10 白か黒か(1) -- 遭遇
それから数日が過ぎた。
水読はあの晩の約束通り、無断で部屋に侵入したり不用意に触れたりしなくなった。なんやかんやと理由を付けて接触を図られはするが、「それは嫌だ」とはっきり言った際には必ず一度踏みとどまるようになったのだ。
これを大きな進歩と見とった私は、その距離感をより確実なものにするため、ここの所敢えて居間で過ごす時間を取っていた。
「ミウさん」
今朝もソファで本を開いていると、バルコニーから戻ってきた水読が私を見てパッと微笑んだ。いつものように音もなく寄ってきて、隣に腰を下ろそうとする。その距離があまりにも不自然と見て、私は一足早く一人掛けのソファに逃れた。
「ええ、今のはおかしくないですか。何もしてないじゃないですか」
「いやどう考えても近すぎるでしょう」
無愛想に答えて座り直すと、水読はこれみよがしに溜息をついた。
「それくらい許してくださっても良い頃だと思うんですが……」
「何言ってんですか。そもそも、人が居れば密着するっていうのはどうかと思いますけど」
「えぇー」
えぇーじゃない。男女の距離感以前に、パーソナルスペースというものは無いのか。水読は、長い髪を煩わしそうに避けると、今しがた私が顎を乗せていたクッションを抱え不満気に語った。
「ミウさんは、僕の初恋の人に似てるんですよ」
私は本に没頭する準備をした。戯れ言が始まった。てかそれ、全員に言ってるやつだろ。
「そんなことないですよ。ミウさんが今までで一番似てます」
「はいお疲れさまでしたー」
過去何人に言ってきたのか。失言でした? などとのたまう呑気な声には、もはや何の感慨もない。
ぶちぶち何事か言い訳する水読を無視し、しばらく文面を追っていると、玄関の扉を叩く音がした。迎えが来たらしい。本を閉じて立ち上がり扉を開けると、驚いたまん丸の目に鉢合わせる。
「あれっ、ミウ様!」
「おはようございます」
挨拶すると、すぐビシッと神官の礼を返してくるこの人は、私に付けられたもう一人の護衛、ハノン・ビッセさんだ。以前リコやサニアと一緒に塔の庭を案内してくれた人で、ジルフィーが非番の日に付くことになっている。なんでも、塔兵出身の神官らしい。
「おはようございます……お部屋にいらっしゃらなくて大丈夫なんですか?」
「それはどういう意味ですか、失礼な人ですね」
「も、申し訳ございません!」
「いや、当然の反応だと思います」
水読のつんとした態度にビビる彼をフォローしつつ、私はさっさと部屋を出た。ハノンさんは、ジルフィー程水読に強く出られないようだ。
階段を下りていく途中、こっそり尋ねられた。
「水読様と仲直りされたんですか?」
「いえ、仲直りっていうか……」
そもそも喧嘩していた訳ではない。
約束をしたのだと説明すると、ハノンさんは少し心配そうな顔を見せ、「困ったことがあれば言ってくださいね」と言ってくれた。
ハノンさんは、端的に言えば「良い人」だった。家族の話をさせると止まらないのが玉に瑕だけど……なんでも新婚さんの上、少し前に娘さんが生まれたそうだ。幸せそうで羨ましい。
「本日はお出かけのご予定はありますか?」
「ええと、アルス王子にこれを返しに行きたいんですが」
私は抱えた本を見せて答える。実は昨日、同じ本を塔から直接貸し出してもらえたのだ。
「かしこまりました。借り物かぁ……ミウ様はやっぱり殿下とお親しいんですね」
「うーん、まあそうですね」
「そうですかぁ……」
ハノンさんは、感心したように頷いた。
どうやら私とアルス王子、色々あった割に穏便な関係というのが塔からすると謎らしい。事が事だけに、あれ以降アルス王子と聞くと露骨に嫌な顔をする神官もいるそうだが、私の態度などから事情があったのだろうと見方を緩める人も多いという。
「ちゃんと話せばいい子ですよ。無駄にツンケンしてますけど」
