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雨の冠  作者: 桃宮
5.日陰
36/103

8 乙女の条件(1)

 


 その首に腕を回し、ぎゅっと抱き着く。

 温かく柔らかい体からは、ハーブのようないい香りがした。清潔な木綿の襟が頬に優しい。


「……まあまあ、どうしたんですの? ミウ様」

「ちょっと充電を……」

「?」


 ブロット氏と別れ部屋に戻ってから、私はアプリコットに抱き着いていた。にっこり出迎えてくれた彼女は、おもむろにしがみ付く私に不思議そうにしつつも、ポンポンと背中を撫でてくれる。年下だったような気がするけれどこの安心感、完全にお姉さんである。


 私、疲れました。


 よくわからない男どもと気まずい空気にばかり晒されて、しみじみと思う。女の子って最高だよね。優しいし可愛いし何より空気読んでくれるし、意思の疎通が驚くほど容易い。勿論身の危険もない。今の私には癒しそのものだ。


「ではミウ様、今後はこちらの本も扱いますね」

「はい!」


 サニアに言われて、私は抱きついたまま振り返った。読み書きの教材に、先程借りた暦書を加えて貰ったのだ。


 勉強の進み具合は、正直微妙な所だった。

 字を読むにしても、黙読はまだまだ難しい。何しろこちらの文字は、本当につる草模様かと言いたくなるほど入り組んでいて、一文字ずつバラバラにして文字表と照らし合わせるだけでも結構骨なのだ。似たような形の文字が多すぎる上に、活用でガンガン表記が変わる。

 ただこの本のような印刷物は略式文字で書かれている為、比較的読解しやすい。文法の法則はまだ今ひとつ掴めていないけど、単語は幾らか覚えてきたし、その内、印刷なら文字表いらなくなるかもしれない。


 問題は、完全にアール・ヌーヴォーな手書きの方だ。

 書き手の癖によっては、装飾が行きすぎてえらいことになっていたりするそれを、こっちの人は普通に読めるというから意味がわからない。何故文字をアレンジしやがりますか。見慣れない私にとっては、意図的に基本に忠実に書かれたもの以外は非常に難解だ。

 そしてそれが読めない以上、読み書きの「書き」の方はさっぱり振るわない。せめて名前くらいはと練習するものの、果たして合っているのかどうか……。


 ただ書くだけなら印刷用の略字で誤魔化す手もあるのだが、それはすげなく却下された。華美な筆跡はある種のステータスらしく、略字を使うのは上流階級的には恥ずべきことだそうだ。面倒臭い。


「ミウ様は史学もご所望でしたよね。暦書の読み合わせ程度でしたら私たちでもできますが、専門の者がいた方が良いでしょう。近々、講師について相談して参りますが、宜しいですか?」

「はい、お願いします!」


 私は元気に返事した。ここへ来て、何だか学生の続きみたいだ。しかも現役の時よりも、余程真剣に勉強しようとしている。

 いや、だって異世界の歴史だろうが語学だろうが、帰れるかどうかが懸かってるともなればね。日本では一つも役に立たないかもしれないけれど。

 そして実のところ、言語を学ぶこと自体はそれほど苦痛じゃなかったりもする。だって私の大学時代の専攻、外国語だし。




 ◇ ◇ ◇



 早速読み合わせをしてもらって午後を過ごし、日課の緊迫した夕食(作法的な意味で)を摂った後。


「行きたくない……」


 私は塔の八分目辺りで、ついそう零していた。

 石段を踏みしめる足が鉛のように重い。日中は色々で紛らわされて忘れてたけど、いざあの部屋に戻るとなった途端、朝のアレな出来事を思い出してしまったのだ。今ではジルフィーへの恥ずかしさは気まずさに、水読への怒りもやっぱり気まずさに変質している。


「お部屋までお送りします」

「ありがとうございます……」


 上階につくと、ジルフィーはそう申し出てくれた。気遣いに感謝しながら、その扉を開ける。


「あっ、ミウさんおかえりなさい」


 水読は、ソファにちょんと座っていた。いつものようにヘラリと笑い、こっちの気も知らずご機嫌宜しいようだ。何事もなかったかのようにのたまう声に、一瞬で腹立たしさと警戒心が復活する。

