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雨の冠  作者: 桃宮
5.日陰
50/103

22 聖堂にて(3) -- 「幸福な愛」

 


「――私はちっとも不思議に思わないわ」


 鈴を転がすような、可憐な声。




 気がついた時には、随分様子が変わっていた。

 場所は、どこか知らない部屋だ。窓の外は暗く、暖炉で薪が弾けている。

 目の前には、一人の女の人が居た。

 とても綺麗な人だ。

 年は恐らく10代後半から20代前半、深い茶色の豊かな巻き毛に、つんとした鼻、紅色の唇。少しつり上がった猫の様な青い目は、やけに見覚えがある。


「でも、二十も年上なのは嫌ね」

「これっ! なんという口を聞くのです!」

「私はブロットに話してただけよ。お母様には言っていないわ」


 やや高慢で気の強そうな口調は、容姿と合わさると小悪魔的な魅力に変わる。

 一体誰だろう。そしてここは。

 ブロット氏の名前が出てきたけど、彼は?


 状況が分からないうちに、視界が魚眼レンズのように歪んだ。

 ぼやけた景色が飛ぶように流れていく――。







 ――次にピントが合った時には、昼間になっていた。

 大きな出窓から日差しの入る、豪華な応接間。その青い絨毯敷きの床を、絹のドレスを着た女性が落ち着きなく歩き回っている。

 さっきの人だ。だけど、先ほどより少し大人っぽい。


「皆、私のこと馬鹿にしてるんだわ。不吉だなんて、何で私がそんな事言われなきゃならないのよ!」


 元々綺麗な顔立ちは、化粧により更に垢抜けた美しさに変化していた。苛々と髪をかき上げる度、レモン色の、大粒の宝石があしらわれた耳飾りが誘うように光る。


「――……、――?」

「嫌よ、子供なんて嫌い」


 その気位の高さは、欠片も変わっていないようだ。


「冗談はよして。逃げ帰るなんて御免だわ」


 物怖じしない、ハッキリとした物言いを好ましく見る。

 この世の誰よりも素晴らしい。

 見れば見るほど、胸が苦しくなった。

 そして再び、景色が歪む。




 その次も、また似たような部屋だった。内装が違うが、同じ場所かもしれない。

 あの女性は……居た。長椅子に身を投げ出し、頬杖を突いている。

 髪を優雅に結い上げ、そのおもては相変わらず美しく、しかしどことなくやつれた感じがした。翳りの差す表情は益々大人びた印象を与えるが、細い腕や腰は未だ少女のようだ。


「――――」

「――……何よ、煩いわね!」


 ヒステリックとも言える、苛立った声が響く。

 見れば、部屋の扉が開いている。

 その隙間から、幼い子供が顔を出していた。2歳くらいだろうか? おぼつかない足元と、扉の枠に掛けた手の小さい事――。


 って、むっちゃくちゃ可愛い。どこぞのエンゼルさんですか。これは、ポスターにされて全世界で発売されていなければ……!

 その後ろに立つ侍女が、緊張の面持ちで何か言っている。何と言っているかは聞き取れなかったが、その間その子は部屋の中を覗きこみ、こちらを不安気に見上げた……か、かわええ!

