16 白か黒か(7) -- 荒療治
言葉をなくし、私はその淡い色の目に魅入られた。
――貴女が居れば、それでいい。
なんて魅惑的な誘いだろう。今までなら即刻突っぱねそうなその台詞が、何故か今日はぐらぐらと心を揺する。
何も心配いらない。
風に煽られ、どこにたどり着くかも分からないちっぽけな身の上も、その海に投げ出してしまえば全て溶けてなくなる。閉じた世界で互いだけを見つめ、孤独を癒す関係は、どんなに楽で心地がいいことか――。
そこで、私はハッとした。穏やかな瞳に潜む渇きの正体を思い出し、辛うじて陸に踏みとどまる。危ない。この人は違う。恐ろしい程甘い嘘だ。水読のそれこそ、違うんだから。自分と同じ「それ」を求めているに過ぎない。
この人こそ、私が“泉の乙女”じゃなかったら、そんなこと言わない。
「では”辞め”ますか?」
不意に伸ばされた手に、私はビクッとして後退った。バランスを崩し、床に落ちる。ソファの肘置きに座っていたことを忘れていた。
「いった……」
尻餅をついた所で、場の緊張がほどけた。痛みに顔をしかめる私を見下ろし、水読は大丈夫ですか、と苦笑する。
「嫌ですねぇ、そんなに驚かないでくださいよ。ただの冗談ですって」
「そ、そうですか……」
へらっとした笑顔で手を差し出され、ぐっと引き上げられる。
この雰囲気で冗談て、相変わらず質が悪過ぎる。本気で冷や汗が出たじゃないか。
立ち眩みでふらつく肩を支えられ、私はしっかり立ち上がった。もう大丈夫だと体を引こうとした所で、手が離れない。……またこの人は。
「あの」
「…………」
「……水読さん?」
いい加減離せと言いかけて、何か様子がおかしいことに気付いた。
水読はピタリと動きを止め、何故か驚いた顔で呟く。
「ミウさん、手が熱いです」
「え?」
それがどうした。
と思って見上げた途端、目の前が陰った。
「な」
鼻先がぶつかり唖然とする。触れる額が冷たい。
「なんですか、ちょっと……」
問答無用で合わせられた額を押しのけようとして、再び眩暈に襲われた。よろめいた私を、同様に水読が支えソファへ導く。
へたり込むように座った私の横へ自分も腰を下ろすと、水読は「お願いがあります」とごく真剣な声で言った。
「胸元を見せて頂いても宜しいですか」
「……は?」
私は目を剥いて隣を見た。宜しい訳がないだろう、何言ってんのこの人。ああ、勢い良く振りすぎて頭がガンガンする。
しかし水読は、神妙に繰り返す。
「ほんの少しで結構ですから、ちょっと見せてください」
「何が結構ですか、嫌に決まってるでしょう」
やば、やっぱ変態だ。油断した。慌てて立ち上がろうとした私を、長い腕が即座に捕まえる。冗談じゃない。逃げ出そうと暴れるが、動くほど頭がクラクラしてくる……あれ、もしかして私、具合悪い?
「少し、大人しくしていてください。変な意味じゃないですから」
変な意味ってなんだ。そうじゃないってなんだ。
「い、嫌です。触んないでください。なんか具合悪いみたいなんで、私もう……」
寝ます、と言って突っ張った腕は水読に掴まれた。そのまま仰向けにソファに押し付けられる。
「ちょっ……!」
「怖がらないでください、何もしません。少し、確認したいんです」
何を!?
視界がぐるぐるする中で焦る。なんだこれ、風邪でも引いたのかこんな時に……! そうだ、見張りのおじさんに……!
「た、助け……!?」
声を張ったつもりなのに、しなびたような弱々しい音量しか出てこない。喉にもお腹にも力が入らない。
「大丈夫ですから、じっとしていてください」
そう言う水読も、なんだか焦っているようだった。私の襟元に手を伸ばすと模様織りのリボンをほどき、片手で妙に手際良くボタンを外していく。
一つ二つと外されるそれに、私は想像以上にショックを受けた。
「やめて、水読さん。約束と違うじゃないですか」
嫌って言ったら止めるんじゃなかったのか。
「ではご自分で見せてくれますか?」
「は!? んなわけ……!」
意味が分からない。しかし阻止しようにも、伸ばした両手はいとも簡単に頭の上で纏められる。恐怖でぶるりと背筋が震えた。
「離してください、やだ! ほんと、怒ります、よ」
必死で訴える間に息が切れてきた。体が熱い。多分、熱が出ていると思う。
私は朦朧としつつ全力で暴れた。効果は薄そうだったが、驚愕と恐れが体を動かす。水読が分からない。何をしようとしている? 腕が解けない。なんで? 嘘吐き、怖い、怖い!