 私は水読をひと睨みしてから、早足に自室へ撤退した。


「では、今日もありがとうございました。おやすみなさい」


 ドアを閉める前にそう挨拶すると、ジルフィーは胸に手を当てて礼を取った。水読は変わらずソファに座っている。よし、今夜はクリアだ。

 ……どうして私は、ここでその違和感に気が付かなかったのだろう。

 復習でもしようかと、ベッドにうつ伏せ本を開いた所で声が掛かった。


「ミーウさん」


 一緒にノックも響く。


「ミウさーん?」


 うざい。


「……何ですか」


 私は、苛つきながら渋々返事をした。

 鍵も掛けて椅子も置いてあるけれど、また勝手に扉を空けられては敵わない。


「何やってるんですか?」

「読書です」


 正確にはまだ読んでないけど。


「ちょっと出てきて頂けません?」

「嫌です」


 せっかく部屋に籠ったのに、何故またその見たくない顔を見なきゃならんのだ。

 しかし、水読はバッチリ理由を持っていた。


「雨、呼びましょうよ」


 知り合いでも呼ぶかのような気楽な声に、私は思い切り舌打ちしたくなった。

 そうか、雨か。しくじった。どうして、そのことを忘れていたんだろう。せめてジルフィーが居る内に、さっさと済ませておけばよかったのに。水読は先程から、このタイミングを狙っていたに違いない。だから余裕で座ってたんだ。


「明日、人が来てからにしてください」


 ドアの向こうにそう返すが、その程度で引き下がる相手ではない。


「アルス殿下とお会いしてきたんですよね? 出来れば今日中が良いんですけれど」

「前は、翌日でも大丈夫だったじゃないですか」

「状況も力の配分も、刻一刻と変わるものですから。その点、その日の内なら確実です」


 雨を呼ぶと言ったら、額を合わせるやつだ。いくら私でも、水読と二人きりでそれに臨むほど物覚えは悪くない。それなら気まずい思いをしてでも、別の人を頼った方がマシだ。


「絶対嫌です。もう寝ますから、お引き取りください」

「ミウさん、何か更に態度酷くなってません? 刺々しいというか……」

「当たり前でしょう」


 朝の一件を忘れたのか。

 素で素っ気なく返すと、水読は扉の向こうで情けない声を上げた。


「もしかして、僕のこと嫌いになっちゃいました……?」


 いかにも悲しそうな哀れっぽい声色が、苛立ちを煽る。

 この際ハッキリ言ってやるべきだよね、これ。


「ええ、その通りです!」

「ですよね。…………え?」




「えぇ!?」


 きっぱり言うと、驚愕の声と共に唐突に部屋の扉が開いた。例によって椅子に阻まれ、一旦途中で停止したが。っていうか、鍵掛けたはずなんだけど。いつの間に開けたんだ!?

