3 水の司祭
翌朝目覚めると、外は既に明るかった。
私はすぐ部屋の入口を見たが、椅子に動かされた形跡は無かった。よかった。
着替えを済ましてそっとドアを開き、恐る恐る居間を覗き込むと、中央のソファは空っぽだった。しかし視線を巡らせ、部屋の端にその姿を見つける。
水読は窓際の椅子に横向きに腰掛け、頬杖を突いて外を眺めていた。長い髪が横顔を遮り、その表情は窺い知れない。
目を引く淡い水色の髪は、光に当たると白銀の滝のようだった。柔らかな朝日の中で、癖のないそれが微風を受けては僅かに膨らむ。肩からこぼれ落ちた分は、たっぷりとした白い衣服の波に紛れて複雑な曲線を描いていた。
私はしばらく息を潜めて眺めていた。
純粋に綺麗だと思って見とれていたのだ。物も言わずじっとしている水読は、同じ人間とは思えないほど神秘的で、ひどく侵しがたい雰囲気だ。勿論、中身を知らなければの話だけれど。
黙って見ていると、彼はふとこちらに気付いた。
「ミウさん。おはようございます」
「……おはようございます」
にっこり微笑む顔に先手を取られ、私はそろそろと部屋から出た。
昨夜の態度は夢まぼろしか、水読はすっかり穏やかな雰囲気だった。まるで何も知らなかった時のようだ。しかも今朝は、部屋の鍵もちゃんと掛かってたし。
それが少しだけ私の警戒心を薄れさせる。
「雨、上がったんですね」
水場で顔を洗って居間に戻ると、私はそう言って窓に近付いた。水読の隣の窓を半分開けて、外を見上げる。朝日に透けた空は青く、よく澄み渡っていた。数日前より少し気温が下り、涼しくなった風に秋の匂いが混じっている。気持ちの良い天気だ。
深呼吸していると、水読は私の言葉に不自然な間を置いてから「ええ」と答えた。疑問に思ってちらと見やると、何故か向こうも少し不思議そうにしている。
「……何ですか」
「いえ。ミウさんから傍へ来てくださったので、何だか新鮮でした」
「離れましょうか」
そんなことで驚かれるとは、本人にすらもっと遠巻きにしているべきだという自覚でもあるのか。そんなワケないな。
「えー、そこへ掛けてくださいよ。風が気持ちいいですよ」
ですよね。
ともあれ傍の椅子を勧められ、私は大人しく腰掛けた。水読の椅子とは間隔があるし、まあいいかと思ったのだ。しかしそんな矢先、そーっと白い手が伸びてくるのを目の端に捉え、私は素早くそれを躱す。
「あっ、また」
「だから、何ですぐ触ろうとするんですか!」
サッと避けたのが気に入らなかったらしく、水読が不満気に口をとがらせる。またかと言いたいのはこっちだ。ナチュラルに何なんだ、癖か。セクハラ親父か。やっぱもっと距離いるな。
立ち上がりかけた私に、水読は割と真面目に弁解した。
「ミウさんの、水の様子を見ようと思っただけですよ」
「え……本当ですか?」
「はい、触ると分かるので。できれば額がいいんですが」
それって、もしかして額同士?
