん中に突っ立ったまま、私は答える。
机の上には、書類が山を作っていた。
王様は顔を上げず、紙面に白い羽ペンを滑らせている。
彼の背後、一面の窓の向こうは不思議な淡い光で満たされていた。
ガラス越しに見える、柔らかな金色のカーテン。
濃霧に日が差したようなそれは随分厚いらしく、光以外に何も見えない。
部屋にも光が浮かんでいた。
それは、金色に輝く文字だった。堂々とした、美しい筆跡だ。
王様の握る羽ペンの先から、金のリボンのようにするすると滑らかに流れ出し、鮮やかに燦めいては空中へ舞い上がって行く。
私は、絡み合う蔦葛のようなそれを目で追った。
見慣れない固有名詞はどこかの地名のようだ。
書面から上げられることのない、若葉色の目をじっと見詰める。
次々と生まれる金文字のリボンは、くるりと回りながら本棚の隙間へ吸い込まれていき、紙束はあっという間に無くなった。
王様はようやくペンを置き、目を上げて少し微笑んだ。
「さて、何が聞きたい?」
つい最近も耳にした気がする台詞に、私は瞬きを返す。
聞きたい事……。
「私、どうしてここに?」
「お前が呼んだんだろう?」
「私が?」
「ああ」
王様は頷く。ちぐはぐな問答だが私は納得していた。
そうだ、私が引っ張り込んだんだっけ。
それよりも、最初の話をしなければ。
生き物は食べないのと眠れないのだったら、眠れない方が先に体を壊すと聞いた事がある。
「だから、眠らないと駄目ですよ」
「そうだな」
王様は、少し困ったような顔をした。
しょうがないな、と聞き分けのない子を見る親のようでもあり、通らない我儘を諦めた子供のようにも思えた。
「分かってはいても、眠る暇が惜しい。俺の目が伏せている間に、見逃してはならぬものが通り過ぎては困る」
「見逃してはならぬもの?」
彼は肘を付いて両手の指を組み、そこへ顎を乗せる。
「人を探している」
「……どんな人ですか?」
「黒い目に黒い髪。夜のような女だ。追えば必ず逃げる」
夜のような。
あまりに聞き慣れた比喩。
「それは、別の国の人じゃないですか?」
「ああ。我らとは理を違える者だ」
――いつかしら、私の胸は高鳴っていた。
黒い目なら、黒い髪なら持っている。
私、持ってる。
「それって、その人って……――私じゃないですか?」
「違うな」
期待は地に落ち、ずしりと体が重くなる。
僅かに開かれた瞼から、いつにも増して光り輝いて見えるエメラルドの瞳が覗いた。
「――その者は、”ミナ”と言う」
ミ、ナ。
「会いたいんですか?」
「……いや? 俺ではないよ」
王様は、何かを懐かしむような穏やかな笑みを浮かべ、再びゆっくりと目を閉じた。
俺ではないよ。
私は、耳に残るその柔らかな否定を繰り返していた。その前に「違う」と言われて傷ついた心が、薄布でくるんだみたいに少しだけ安らぐ。
「その人が見つかれば、眠れますか?」
「そうだな」
答える声は苦笑混じりだった。肯定しながら諦めを含んでいる。
何故? そんなの、あり得ないと思っている?