「ミウさん、落ち着いて。少しだけ見せてください。何もしません。……というか、何もされたくなかったら抵抗しないでください」
「や、やだ、離して、誰か……」
「ミウさん!」
水読が語気を強めた。初めて聞く声色にビクリとする。
「じっとしててくださいってば。そういう風にされると、余計……――そそられます」
低く囁かれ、私は一瞬で動きを止めた。いつものヘラヘラした声じゃない。
水読は硬直する私の手を縫い止めたまま、左手で残りのボタンを外した。しゃくりあげそうになる喉を、寸での所で耐える。奥歯を噛み締め息を殺していると、前を少しはだけた所で彼の手は止まった。そして、いつになく真面目な顔つきで問う。
「……ミウさん、アルス殿下に何かされましたか」
「……?」
「ここに、触られましたか」
細長い指先が、胸の真ん中に触れる。氷のように冷たい。その温度に驚きながら、私はブンブンと首を振った。そこに何かあるのかと顎を引いて自分の胸元を見ると、触れられた辺りが奇妙に赤くなっていた。
なにこれ。
一瞬羞恥も忘れて、その赤い跡を見る。
「本当に、何もされてないんですか」
「は、はい……?」
されてない、と思う。首は締められかけたけど。
そのことは言わなかったのに、水読の顔からは一切の表情が抜け落ちている。こんな状況なのに、ニヤニヤもヘラヘラも無いのが妙だった。
――というか、何か。
「怒ってます……?」
「まさか」
水読は、にっこりと微笑んだ。しかし三日月型につり上げられた唇とは裏腹に、目は真冬の川底の様に冷ややかだ。
間近に見上げ、瞬きもしない眼差しにゾッとする。
「腹が立たないとでも?」
血の気も凍る、冷淡な微笑。
それは何故か、この人に最も相応しい表情に思えた。
「許しませんよ。篝火の分際で“乙女”の身を焼くなど」
呟くと、水読はおもむろにそこへ顔を埋めた。
「あつっ……!?」
熱い。いや、冷たい。
肌が濡れる感触に、全身が総毛立つ。
「動かないで。消します」
消す? 何を?
「い、嫌です、なんでそこ……」
「では唇にしましょうか?」
上ずる声で訴えると、水読はチラリと目を上げた。そこには青い炎が燃えている。意味が分からないまま、私は半泣きで首を振った。何で怒ってるんだ。私に怒ってる?
固く目を閉じ、震えを抑えながら胸元の感触に耐える。恐ろしさと混乱で、気持ちがバラバラになって収集がつかない。
しかし間もなく、変化に気が付いた。口付けられた胸を中心に、氷水のような冷たさが体を廻っている。ひんやりしたその感覚は、私をほんの少しだけ落ち着かせた。
水読が、何かしている。
戯れでも嫌がらせでもなく、何か必要な事をしている。
およそ人肌とは思えなかった唇の温度が、心地良いものに変わりつつある。向こうが冷たいんじゃない、私が熱かったんだ。
熱っぽくて怠かった体が、暴れまわっていた心が、不思議と冷静さを取り戻していく。
――水だ。
いつか水読を起こした時と同じ、私の中に目には見えない水が注ぎ込まれている。細いせせらぎが渦になって、胸の内側を流れて行く。全身ひたひたまで液体に浸かったような、不思議な浮遊感。熱を持っていた体の芯が癒され、満たされていく。
……だけど、どうやって?
心地良い清涼感にぼうっとしていた私は、唐突に我に返った。夢心地で開いていた目に映る、濃紺に輝くタイル画の天井。炎に照らされ、殆ど白銀に光る長い髪。
輪郭が分からなくなっていた皮膚が、急速に感覚を取り戻す。伝えてくるのは、自分とは別の人間の生々しい感触。水読は痩せっぽっちだが手指が長く、力の抜けた私の両腕は片手で軽々押さえられている。滑らかな髪が滑り落ち、鎖骨の辺りに掛かっている。唇が薄く肌を吸い、胸骨を舌がなぞる。
「……っ」
背骨を撫で上げられるような感覚がして、思わずびくりと体を反らせた。
瞬間、側で息を呑む気配――。
察知できたのはそこまでだった。繊細だった清流が一気に水量を増し、胸元と手首から怒涛のように押し寄せる。圧倒的な力に流され、突如床が消え失せた。
足場を失い、私は思わず声を上げる。
落ちる……!
あっという間に激しい流れに飲み込まれ、真っ暗闇に落ちていく。ぐっと握りしめた指先は、すぐに力無く開いた。掴むものは何もない。
ほどけていく指そのままに、私は意識を手放した。
◇ ◇ ◇
「……手元が狂ったじゃないですか」
長椅子から溢れ落ちる、星空のような黒い髪。こちらの人間に比べて余り赤みの差さない頬は、今はほのかに紅潮している。くたりと投げ出された腕に目をやれば、手首の辺りも赤くなっていた。先ほど目一杯抵抗されたために、押さえつけていた場所だ。
「本当に嫌なんですね」
まだ少し苦悶が残るその眉を、水読は指先でそっと撫でた。胸元にあった忌々しい痣は、綺麗に消えて無くなっている。手荒な処置は焦りがあったためだ。開いた襟元を無遠慮に眺めながら、彼は呟く。
「ミウさん、結構色っぽいんですよね……困っちゃいますよ。僕、忍耐強い方じゃないんですから」
本人が聞いたら、間違いなく嫌そうに顔を顰めるだろう。
返事の無い横顔に苦笑しながら、水読は窓の外を見た。
そろそろ雨が来る。
月はまだ、昇らない。




