5 対抗手段
うわあああああのド変態、舐めやがって!!!
……文字通り過ぎるか。
ジルフィーに続いて石段を降りながら、私は水読への怒りで燃えていた。
思い出すと叫びそうだ、やっぱり張り倒しとけば良かった。そしたら、このムカムカも少しは晴れただろう。
つまるところ、私は王様にあれだけ警告されたにも関わらず、水読の手癖の悪さというのを本当には理解できていなかったのだ。まさか、本気であそこまで悪ふざけするなんて思っていなかった。
水読が今まで口説いた女の人達がどうだったのかは知らないけれど、少なくとも私は、好きでもない人にああいう迫られ方をされて心ときめくタイプではない。ていうか普通に怖い。
でもどうせ本人はこっちの反応を見て楽しもうとか、軽いゲームみたいなノリなんだろう。手練の女泣かせだそうですし。否応なしにその的にされたと思うと、もの凄く腹が立つ。全く、ちょっと特殊な地位と見た目があるからって調子乗るんじゃないよ! 私は絶対ちやほやしないからな!
階段を一段ずつ踏みしめ、内心で罵倒しまくっているのには理由があった。そうして怒っていないと、恥ずかしさの方に負けそうだからだ。ほんの少しでも気を抜くと、首筋に生暖かい舌の感触が蘇り、ゾクリとしたものが体を走る。
――最悪だ。
不本意にもそこにある種の甘さを感じ、私は苦々しく唇を噛み締めた。うっかり油断したことと合わせて、どっと自己嫌悪が押し寄せる。ああ、一刻も早く忘れたい。
で、忘れたいと言えばもう一つある。
忘れたいというか、忘れて欲しいというか……。
私は水読を罵倒する傍ら、目の前を行く薄茶の髪の後頭部に向かって念じ続けていた。「忘れろ」って。
呼びつけて助けて貰っておいて何だけど、ジルフィーに変な場面を見られたっていうか聞かれたっていうのが、水読のアレな言動と同じくらい私の精神に大打撃を与えていた。思い出したら死にたくなる。だってあんな……うおおお恥ずかしい! 人に見られたなんて、誰か私の入る穴を! 早く!
ただ、救いと言っていいのかなんというか、当のジルフィーはあの現場の後も一切態度を変えていなかった。昨日と全く同じ、無口で無表情だ。この人はああいう場に出くわしても、色々尋ねてきたり気まずそうにしたりする性格ではないらしい。
まあ内心はそうじゃないかも、とかは考えると泥沼に嵌りそうなのでやめておくとして……ジルフィーが見た目通り、あんまり周囲に関心が無いタイプでありますように。なにとぞ、なにとぞ……。
「朝食はお部屋で摂られますか」
「……えっ? は、はい」
念じている最中急に声を掛けられ、私は裏返った声で答えた。あ、そ、そう。朝食ね。
塔に移ってから、私は主に4階の自室で食事を摂っている。お給仕の人にこの階段を登らせるのは忍びないし、水読もあの部屋で食事をしないようだったから。というか、水読が何か食べている所って見たこと無い……ま、それはどうでも良いな。
ジルフィーが場所を尋ねた訳は、塔に神官の大食堂があるためだ。賑やかな方が好きだと言うなら、私もそこに食べに行っても良いらしい。ただ周りに無駄に気を使わせそうなので、基本遠慮することに決めている。
「では、その間少しお側を離れても宜しいでしょうか。他の者に、先程の言付けを伝えて参ります」
「あ、どうぞどうぞ……」
水読のことを無視しまくっていたが、ジルフィーは、引き受けた分はちゃんとこなすつもりのようだ。
私が頷きジルフィーが礼を述べると、それきりまた無言になった。石壁の中に、軽い靴音だけが響く。なんか、今下手にちょっと会話してしまったせいで、無言が気まずくなったな。
「あの、塔の方ってやっぱり、水読さんに逆らうとまずいんじゃないですか? 何か怒ってましたけど、大丈夫ですか……?」
微妙な空気に耐えかね話し掛けると、ジルフィーは歩調も変えず淡々と答える。
「私は貴女様の直属です。彼の方の傘下では御座いません」
「そ、そうなんですか」
つまり、「関係ない」と。言い切っちゃうんだ、すごいな……。
