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雨の冠  作者: 桃宮
5.日陰
44/103

16 白か黒か(7) -- 荒療治

 言葉をなくし、私はその淡い色の目に魅入られた。


 ――貴女が居れば、それでいい。


 なんて魅惑的な誘いだろう。今までなら即刻突っぱねそうなその台詞が、何故か今日はぐらぐらと心を揺する。

 何も心配いらない。

 風に煽られ、どこにたどり着くかも分からないちっぽけな身の上も、その海に投げ出してしまえば全て溶けてなくなる。閉じた世界で互いだけを見つめ、孤独を癒す関係は、どんなに楽で心地がいいことか――。


 そこで、私はハッとした。穏やかな瞳に潜む渇きの正体を思い出し、辛うじて陸に踏みとどまる。危ない。この人は違う。恐ろしい程甘い嘘だ。水読のそれこそ、違うんだから。自分と同じ「それ」を求めているに過ぎない。

 この人こそ、私が“泉の乙女”じゃなかったら、そんなこと言わない。


「では”辞め”ますか?」


 不意に伸ばされた手に、私はビクッとして後退った。バランスを崩し、床に落ちる。ソファの肘置きに座っていたことを忘れていた。


「いった……」


 尻餅をついた所で、場の緊張がほどけた。痛みに顔をしかめる私を見下ろし、水読は大丈夫ですか、と苦笑する。


「嫌ですねぇ、そんなに驚かないでくださいよ。ただの冗談ですって」

「そ、そうですか……」


 へらっとした笑顔で手を差し出され、ぐっと引き上げられる。

 この雰囲気で冗談て、相変わらず質が悪過ぎる。本気で冷や汗が出たじゃないか。

 立ち眩みでふらつく肩を支えられ、私はしっかり立ち上がった。もう大丈夫だと体を引こうとした所で、手が離れない。……またこの人は。


「あの」

「…………」

「……水読さん?」


 いい加減離せと言いかけて、何か様子がおかしいことに気付いた。

 水読はピタリと動きを止め、何故か驚いた顔で呟く。


「ミウさん、手が熱いです」

「え?」


 それがどうした。

 と思って見上げた途端、目の前が陰った。


「な」


 鼻先がぶつかり唖然とする。触れる額が冷たい。


「なんですか、ちょっと……」


 問答無用で合わせられた額を押しのけようとして、再び眩暈に襲われた。よろめいた私を、同様に水読が支えソファへ導く。

 へたり込むように座った私の横へ自分も腰を下ろすと、水読は「お願いがあります」とごく真剣な声で言った。


「胸元を見せて頂いても宜しいですか」

「……は?」


 私は目を剥いて隣を見た。宜しい訳がないだろう、何言ってんのこの人。ああ、勢い良く振りすぎて頭がガンガンする。

 しかし水読は、神妙に繰り返す。


「ほんの少しで結構ですから、ちょっと見せてください」

「何が結構ですか、嫌に決まってるでしょう」


 やば、やっぱ変態だ。油断した。慌てて立ち上がろうとした私を、長い腕が即座に捕まえる。冗談じゃない。逃げ出そうと暴れるが、動くほど頭がクラクラしてくる……あれ、もしかして私、具合悪い?


「少し、大人しくしていてください。変な意味じゃないですから」


 変な意味ってなんだ。そうじゃないってなんだ。


「い、嫌です。触んないでください。なんか具合悪いみたいなんで、私もう……」


 寝ます、と言って突っ張った腕は水読に掴まれた。そのまま仰向けにソファに押し付けられる。


「ちょっ……!」

「怖がらないでください、何もしません。少し、確認したいんです」


 何を!?

 視界がぐるぐるする中で焦る。なんだこれ、風邪でも引いたのかこんな時に……! そうだ、見張りのおじさんに……!


「た、助け……!?」


 声を張ったつもりなのに、しなびたような弱々しい音量しか出てこない。喉にもお腹にも力が入らない。


「大丈夫ですから、じっとしていてください」


 そう言う水読も、なんだか焦っているようだった。私の襟元に手を伸ばすと模様織りのリボンをほどき、片手で妙に手際良くボタンを外していく。

 一つ二つと外されるそれに、私は想像以上にショックを受けた。


「やめて、水読さん。約束と違うじゃないですか」


 嫌って言ったら止めるんじゃなかったのか。


「ではご自分で見せてくれますか?」

「は!? んなわけ……!」


 意味が分からない。しかし阻止しようにも、伸ばした両手はいとも簡単に頭の上で纏められる。恐怖でぶるりと背筋が震えた。


「離してください、やだ! ほんと、怒ります、よ」


 必死で訴える間に息が切れてきた。体が熱い。多分、熱が出ていると思う。

 私は朦朧としつつ全力で暴れた。効果は薄そうだったが、驚愕と恐れが体を動かす。水読が分からない。何をしようとしている? 腕が解けない。なんで? 嘘吐き、怖い、怖い!