何だか無性に切なくて、私は彼を慰めたいと思った。だけど足はそこへ棒立ちのままだ。
踏み出すべきかと迷っている内に、王様の座る執務机がぐんと遠くなった気がした。
否、実際に遠のいている。部屋がぐんぐん伸びて、私の立つ床はどんどん窓際から遠ざかる。ブロンドが窓の外の光に溶けて、じきに見えなくなる。
「私、探します……!」
私は思わず叫んだ。
「その人探して、見つけたら知らせますから――」
だからそんな顔をしないで。
返されたのは多分、変わらない微笑みだろう。
しかし。
「腹を決めもせず、出来ぬ約束をするものではない」
図星を突かれ、羞恥がかあっと胸を染める。
「お前はおかえり」
美しい、音楽のような声。
「帰る場所があるのだろう。知らぬ事こそが祝福さ」
果てない空間に響き渡るそれは、一人の声であるのに多重にも聞こえる。
もし目に見える形にするのならば、きっとあの華麗に舞い踊る黄金の筆跡そのものだ。
体中の骨が共振している。心も。
密かに諦念を孕む響きに、誰のものとも分からないやるせなさが私を満たしていった。
◇ ◇ ◇
小さな話し声に目を覚ました。
何だか頭がボーッとする。うつらうつらと瞼を上げると、離れた場所に声の主達を見つける。部屋の奥の机の所。王様と、クラインだ。書類を手に、何か静かに言葉を交わしている。
「…………?」
あれ。なんだっけ……?
横たわったまま眺め、王様の印象がどこか違うのに気が付く。何だろ……ああ、上着を着ていない。
などと考えながらムクリと起き上がると、よく似た二対の瞳がこちらを向いた。
「ミウ」
「ああ。目を覚ましたか」
「並ぶとゴージャス……」
「何だ。寝言か?」
寝言?
というかここどこ?
「俺の部屋だ」
「……あ」
天井には豪華なシャンデリア。思い出した。私、今日ここでお昼食べた。すっかり執務室に居たものと思ってたけれど、さっきまで座っていたソファの上だ。
ふと自分の膝を見て、掛けられていたものに気付く。少し重たいけど温かい、しなやかな毛織物の仕立て。記憶に馴染んだ深い色味をしている。
ってこれ、う、上着……!
「す、すいませ……! 私、寝てました!?」
いつの間に!?
火が出るとはこの事か、顔がめちゃめちゃ熱い。面会中だったのに、私いつ寝ちゃったんだろう……いびきとかかいてたらどうしよう? その間王様は仕事してたのかな、っていうかクラインまでいるし。
あたふたと立ち上がって、手の物を弛く畳む。掛かっていたのは、王様のコートだった。よ、ヨダレとか垂らしてないよね? 大丈夫!?
「こ、これ、どうしたら……」
「その辺に置いておけ」
「はい!」
今朝の事だけでも恥ずかしいのに、更にこんな所で寝こけるとは、今日の自分恥かきすぎじゃ。
大いに動転し、私は取り急ぎ上着が皺にならないよう、出来るだけふわっと背もたれに掛けた。それ以上は身の置き場がない。
これはもう、逃げるしか。
「あの、どうもお邪魔しました!」
前屈の勢いで日本式に頭を下げて、ドアに直行する。頭からは、リコの選んでくれたドレスも、サニアに教わったそれに相応しいお辞儀の仕方も全部吹っ飛んでいた。
応接間を飛び出し、前室に控えていた侍女や侍従にびっくりされつつ廊下に抜ける。何か声を掛けられたけど、お構いなく的なジェスチャーとアイコンタクトで凌いでそそくさと逃げて来てしまった。
廊下に出ると、火照った頬に冷たい空気が気持ち良かった。並んだ沢山の窓の外は、夕暮れ時だ。
で、塔ってどっち!?
部屋を出て右、と思っていたのに、どれだけ廊下を進んでも来た時に通った階段が現れない。道を間違えたか。少しウロウロしてから引き返した方が良いかと足を止め、しかし羞恥心に悩む。
その時、奥の突き当りに白いドアがある事に気付いた。ガラスを嵌め込んだ小さな窓からは、暮れゆく木々が見える。
そうだ、庭に出ればいい。
城の庭は、大抵どこかしこの廊下と繋がっているのだ。複雑な城内をぐるぐるするよりは、一旦外に出て突っ切った方が大幅に近道になる。
出来ればどこかから、ちょっとだけでもいいから塔が見えるといいんだけど……。
そう思ってドアに近付き、ノブに手を掛けた時。
「――そこはいけない!」
突然声が掛かり、私は驚いて振り向いた。