 悶絶しながら、私ははたと気づく。


 これはもしかして、過去の出来事だろうか。


 小さい子は、服装からして男の子だ。

 ドレスの女性とよく似た大きな青い目。まろやかな白い頬に映える癖っ毛は、漆黒。どうにもこうにも、アルス王子としか思えない。

 ……となると、この女性がマリエラ妃か。なるほど。見た目だけでなく、気性の荒そうな所もそっくりかも……。

 状況はさておき納得していると、不意に、複雑な感情が湧き出してくる。


 ――憎い。

 けれど、憎むには余りにも似ている。


「――って言ってるでしょ! ――……わよ、……――!」


 思考を引き裂く激しい声が上がる。

 胸を押さえてうずくまる子供。

 視界が遠のいていく――。







 夜。

 塔からの帰り。慣れない生活は苦痛ばかりだが、彼女に会えると思えば全て吹き飛ぶ。

 我が身に振りかかるこの程度が、一体なんだと言うのだろう。彼女の方が余程孤独で、日々辛い思いをしているのだから――


 しかし応接間を尋ねると、先客が居た。


「初めてお目に掛かります」


 普通ではあり得ない丁寧な対応は、こちらを下男ではなく王妃の私的な知人として扱うもの。

 立ち上がって優美な礼を取ったのは、一人の少年だ。

 真っ直ぐ垂れる、混じり気の無い金髪。

 歳にそぐわず大人びた、隙のない身のこなし。



 ……見間違えようがない。クラインだった。

 こちらも随分幼いが、幾つだろう。10歳くらいかな? 12、3には見えない。今と少し印象が違うのは、瞳に強い輝きがあるせいか。

 やはりこの頃から抜きん出た容姿だったらしい彼は、大人の服をそのまま小さくしたような正装に身を包んでいた。これがドレスなら、すんなり美少女だと思っただろう。



 衝撃的だった。

 これまで、彼女より美しい人間が存在すると思った事がなかった――いや、彼女こそが至高。比べるなど馬鹿げたことを。

 驚きから立ち直ると、明確な憎しみを感じた。

 この少年が。これが、我らの運命を呪った御子。


「……アルスに会いに来たんですって」


 そっけなく言う可憐な声には、僅かに戸惑いが含まれていた。

 思えばこの時から既に、嫌な予感がしていた。


 また、幾つもの景色が飛んでいく――。






 日の短い季節、葉を落とさない庭木が整然と並んでいる。


「憎たらしい、あてつけのように顔を見せて!」


 早足に歩き、彼女は手に触る木の葉を毟り取っては打ち捨てた。

 その声から苛立ちと共に、どこか浮き足立ったものを感じる。上手く慰める事など出来ず、ただ狼狽えながらその歩みを追う。子供じみた所作は高貴な身分に似つかわしくないが、幼少から慣れ親しんだ自分にだけ見せる姿と思うと愛おしい。


「ブロット、聞いてるの!?」


 名前を呼ばれると、内容に関わらず胸がときめいた。



 …………ん?

 あれ……? 何で私がときめくんだ。

 それに、さっきからブロット氏の名前が出ているけれど、彼はどこに居るんだろう。ついでに言えば、私も一体どこに。

 まるで実体が無くなったかのようで、自分の感覚がよく分からない。何だか意志とは関係なく、ただ風景の上を流されている。


「あの子さえいなければ……」


 マリエラ妃らしきその人が、忌々しげに呟いた。これは、彼女が口癖のように言っている言葉だった。


 対象はあの少年の時もあれば、…………。


 いつの間にか、木々の影が背丈を伸ばしていた。

 植物や彫刻、庭の何もかもが斜陽を受けて物寂しく移ろう。

 彼女に会えるのは決まった時間だけ。もうそろそろ、暇を乞わねばばならない。

 無理に召し上げられた塔に通い、帰りたくもない屋敷に帰る。しかしこの縁組が無ければ、彼女に目通りも出来ないというのだから仕方ない。密かにため息を吐く。…………。




 それからしばらく、ぼんやりと歪んだ映像ばかりが幾つも過ぎ去っていった。


 …………。


 ……あ、今は私だ。

 私は、唐突に自分の意識を自覚してホッとした。何だかずっと、別の人に思考を乗っ取られている気分だった。何故、と疑問に思うと同時に、確信のようなものがストンと胸に落ちる。