「ミウさん、落ち着いて。少しだけ見せてください。何もしません。……というか、何もされたくなかったら抵抗しないでください」

「や、やだ、離して、誰か……」

「ミウさん!」


 水読が語気を強めた。初めて聞く声色にビクリとする。


「じっとしててくださいってば。そういう風にされると、余計……――そそられます」


 低く囁かれ、私は一瞬で動きを止めた。いつものヘラヘラした声じゃない。

 水読は硬直する私の手を縫い止めたまま、左手で残りのボタンを外した。しゃくりあげそうになる喉を、寸での所で耐える。奥歯を噛み締め息を殺していると、前を少しはだけた所で彼の手は止まった。そして、いつになく真面目な顔つきで問う。


「……ミウさん、アルス殿下に何かされましたか」

「……?」

「ここに、触られましたか」


 細長い指先が、胸の真ん中に触れる。氷のように冷たい。その温度に驚きながら、私はブンブンと首を振った。そこに何かあるのかと顎を引いて自分の胸元を見ると、触れられた辺りが奇妙に赤くなっていた。


 なにこれ。

 一瞬羞恥も忘れて、その赤い跡を見る。


「本当に、何もされてないんですか」

「は、はい……?」


 されてない、と思う。首は締められかけたけど。

 そのことは言わなかったのに、水読の顔からは一切の表情が抜け落ちている。こんな状況なのに、ニヤニヤもヘラヘラも無いのが妙だった。

 ――というか、何か。


「怒ってます……?」

「まさか」


 水読は、にっこりと微笑んだ。しかし三日月型につり上げられた唇とは裏腹に、目は真冬の川底の様に冷ややかだ。

 間近に見上げ、瞬きもしない眼差しにゾッとする。


「腹が立たないとでも?」


 血の気も凍る、冷淡な微笑。

 それは何故か、この人に最も相応しい表情に思えた。


「許しませんよ。篝火の分際で“乙女”の身を焼くなど」


 呟くと、水読はおもむろにそこへ顔を埋めた。


「あつっ……!?」


 熱い。いや、冷たい。

 肌が濡れる感触に、全身が総毛立つ。


「動かないで。消します」


 消す? 何を?


「い、嫌です、なんでそこ……」

「では唇にしましょうか?」


 上ずる声で訴えると、水読はチラリと目を上げた。そこには青い炎が燃えている。意味が分からないまま、私は半泣きで首を振った。何で怒ってるんだ。私に怒ってる?

 固く目を閉じ、震えを抑えながら胸元の感触に耐える。恐ろしさと混乱で、気持ちがバラバラになって収集がつかない。

 しかし間もなく、変化に気が付いた。口付けられた胸を中心に、氷水のような冷たさが体を廻っている。ひんやりしたその感覚は、私をほんの少しだけ落ち着かせた。

 水読が、何かしている。

 戯れでも嫌がらせでもなく、何か必要な事をしている。

 およそ人肌とは思えなかった唇の温度が、心地良いものに変わりつつある。向こうが冷たいんじゃない、私が熱かったんだ。

 熱っぽくて怠かった体が、暴れまわっていた心が、不思議と冷静さを取り戻していく。


 ――水だ。


 いつか水読を起こした時と同じ、私の中に目には見えない水が注ぎ込まれている。細いせせらぎが渦になって、胸の内側を流れて行く。全身ひたひたまで液体に浸かったような、不思議な浮遊感。熱を持っていた体の芯が癒され、満たされていく。

 ……だけど、どうやって?


 心地良い清涼感にぼうっとしていた私は、唐突に我に返った。夢心地で開いていた目に映る、濃紺に輝くタイル画の天井。炎に照らされ、殆ど白銀に光る長い髪。

 輪郭が分からなくなっていた皮膚が、急速に感覚を取り戻す。伝えてくるのは、自分とは別の人間の生々しい感触。水読は痩せっぽっちだが手指が長く、力の抜けた私の両腕は片手で軽々押さえられている。滑らかな髪が滑り落ち、鎖骨の辺りに掛かっている。唇が薄く肌を吸い、胸骨を舌がなぞる。


「……っ」


 背骨を撫で上げられるような感覚がして、思わずびくりと体を反らせた。

 瞬間、側で息を呑む気配――。

 察知できたのはそこまでだった。繊細だった清流が一気に水量を増し、胸元と手首から怒涛のように押し寄せる。圧倒的な力に流され、突如床が消え失せた。

 足場を失い、私は思わず声を上げる。


 落ちる……!


 あっという間に激しい流れに飲み込まれ、真っ暗闇に落ちていく。ぐっと握りしめた指先は、すぐに力無く開いた。掴むものは何もない。

 ほどけていく指そのままに、私は意識を手放した。






   ◇  ◇  ◇




「……手元が狂ったじゃないですか」


 長椅子から溢れ落ちる、星空のような黒い髪。こちらの人間に比べて余り赤みの差さない頬は、今はほのかに紅潮している。くたりと投げ出された腕に目をやれば、手首の辺りも赤くなっていた。先ほど目一杯抵抗されたために、押さえつけていた場所だ。


「本当に嫌なんですね」


 まだ少し苦悶が残るその眉を、水読は指先でそっと撫でた。胸元にあった忌々しい痣は、綺麗に消えて無くなっている。手荒な処置は焦りがあったためだ。開いた襟元を無遠慮に眺めながら、彼は呟く。


「ミウさん、結構色っぽいんですよね……困っちゃいますよ。僕、忍耐強い方じゃないんですから」


 本人が聞いたら、間違いなく嫌そうに顔を顰めるだろう。

 返事の無い横顔に苦笑しながら、水読は窓の外を見た。

 そろそろ雨が来る。

 月はまだ、昇らない。



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