ともかくここ数日空けているので、様子を見がてら顔を出そう。
ブロット氏に宜しく頼むと言われてから、私は何となく責任みたいなのを感じるようになっていた。
◇
こんもりした低木の茂みにはピンクや紫のベル型の花が揺れ、粉っぽい香りを辺りに漂わせていた。そこを横切ると、人影に驚いた小鳥が飛び出す。もっと遠くへ逃げればいいのに、少し先に降りてはまた飛び立つというのを繰り返している。
「お前、馬の乗り方教えてやるって言ったら、やる?」
「乗馬ですか? できるかなぁ……」
「前の時怖がってなかっただろ。意外と筋良いんじゃねーの」
隣を歩く黒髪の少年に言われ、私は安易に頷いた。
「じゃあ、やってみたいです」
この日、本を届けた私は、アルス王子の誘いで王宮の庭を散歩していた。今日は作法の勉強がお休みだったのだ。空いた時間を、ひたすら息抜きに費やす。
水の戻った庭は、そこかしこの水路や噴水から心地よい音が聞こえて爽快だった。少し前までは萎れかけていた草木や花々も、ふんだんに水を含んだ空気を浴びて生き生きと葉を伸ばしている。
「でも、許可が出るといいんですけど」
「許可とか要るのか?」
「わからないですけど、多分」
振り返ると、同行していたハノンさんも小さく頷く。
乗馬体験はどっちでもいいんだけど、私は出歩いたり新しい事をするのに、大抵塔か王様の許可が要る。危険があるといけないからだ。
「お前も不自由だな」
「そうですね……でもお陰で、庭歩くだけで楽しいです」
キョロキョロと景色を眺めつつ答える。
塔の上から見て予想していた通り、広大な城の敷地には数多くの庭園が存在していた。
私が実際に見たことがあるのはほんの一部だけれど、その規模も造りも場所によって様々だそうだ。以前ブロット氏と話すのに使った広場のような規模から、庭というよりはただの建物の隙間、狭い空間に草花に埋もれるようにベンチが一つきり……なんていうひっそりしたものまである。
「……俺のせいもあるよな、お前が窮屈なの」
アルス王子は手を上げて、小路に掛かる枝を通りすがりに弄んだ。
「そんなことないですよ」
正直一理あるとは思うが、それだけって事もないし。無難に返し、更に塩湖の一件はむしろ必要だったと付け加える。
「でもこの立場はほんと、全然慣れなくて……」
「お前、平民だとか言ってたもんな」
「そうなんです。以前は一人でフラフラ街中歩いてたんですよ。回りの人、皆黒髪ですし」
「ふーん……いいなそれ」
アルス王子は、本当に羨ましそうにそう言った。
私は言ってしまってから、少し後ろを気にした。ハノンさんに対して愚痴っぽく聞こえていたら悪いと思ったのだ。
もっとも、実際愚痴ではあるんだけど。
私に対して、色んな人が面倒をみてくれているのは有難いが、何をするにも人の手を借りなければいけないのには参っていた。いつもいつも誰かが傍に控えててくれるし、中々本当の意味でのフリーさは味わえない。アルス王子は平気なんだろうか? 生まれつきそういう生活をしていれば、気にならないのかな。
「まあな、紛いなりにも王族だ。お前の感覚のがよくわかんねーよ」
「そうですか……」
既にそういうものとして身に付いているのが、少し羨ましいような気の毒なような。
「それに、煩わしいときは森に行く。あと王族の私有庭園。決まった人間しか入れないから」
城の裏に広がる森と一部の庭は王家固有の財産らしく、一般人は立入禁止になっているらしい。入り口が少なく警備も固いので、アルス王子は暇があれば愛馬を操り一人で森に入り浸っているそうだ。なるほど、普段はそこで遊んでるのか、男の子らしいアクティブな趣味でいいんじゃないだろうか。最近は忙しくなってきて、そうも行かないらしいけど。
「行きたければ言えよ。お前なら連れてってやってもいいし」
「え、そこって私も入っていいんですか?」