 これは、過去の出来事だ。ブロット氏の記憶。


 どういう訳か私は今、その中を漂っている。彼の姿が見えないのは、自分で自分の顔が見えないように、氏の目線で今までの内容を見ているからだ。

 でも確か私はさっきまで聖堂に居たはずで、ブロット氏もそこに居たのだけど……どうしてだろう、それ以上の事を上手く思い出せない。

 ぼやける脳裏を探る内に、景色の方が先にピントが合う。




 そこは塔の回廊だった。

 向こうからやってくる人影は、またしてもクラインだ。すらっとした、しなやかな体躯。頬の輪郭に多少の甘さが残るものの、彼は既に今と遜色ない美少年に成長している。

 研究会の帰りだろうか、数人の学者と共に歩いていた彼は、目が合うと遠慮がちに頬笑みを寄越した。

 白い床が目に入る。視界の主であるブロット氏は、型通りお辞儀をしてやり過ごした。

 通路に跳ね返る軽い音と共に、私が持っていないはずの知識が浮上する。靴底に金や石を仕込むのは、貴族的な風習だ。音もなく現れて召使いを驚かさない様に。


 目の奥に焼き付く、類まれなる美貌。長い前髪に隠された、忌まわしき左目。

 途端に憎悪が雪崩れ込み、心を真っ黒に染め上げる。

 最近は彼女に呼ばれる機会が減った。

 理由は分かっている、その少年が現れた為だ。


 憎い。

 憎くて仕方がない――。




 さて、この国では“乙女の黒”は古くから吉兆、幸運の色とされてきた。それに準じて、茶や消炭のような濃色も神聖視される。

 それらの色を持って生まれた子は多くの場合“泉の乙女”に因んだ名を与えられ、近年では特に世継ぎの伴侶に望まれていた。”黒”が太陽の血筋から最も遠いとされるためだ。先代正室であるフィーネ后も、茶の瞳を貴ばれ幼少より王太子の許嫁にと推された。

 しかし第二子に“呪い”が出たのは先の通り。


 ほぼ髪の色だけで側室に召し上げられたマリエラ妃は、生家を離れ王宮へ入った。

 元来気が強く、プライドも高い彼女は味方を作るのが上手くない。

 しかも“呪い”を回避するための成婚が再び“呪い持ち”のアルス王子を呼び、悪いことにその奇特な髪の色ばかりを一段と濃く受け継いでしまった。

 ――彼女は、不吉とそしる声に耐えられる性格ではなかった。


 夫となった先代は、彼女をよく気遣っていたはずだ。フィーネ王后でさえ、その年若い二人目の妻に同情的だった。それでも日に日にやつれ、マリエラ妃は精神を病んでいく。

 そしてとうとう、ブロット氏に声が掛かった。彼は彼女の家の召使いの息子で、幼少からずっと彼女に仕えている人物だった。気難しい彼女が気を許せる相手は、極限られている。

 しかし地方貴族の下男のままでは王宮へ、ましてや王妃の傍へなど上がれない。氏はマリエラ妃の遠縁を頼り、養子縁組をして家名を得る。

 ただし事情により今度は召使いではなく、厳しい慣習に則り神官としての職務を全うしなければならなくなったが。





 そして、場面は変わる。

 ――ああ、これが最後の記憶だ。

 何とは無しに予感する。


 星も凍るような、ある冬の日の夜。


「……放っておいて! 近寄らせないで頂戴!」


 侍女に向かって叫ぶ、鳶色の髪の女性。燭台の火を受けて、その瞳は異様な光を放っている。


「マリエラ様……」

「何よ、煩いわね。帰って! 帰ってよ!」

「で、ですが……」

「何よその目は! 私が何をしたって言うの!?」


 髪を振り乱し、声を荒げる姿に息が詰まる。

 どうして自分は、何もかも上手く出来ないのだろう。このかんしゃくが治まるまで、いつだってひたすら待つしかしようがなかった。何か言えば、却って彼女の気に障るのだ。

 しかし欠片も苦痛ではなかった。それで気が済むのなら、この上ない幸福だと思う程に。

 彼女は、怒りによってより一層美しく見えた。燃え上がるような激しい気性こそが、彼女の輝きに直結しているのだ。


 しかし、今日は様子が違う。


「知らないわ……皆嫌いよ、大っ嫌い! 煩いわね、文句を言いに行くだけよ! あの子、私を無視したのよ!? あの“呪い持ち”が!」


 その罵倒に、ぎらつく眼に、あってはならないものを見つけて血の気が引く。

 これまでずっと、思い過ごしと目を伏せてきたのに。


「全部あの子が悪いのよ、あの子のせいで……!」


 怒りや嫌悪に紛れる不安と高揚、罪悪感。

 浅ましさをどこかで恥じながら、それでも期待に縋る心。

 様々な感情が混ざり合い、これまでもじわじわと彼女を狂気に導いていた。


 立ち去れと命じられれば、自分に従う以外のすべは残されていない。

 胸の内を塗り潰す、あの少年への激しい怒りと憎しみ。

 彼女によく似た黒髪の子供は、今は別室で暮らしている。顔など禄に見ていない。罵声を浴びせている所なら、何度か耳にした。その幼子を差し置いて、彼女の向かう先はあの王子――義理の息子の元だという。


 ――ああ、愛されてなどいなかったのか。

 私は悟る。

 彼自身も、アルス王子も。

 先代の妻であり、アルス王子の母であるマリエラ妃の心を占めていたのは、他の誰でもなくクラインだったのだ。実の子よりも、ままならない不義の相手を選んだ。深い傷を残す愛を。あてつけの死を。


