4 ただの変態
水に関して嘘は言わない。
本当か嘘か、疑いの眼を向ける私に、水読はすました顔で言った。
「水に馴染めば、ミウさんも実感が伴うと思いますよ」
そういえば確か髪がピカピカになったのは、こちらの水が回った為とか何とか言ってたっけか。変化があれば、またそんな風に、目に見えて兆候が現れるんだろうか。できれば、あんまりおかしな変貌じゃないと良いんだけど。
「所で太陽の力を借りるって、手を握ればいいんですか?」
話を戻す。私が聞きたいのは、水読の趣味嗜好ではない。
前回はたまたまアルス王子が脱走してきてくれたので助かったけど、この感じだと近い内に彼を訪ねなければならないだろう。クラインは……ちょっと様子見だ。
水読は、どこか含みのある笑みを浮かべた。
「前回は、アルス殿下の手を握ったんですか?」
「え……まあ……水読さん起こした後だったので、何か変化があるかなと。好奇心というか」
「なるほど。思ったより仲良しだったんですね」
仕方なく答えると、水読は何が面白いのか口の端を釣り上げた。
ヘラヘラじゃなく、上品な聖職者の微笑みだ。気まずさを覚え、つい目を逸らす。本性を知った今、ヘラヘラしない水読はなんか苦手だ。無駄に不安を煽る。
「そうですね、方法としてはそれで結構ですよ。近くに居るだけでも力はある程度移動しますが、基本的には肌の接触が最も有効です」
「ふうん……そうなんですか」
「但し、接触するのは昼間にしてくださいね。短時間で済みます」
「はい。あの、どれくらいとか目安はあるんですか?」
「そうですね、では、十数える程度で。もし足りなくても、後日祈り場にでもお呼びすれば良いですから」
そんなちょっとでいいんだ。楽勝楽勝。しかし王子様を呼びつける気満々とは、やはりこんなんでも水読は偉い人なのか。
「水も同じですよ」
さり気なく手を離そうとした所で、水読が捕えたままの私の右手に指を絡みつかせる。
「こうやって肌が触れている方が、ミウさんの体に早く馴染みます」
「…………」
上目遣いのその言葉に、私は内心舌打ちした。甘く細められた眼差しがなんとも胡散臭いが、手を引き抜くのを一瞬迷ってしまった。だって接触した方が私の為になるかも、って事でしょ。「いい加減離せド変態」とは言いにくい条件をアピールされたわけだ。
複雑な心境を十二分に反映し、忌々しげな表情をしているであろう私に、水読はキョトンと小首をかしげて見せた。
「どうしたんですか? そんな顔をして」
「……せめて、この気持ちだけでもお伝えしたいと思って」
「ああ、照れ隠しですか?」
貴様もポジティブ教か。
「そういえば、水読さんを起こしたときは手に触ると水流みたいなものを感じたんですけど、今は何でそういうの無いんですか?」
「水流ですか。そうですね、それは僕が制限してるからですよ」
疑問に思っていた事を尋ねると、水読は事も無げに答えた。
「あの時は体を離れていたので、上手く調節できなかったんです。勿論、今でもやろうと思えばできますよ。ただあまり意味は無いですし、ミウさんは失神すると思いますけど」
私は先ほどから弄ばれている自分の手を見た。
失神って。人間スタンガンじゃん、今すぐ離して欲しいなあ、すごく。
「大丈夫ですよ。しませんって」
朗らかに言われ、だらりと力なく掌を預ける。なんか……とりあえず刺激しないでおこう……。
「ミウさん、塩の湖を覚えてますか? “泉の乙女”の体は、丁度あの湖のようなものなんですよ」
水読は、消沈する私をよそに続ける。
塩の湖は、地下の泉を除いてメルキュリアで一番低くて大きい湖。
地表の全ての水の到達点。
水読が『地下水』なら“泉の乙女”は『地上の水』だ。
「私は毎日、地下から水を汲み上げます。実際に目に見える水は各々の場所で湧き出ているわけですが、別の視点で見れば、私のこの体が汲み上げられる水の最高地点となります」
別の視点。うーん、そうなんだ?
「水は勝手に低い場所に流れ込むでしょう? 湖にも元の『形』というものがありますから、一時に多く注いでも馴染みませんが、僕の傍に居ればミウさんの体が自然に、一度に取り込める量だけ水を引き寄せます。肌を介すと、よりその流れが豊かになりますね。特に夜だと効果的です」
「…………」
微笑と共に付け加えられた最後の部分は出来れば無いほうが良かったけど、仕方ない。聞かなかったことにしよう。
話を戻して、“泉の乙女”が地表の水に例えられる件について。
湖から地下に染みこむ水も、蒸発して空に浮かぶ水も、結局は地表で循環してる。
「ええ。“泉の乙女”は中継地点、相反する二つを取り持つ存在ですから」
空気や日光に触れ、地面や地下水にも触れる。
「……何か、今日の話は結構分かったような気がします」
「ええと……今までは解り辛かったですか? 必要でしたら、何度でもご説明しますよ。噛んで含めるようにじっくりと」
水読は流し目を寄越し、きゅっと私の指を握り込んだ。その無駄に厭らしい声色に意味はあるのか。キモイ。ていうかいい加減椅子に戻れ。
うんざりしながらお断りを入れた丁度その時、部屋の出入り口をノックする音が響いた。ベルを使わず、扉を三回。私への合図だ。ナイスタイミング!