「俺が一緒ならな。護衛も巻けるぞ」
「えっ」
ニヤッと笑う彼の言葉に振り返ると、ハノンさんは明らかに困ったような顔をしていた。なるほど、どうやら本当に可能らしい。まあ、やらないから大丈夫ですよ。
「湖もあるんだ。もっと寒くなると鳥が一杯来る」
「へぇ……」
それって白鳥とかかな。湖を優雅に泳ぐ鳥達を想像して少し楽しくなる。なんせ、鳥なんて雀とカラスと灰色の鳩くらいしか馴染みがない。
城の庭を流れる小川などはみんな、その湖に繋がっているんだそうだ。そういえば城内にも水路や水場が沢山あった。あれらの水も、水読が汲み上げているんだろうか。
そんなことを話しながら生垣を抜けた所で、突然アルス王子が立ち止まった。片腕を広げ行く手を制され、私も慌てて足を止めた。
「どうしたんですか?」
不思議に思って尋ねるが、アルス王子は答えなかった。険しい顔で前を見ている。
その視線の先を見た瞬間、心臓がドクリと大きく脈打った。
日光に融けるような淡い金の髪。
白い飾り襟に、見るからに仕立ての良い上品な薄手の上着。
儚げな美貌は相変わらずで、それらの服飾品や美しい庭としっくり馴染み、見事な調和を奏でている。
風に揺れる草花の向こうに居たのは、クラインだった。
こちらに気付いた複雑な色合いの瞳が、驚きにはっと見開かれる。
「行くぞ」
迷う暇もなく、アルス王子が私の腕を掴んで踵を返した。引っ張られるようにして、私もその後に続く。スカートの裾を気にしながら、もつれる足元を見下ろした。
クライン。
いつぶりだろう、一人きりだった。躓かないように、と石畳を急ぐ間も、頭の中では色々な思いが交錯する。
今朝も手紙と花が届いた。
返事はやはり、一度もしていない。
彼は、アルス王子や私を陥れても構わないと思っている。
噛み合わない評判。理知的で親身な会話。
「ミウ!」
「!」
背後からの呼び声に、私は思わず足を止めた。
「止まるな!」
「す、すいません」
勢いを阻まれたアルス王子が、強く腕を引く。しかし歩き出しはしたものの、私だけはたまらず振り返ってしまった。
肩越しにぶつかる視線は、「どうして」と問い掛ける。
クラインは私達を追って来なかった。ただ、その場に立ち尽くしていた。
早足に庭を突っ切り、城の回廊へと進む。有無を言わさない強さで手を引かれて、少し息が切れてきた。
「ちょっ……ちょっと、待ってください」
訴えると、アルス王子はようやく歩調を緩めた。
「あの……」
「…………」
何を言ったらいいか分からないが、何も言わないのも気まずい。
恐る恐る口を開くと、彼はパッと腕を放してこちらに向き直った。……物凄く機嫌が悪そうだ。さっきまでは割と楽しそうだったのに。
「……な、何でしょうか」
「いや」
いつになくじっと目を合わされ少しばかり怯んだが、青い目はすぐにプイと逸らされた。
えーと……。
「その、彼のことは、見るのも嫌って感じですか……?」
「当たり前だろ。お前こそ、なに止まってんだよ」
「や、つい……」
「あいつがどういう奴か忘れたのか。その辺で会っても付いてくんじゃねーぞ」
「は、はい」
勢いに押されて頷くと、アルス王子はハノンさんを振り返る。
「お前。こいつが何か引っかかってたら、ちゃんと止めろよ」
「は、はい!」
ジルフィーだったら100%黙殺するパターンだろうけど、ハノンさんは戸惑いながらも返事をした。再び歩き出したアルス王子に付いて回廊を抜け、私達はそのまま城内へ戻る。
その夜は、部屋で一人になってもモヤモヤしたままだった。
アルス王子の言うことは勿論分かっている。だけど、本当にあんな態度で良かったんだろうか。こんな風に顔を合わせる前に、私、せめて返事を書くべきだった?
小路の向こうで、立ち尽くす姿が思い出される。
そしてこの日以来、クラインからの音信は途絶えた。