 地の底から湧き上がるような、凄絶な憎悪が流れ込んで来る。


 彼が存在しなければ。

 あの目に、忌まわしい痣が出なければ。

 鳶色の髪に生まれなければ。

 “乙女の黒”などと伝わらなければ。

 胸に“呪い”が刻まれなければ――御子など――


 ――アルス王子など、生まれなければ。





 ……これだ。


 これがブロット氏が隠したかった秘密か。

 その事実に、諦めのような納得のようなものを感じる。これはマリエラ妃の言葉でもあり、氏の本音でもあったのだろう。最後のその言葉を、知られたく無かったのだ。

 だけど、それを隠そうとする事はつまり――。



 ――――花嫁の装束は生糸の色だ。未染いまだそまらずを示している。婚礼の儀を目にする事は叶わなかった――その時はまだ、たかだか使用人風情であったのだし、心情的にも――……。



 思考を破って、私のものではない意識が頭に入り込んでくる。

 もういい。もういいよ。

 この先に彼にとって最も辛い記憶があることを察し、目を覆ってしまいたかった。

 それなのに、構わず周りの景色は移り変わる。



 夜の庭に、さらさらと雪が降っていた。

 闇の中だというのに、不思議なほど辺りの景色がよく見える。

 街灯もネオンも高層ビルも無いこの世界では、月のない晩は本当に真っ暗だ。

 本当なら、足元もおぼつかないほど何も見えないはずなのに。


 空から落ちてくる雪の白さ。

 それを見上げながら、ぼんやりと思う。

 雪は、生者と死者を選り分ける。

 この手に触れれば溶けてしまうそれも、熱を失いゆく彼女の上であれば、いずれ。



 彼女の部屋を辞した後、泊りの番で塔に詰めていた所へ飛び込んできたのは、思いもよらぬ訃報だった。

 心臓が凍りつく。

 身分も規則もかなぐり捨て使者を問いただし、場所を聞くとすぐさま詰所を飛び出す。

 足音が反響する石壁の廊下。呼吸の度、氷水のように冷え切った空気が肺を刺す。

 寒さのせいかそれ以外の理由か、感覚の無くなった手足はもつれるばかりで使いものにならない。どれほど早く、早くと念じても、それはただそれだけ。



 ――ブロット氏。

 どんな表情をしているのかは、容易に想像がついた。歯を食いしばって何かに耐える姿なら、覚えがある。

 マリエラ妃が、城の一室から身を投げた夜。

 彼は今、その現場に向かっている。そこにある絶望を確かめる為に。

 ……ど、どうしよう。これから何を見なければならないのか。

 膝が笑い、息が途切れ途切れになっても、その足は止まらない。

 薄暗い庭の階段を駆け上がり、何度も角を曲がって近付いて行く。

 見たくない。

 見たくない!!

 私は、自分が悲鳴を上げたと思った。しかし、耳には何も聞こえなかった。








 結局、その惨状そのものを目にすることは無かった。


 恐らく、ブロット氏も思い出したく無いのだろう。

 城の一角。その記憶は、光で編んだような純白のレース模様で、幾重にも幾重にも覆われていた。この上なく優しく包み込む。柔らかく、安らかに眠れるように。

 雪の落ちる屋外は凍える寒さであったはずなのに、その記憶に掛かる綾模様は慈しみに満ちて温かい。


 そして、胸が張り裂けるほど悲しかった。








 昼間の灰色の曇り空に、遠くで低い鐘の音が響く。

 嘘寒いそれは、目にする事の無かった婚礼の鐘と重なった。


 幾つも幾つも、白い花が降っていた。

 これまで見てきた、鮮明な記憶。


 ――花嫁の装束は生糸の色――……。


 見上げて理解する。

 色褪せるはずがないのだ。

 手向けの花には、元々薄れる色などありはしないのだから。


 なぜ彼女に、”黒”の名など与えた!

 幸せを呼ぶなど、虚偽に満ちた迷信だ。

 “泉の乙女”にそんな力があるのなら、どうして救ってくれなかった!


 声にならない声が、彼女の名前を呼ぶ。

 最後の乙女、”悲恋マドエラ”の名は否定の語。

 本来の形は”マリエラ”。


 つまり、「幸福な愛」。


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