「おっとお迎えが来てくれたみたいです、貴重なお話ありがとうございました、ではまた。――すいません、今行きます!」
後半は入り口に向かって呼び掛けると、私は水読を避けつつ強引に立ち上がった。釣られるように腰を上げたその体を、腕を突っ張って掌ごと向こうへ押しやる。
「わぁ」
「……手、離してください」
わぁ、じゃないだろ可愛子ぶるな。
「もう出かけますってば」
しかし私の要求を退けるように、水読は掴んだ手を握り直して胸に寄せた。
「ミウさん」
「……何ですか」
楽しげに、囁くように呼ばれて警戒心が芽生える。
「手に触れるよりももっと早くて、気を失わない良い方法があるんですけれど、聞きたくないですか?」
「聞きたくないです。では行ってきます」
きもい。そんなものがあったらとっとと教えろ。でも今更チラつかせてくるって事は、碌なものじゃないに違いない。
気にならないといえば嘘になるけど、私は誘惑を振り切って扉の方へ向かった。安全第一だ。
ただ残念なことに、私がいくら素早く判断しようとも、相手の方が断然手足が長かった。
たっぷりとした袖から伸びた腕が、するりと腕に絡みつく。
「ミウさん、いつからそんなに潔くなったんですか?」
「水読さんこそ、いつの私をご存知ですか。離してください」
やば、ダッシュで逃げるべきだった。
即刻腕を払うが、これまたどうして中々振り払えない。正面に回りこまれ、決して押さえつけられている訳ではないんだけど……この人なんていうか、力を込めずに拘束するのが異常に上手い。どうすれば人の動きを封じられるか熟知している感じだ。うぇ、益々変態っぽい。
腕を取られたままドアを目指すものの、移動する度に段々不利な位置に追いやられている気がする。
「ここは、せっかくだから聞きましょうよ。ね」
ニコッと笑う顔は天使のように純真だ。でも今は逆のものに見える。
「肌ですとやり過ぎになるか、まるきりミウさん任せになるかの二極端なんですが」
焦る私を見下ろしながら、水読は頼んでないのに勝手に続ける。
目を逸らさないまま、私はまた一歩距離を取った。もう、世間話の体を保ちながら穏便に抜けだそうというのは甘いか。
「皮膚より薄い場所を使うと、もっと微妙な調整も出来るんですよね。力の出し入れが容易いと言いますか」
「はぁ」
皮膚より薄い場所……?
推測が着地するより一瞬早く、左足が固いものにぶつかる。しまった、壁だ。
「そうなんですか、凄いですねっ!」
私はとうとう、のらりくらりとやっていたのを振り捨てて逃げ出した。目を見て話しかけながら、力を込めて素早く腕を抜く。あとは突き飛ばしてダッシュ……!
しかし不運にも、それすら向こうの方が上手だった。纏わりつくだけだった掌が、逃げ出した私の手首をしっかり掴んで壁に押し付ける。
「…………」
「ええ、凄いんですよ。でも感覚的なことですから、また解り辛いかもしれませんね――――実際に、試してみないと」
水読はそう言うと、焦る私に見えるように、チロリと唇を舐めた。もはや天使の皮すら無い。完全に悪魔だ。愉しそうに細められた目が、真っ直ぐ私を捉えている。
……え、ないよね? 本気? 「なんちゃって」とか言って、ギリギリで離してくれる感じのアレでしょ?
「私はいつも本気ですよ」
ゆっくりと迫るその影に、ドクンと緊張が走った。悠長な事を言っている場合じゃなかった。その顔がすい、と近付けられ、額が触れるかという所で、私は首を捩って入り口に叫ぶ。
「ジルフィーさん!!」
扉はすぐに開いた。見慣れつつある塔兵の装いが即座に状況を把握し、こちらへ駆けつける。しかし彼の足がどれだけ早かろうと無理なものは無理で、私のものではない長い髪と吐息が首筋をくすぐり、次の瞬間右耳の後ろにヌルリとした何かを感じた。
「……ひぁんっ!」
げっ!?
な、なな、なんか変な声を出してしまった……! 自分で自分にびっくりして、私は慌てて口を押えた。カーっと一気に顔が熱くなる。
目を上げられないでいる内に、私が呼んだ別の影が目の前に割り込んだ。ほっとしたのも束の間。
「随分な無礼ですね」
その背の向こうから酷く冷い声がして、パニクっていた頭から少し血の気が引く。声の主は水読だ。
「その肝の据わり様を買われたんでしょうか。腹立たしい人選です」
な、なんだこの人……? 本当は、こういう風に話す人なの? 耳を疑うほど冷淡で、最初は水読が言ったとは思えなかった。
私は目の前の陰にすっぽり隠れられるのをいいことに、じっと息を潜める。対面しているはずのジルフィーも、じっと立ったまま動かない。というか返事もしない。醸し出されるピリピリとした雰囲気だけが、その場に満ちていく。
しかしそれも一瞬のことで、水読はすぐにフッと空気を緩めた。
「でも、今回は許してあげます――ミウさんの可愛い声が聞けたので」
横から覗き込む顔はもう、普段通りにぽやっと笑っていた。
私の方は、恥ずかしさでまた頬が熱くなる。
「……次やったら、遠慮無く殴ります」
「え。それはそれで……」
ひぃ……喜ぶな、きもちわるい!
せめてもの仕返しに睨みつけるが、水読はにっこりしてからジルフィーを見た。
「さて……今日は地下に降ります。老師にそう伝えてください」
「畏まりました」
ジルフィーは、今度はちゃんと返事をした。それを聞くと、水読は打って変わって甘い声で私に話しかける。
「ミウさん、覚えておいてくださいね」
いつか見た、とろけるような笑顔だ。
「水は夜動くんですよ」
「…………」
囁くように不吉な一言を落とした水読は、私が怯んだのを見ると機嫌良さそうに階段へと消えて行った。