「駄目ですか? じゃあ、手で良いです」
「…………」
ちょっと躊躇した。
理由がそれなら断りにくいけど、手を封じられるのもやだなぁ……。
こんな考え、以前の私が聞いたら自意識過剰だと笑うに違いない。でも今は、うも言っていられなくなってしまった。この人の過去の所業の数々を聞いた今、用心しすぎるくらいで丁度良いという助言を無視する勇気がない。
「そんなに警戒してもらえるというのも、ある意味では誉れですけどね」
ムカつく。
私は口をへの字に曲げ、右手を突き出した。しまった、うっかり腹立たしさが勝ってしまった。まあいいや、場合によっては叫ぼう。今なら多分大きな声が出る。
「ふふ……では、失礼しますね」
その様子を見て楽しそうに笑うと、水読は音も無く立ち上がり密かに身構える私の手を取った。構えた割に別段怪しい素振りも無く、そのまま跪くようにして足元に身をかがめ、狭い額を私の指の背にくっつける。
部屋には、しばしの沈黙が落ちた。
「…………」
……まだかな。気まずいんですけど。
その状態が数分続き、私は下手に動くことも出来ずじりじりしながら目の前の人物の旋毛を見下ろしていた。頭を垂れる水読の髪は、引きずらないよう右の肩に流されていた。絹糸の束のようなそのすき間から、透けるように白いうなじが見える。
――綺麗な人だ。
私は複雑な思いで窓の外に目を逸らした。水読には、女形を思わせるような妙な婀娜っぽさがあった。多分私、これのせいで騙されたんだよね。本当は男のくせに。
幾らか経って、ようやく水読が顔を上げた。私は内心ホッと息を吐き、さり気なく右手を引っ込めようとした。しかし水読がこれまたそれと気づかないような、絶妙にさり気ない動作で封じてくる。なんでやねん。くそっ、離せ。
水面下でやっきになりながら、私は何でもない表情で水読の顔を見た。陽光の下、額に薄く逆涙型の模様が確認できる。
「三日以内くらいに、また雨をお願いしても良いですか」
「……はい」
「では、クライン殿下か、アルス殿下でお願いしますね。レオはやり難いので」
頷くと水読はにっこりした。日の力とやらを借りてこい、という話だ。
「その二人と王様の違いは、やっぱり”呪い”ですか?」
「そうですね。それだけでも無いですが」
尋ねると、早く椅子に戻ればいいのに、水読はその場に屈みこんだまま説明してくれる。
「これは形式的な考え方ですが、この国で一番目と言えば『太陽』です。二番目は『月』。そして例外の三番目が『乙女の月』。神話の流れですね。これはそのまま、『王族』と『水読』、『泉の乙女』に置き換えられます」
私は黙って頷く。
「それから、全ての事象は陽と陰の二面に分かれて釣り合っているとお話しましたよね。陽とは王族、陰は塔、“泉の乙女”は陰寄りの中立です。王族の主力は今、国王陛下並びにその弟君で、彼らは三人兄弟なので、この3つの性質が割り振られると見立てられます」
「見立て、ですか」
「はい」
水読の言う所によれば、王族なので三人とも本質的には太陽・火の系統だけど、そこへ「三分割」が意味するところの副次的な要素が加味されるらしい。
王様の性質は、主要としては『陽』、順番的にも『陽』。
クラインは二番目なので、『陽』に『陰』。
アルス王子は、『陽』に『陰寄りの中立』。
「何となく、ですけれどね。私が干渉しやすい理由としては、”呪い”の有無が殆どです。あれは陰の性質ですから。アルス殿下だと楽というのは、それに加えて『三人目』であり、”乙女の黒”を持っているためです。雨乞いに適していますし、ミウさんと馴染み易いんですよ」
「へぇ……」
なるほど。私の方に自覚は全く無いが、この事は今度アルス王子に話してあげよう。雨降らすのに一番の適任って言ったら喜びそうだ。
「そういえば、私を『水寄りにする』というのはどうなってました?」
ついでに、今しがたの確認の成果を問う。ほんの2、3日じゃ結果は出ないかな。できれば早く進んでほしいんだけど。
「うーん、そうですね。正直、今の所大して変化はありません。まだまだ掛かりますね」
「えぇ……」
「ええって、何でですか。長く掛かるほうが、私たち一緒に居られますよ」
それどんな不幸。
「というか……まさか、これまでの水の話とか全部嘘じゃないですよね」
無意味な甘言をかいくぐり、私はジトッと疑惑の目を向ける。この人の言う事は、何がどこまで真実なのか判断付かない。
水読は苦笑した。
「私は、水に関しての嘘は言いませんよ」
「本当ですか?」
「はい。だって、僕にしか本当かどうか分からないじゃないですか。嘘を吐く意味がないですよ」
「はぁ……」
意味ないって。バレる前提の嘘が好きってこと? ……ちょっと、私には何言ってるのかよく分からない。