 私は椅子を押さえようと、慌てて飛び起きた。しかし一歩遅く、ずずっとドア板ごとそれを押しやった水読は、広がった隙間からするりと入り込んできた。

 小さなランプが一つ燃えるだけの部屋に、長い影が揺らめく。


「ミウさん、冗談ですよね?」

「…………」


 ――ヤバい。

 不安そうな表情を見て、こっちが多いに不安を煽られた。

 私は反射的に、壁際へと距離を取った。今朝味わった後悔と居心地の悪さが鮮明に蘇る。

 どうしよう、どうやって部屋から逃げようか……。

 そればかりに頭を巡らせる私の方へ、水読はそっと足を向けた。途端にビクッとして叫ぶ。


「ち、近付かないでください!」

「……ミウさん?」


 鋭く言い放つと、水読は戸惑ったような顔をした。


「何でそんなに怖がってるんですか……?」

「怖がってるんじゃなくて、怒ってるんです」


 原因は明白だと思うのだけど。素で不思議そうなので気味が悪い。

 水読は戸惑った表情のまま、一歩足を進める。


「……だ、だから、近寄らないでって言ってるじゃないですか!」


 少しずつ距離を詰める影に、強い焦りを覚える。

 どうしようどうしよう、また部屋の隅にでも追い込まれたら。

 後退する場が無くなりかけた時、一か八か、私は水読の脇をすり抜け出口へと駆け出した。――そして、腕を掴まれた。


「ミウさん」

「やっ、やだっ! 離して!!」


 即座に振り払うが、ほんの一足進んだだけで手首を取られ、私はいよいよパニックに陥った。


「やっ……! やだ、やめて! やだ!」

「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいって……ミウさん、どうしたんですか」

「どうもしません、離してください!」


 今朝の比じゃなく思い切り抵抗する私に、水読ははっきりと困惑を示した。


「ええと……もしかして僕、本気で嫌われてるんですか?」

「そうだって言ってるじゃないですか!」

「そ、それは好きという意味の嫌いで合ってますか?」


 ちょっと、何言ってるかよくわからない。


「ごく普通の嫌いです!」


 きつく睨みつける私を、水読は目を見開いてまじまじと見つめた。

 そして言う。


「女の方に嫌いと言われたのは、初めてです……」

「…………」


 その、何もかも舐め腐ってる感じが嫌悪対象なんだよ、大馬鹿ヤロー!


「他の方がどうかは知りませんけど、私は好きでもない人に気安く触られるのは不愉快なんです。け、今朝みたいにからかわれるのも、こうやって部屋に押し入られるのも!」

「そんなに嫌だったんですか……?」

「当たり前です!!」


 ポカンとして、本気で驚いている様子の水読に、私はどうにも理解し難いものを感じる。この人、どういう人生歩んできたんだ。


「わかりました、手は離します。でも逃げないでください」

「お断りします」

「えぇ……じゃあそこに居てください。僕が離れますから」


 私の態度に思う所があったのか、水読はそう言って手を離し、後向きに数歩下がった。私も同時に、出来る限り後退して距離を取る。緊張でまだ心臓がバクバクしている。やだ。ほんと、この人嫌い。


「そんなに怯えられるとは思いませんでした」


 十分間が空いたところで、水読はそう口切った。


「あの、信じてくださいね。確かにベタベタしてましたけど、元々貴女に何かするつもりなんて無いですよ」

「…………」


 信じられるか。


「本当ですって。レオはちょっと、脅かしすぎです。私も“泉の乙女”が居なくなると困りますし、最終的には、ミウさんを故郷へお返ししたいと思っているんですから」

「…………どういう意味ですか」


 頭が興奮しているせいだろうか。説明されても、いまいち話が繋がらない。


「ええと……“泉の乙女”は“乙女”だからこそ、ですよね。僕は、それを損なうつもりはありません」

「…………?」


 いや、どういう?

 さも当然という風で言った水読の言葉を、私は頭の中で反復する。私の知識には、何か重要な前提が欠けている感じがした。

 “泉の乙女”は、“乙女”だからこそ“泉の乙女”。

 乙女、おとめ…………あれ、もしかして。


「……処女?」

「はい」

「…………」


 頷いた水読に、私はさらに問いかけた。


「それはその……つまり処女おとめじゃなくなったら“泉の乙女”でもなくなって、元の国にも帰れないってことですか?」

「そうです。ミウさんがあの泉を通過できたのも、当然“泉の乙女”の体を持っていたお陰ですから」

「……じゃあ、雨降らせたりとか、そういうのも?」

「はい。“乙女”の引力も無くなるはずですから、また漏水も起きるでしょう」


 ――なんてこった。

 確かにそれなら、“泉の乙女”に何かあるとすれば、水読にとっても良い話ではないだろう。

 でも。


「水読さん、今も向こうの世界、無事ですよね。私、ちゃんと『引力』があるんですよね」

「ええ、勿論です。水核は水を保っていますし、ミウさん自身、僕を起こしてくれたじゃないですか」

「……そうですよね」


 その返事を聞いて、不安に高鳴っていた胸が少し落ち着きを取り戻した。

 なるほどね。ただ「女の子」くらいの意味に捉えていたけれど、“泉の乙女”ってそういう意味の呼称だったのか。

 情報を整理しながら、私は思う。


 ここに来る前から処女じゃない場合って、どうなるんだろう。

 私、既に“乙女”じゃないんだけど。



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