塔の神官(ここには塔兵も含まれるらしい)と言えば全員もれなく水読を崇めていると思っていたので、私にとってその返事は中々のインパクトだった。水読の揺さぶりに負けるなって、王様やあの爺さん辺りから指示でも受けているんだろうか。それならどうでもいいことは無視しつつ、伝言は引き受けるというのも分かる。
……でも、ただ単に水読の事が嫌いなだけとかだったら、やっぱりこの人とは上手くやれそうなんだけどな。だってほら、水読に彼女にちょっかい出された神官とか結構居そうじゃん? 意外とあちこちから恨まれてたりして。
人気のない廊下で、背後からべしっと殴られる水読を想像してみる。犯人は、彼女に粉をかけられた神官(複数)だ。うん、ありそう。寧ろそれくらいはやってよし。
……妄想で憂さ晴らしするしかないなんて、我ながら小物だ。
「あ」
下らない事を考えてほくそ笑んでいて、私ははっと思い出した。
「ジルフィーさ……ジルフィー、あの、お願いがあるんですけど」
「何でしょうか」
「私、アルス王子にお会いしたいんですが、その……予定を聞いてきて頂いたりは、できませんか。ちょっと事情があって、女の子達に頼むのは多分あんまり良くなくて」
アルス王子と会わなきゃいけないんだった、アポを取って貰わないと。
そこで思い出したのは例の事件の際、サニアが一緒に襲われたことだ。一応和解したとは伝えてあるが、彼女達にアルス王子の件でお遣いを頼むのは何となくためらわれた。色々、不安なことを思い出させるかもしれないと思って。
「私の仕事は貴女をお守りする事です」
ジルフィーは、簡潔に答えた。
「それらは直接侍女に申し付けください。問題があれば、彼女達が別の者を遣わせます」
「……あ、は、はい。そうですよね、変なこと言ってすみません」
こ、断られるとは。でも、それもそうか……。
若干ショックを受けつつ、しかしよく考えたら当たり前だったと恥ずかしくなる。なんていうか多分、武器を取る仕事の人に小間使いのようなことを頼んだら失礼なのだ。
ジルフィーはそれきり黙って先を下りている。軽率だったな、気を悪くしさせただろうか……。
「ですが」
しばらく一人反省会をしていたら、不意に声が掛かった。顔を上げるといつの間にか石段は終わっていて、4階の廊下へ出る扉の手前だった。立ち止まり扉の取手に手を掛けたジルフィーが、視線を落としたまま振り向いている。
「今回のみ、私の方から手配しておきます」
「えっ。いいんですか……?」
「但しその間、くれぐれもお部屋から出られませんように」
「は、はい!」
「それから」
視線が動き、目が合った。
「次回はもっと早くにお呼びください」
「……はい」
再度頷いて、私は初めてジルフィーの目をまともに見た気がした。
……灰色、かな?
瞳の色は、思いのほか柔らかい印象のグレーだった。表情はやっぱりニコリともしていなかったが、少し垂れ目な感じと合わさって結構優しく見える。内容も、本人は仕事として言っただけで特に意図は無いんだろうけど、それでも少しほっとしたから顔の造形がソフトというのは得である。
あ、ちなみになんできちんと目を合わせた事が無かったかと言うと、まあ色々と思う所があって……地下の泉での事とかね。いや、詳しく思い出すのはやめとくけど。
ともかく、呆れられっぱなしと落ち込んでいた分、今のでちょっと励まされた気がした。
……よし、せっかく「次は」とチャンスを貰えたんだし、今後はもっと色々気をつけよう。迷惑を掛けないのは不可能かもしれないけど、なるべくこの人達が怒られない様にしなきゃ。
「あの、今後とも宜しくお願いします……」
軽く頭を下げると、少し間を置いて目礼を返された。促され、私は彼より先にドアを出る。後ろに続く気配に、無意識に背筋が伸びた。うーん、こんな人を引き連れて歩くなんて、私には分不相応な扱い。とてもじゃないけど、慣れられるとは思えない。
でもどうせなら、帰るまでお世話になる人達とは仲良くやりたいなあ。水読とは絶対仲良くしたくないけど。




