2 ボディーガード
夕食を済まして、とっぷり日も暮れた頃。
私は渋々4階の部屋を出て、塔を上っていた。
超疲れた……!
思わず心の中で零すくらい、作法の勉強も大変だった。
今日は姿勢がメインだったが、本を読むにも、食事するにも信じられない程気を使う。アプリコットもサニアも口調は優しいけれど、さすが“泉の乙女”の教育係を任されるだけあって、細かい部分まできっちりしていて誤魔化しの無い仕事ぶりだった。そうなると、こちらも真剣にならざるを得ない。
所でどうして礼儀作法かと言えば、これも当然“泉の乙女”という立場のせいだ。
特殊な存在なので、式典などに出席させられる可能性があるらしい。また普段の生活でもそれなりに人目があるし、相応の立ち振舞を身につけておくのが無難ということだ。
勿論これまでみたいに「異国の人間だから」と言って済ましてしまっても良かったが、私は勧められるまま勉強することを選んだ。だって私もなるべく恥をかきたくないし、王様とか関係者方面にも気兼ねだし。
本当は、一刻も早く雨や“二の月”のことを調べたかったんだけど、読み書きの勉強も同時進行だったので、せめて黙読できる程度まではと……お作法の特訓は甘んじて受けることにした。帰れば語学は役に立たないけれど、美しい所作は元の世界と通じるところがある。留学か習い事だと思って頑張ればいいか。
考え事をする内に目的の階に到着し、足音を潜めてそっとドアを開ける。
「…………」
部屋を覗きこむと、ランプには火が点いていた。しかし物音はない。窓や家具の足に、静かな光が揺れるだけだ。
よっしゃ。
私は、これ幸いと一歩踏み出した。水読は自室だろうか、もしくは上の祈り場か。この隙に部屋に引き篭もろう。
しかし、入り口を通り過ぎた瞬間。
「私をお探しですか?」
「ぎゃっ!!」
突然後ろから抱き竦められて、私は思わず悲鳴を上げた。
「は、離してください!! 居たんですか!?」
びっくりした、心臓止まるかと思った……くっそ、不在だと思ったのに!
水読は入り口から死角の場所に潜んでいたらしい。一切気配が無いのはどういうことだ。
「勿論です。ここは一応、僕の部屋ですから」
「そうでしたね!」
なんでここで寝なきゃいけないんだろ!
耳元で笑う愉快そうな声を、私はその腕ごと振り切って扉の外に逃れた。そして、そこに居た人物の後ろに回り込む。私を開放した水読はゆっくりとその後を追い、そして言う。
「……どいて頂けませんか?」
「駄目です!」
にっこり微笑む水読を見て、私はその人の陰から答えた。間に挟まれた当の人物は、何も言わずじっと立っている。
さて、その人物というのは、予告通り私に付けられた塔兵だった。
名前をジルフィー・リードさんと言う。年は25歳だそうだ。
背が高く、波打つベージュの髪を一括りにした彼は物静かな印象で、少し垂れ気味の目が優しい風貌だった。しかし勤務態度は極めて実直だというその人は、あの神官長の爺さんの孫であり、身分にも実力も申し分ないエリートらしい。王様とか見てると今更にも思えるが、天は一人の人間に二物も三物も与えるもんだなぁ……。
ついでに言うと、この人とは初対面じゃなかった。紹介を受ける前に、少なくとも一度は目にしている。彼は、私が泉から出てきた時に着物を貸してくれた人だったのだ……思い出すと恥ずかしいから、これ以上の記憶は封印するけど。
「すみません、部屋まで付き添ってもらえますか」
「仰せのままに」
睨み合っていても仕方がないので(睨んでいるのは私だけだけど)そう声を掛けると、ジルフィーさんは一歩踏み出す。私は警戒を保ったまま、その陰に隠れるようにして追随。
じっと見ていた水読が、咎めるように目を細めて言う。
「おや。私は、貴方の立ち入りを許可していませんよ?」
うわ、そういう事を言うか。でもその程度じゃ怯まないぞ。
「今は、私がお願いしたので大丈夫です。ね、ジルフィーさん」
“泉の乙女”の面倒は、その権限をもって退けるべし。
何でも私は塔に関しては水読と同等らしいので、多少の口添えは出来るはず。
しかし呼びかけた相手からは、全然違う返事が来た。
「私の事は、どうぞお呼び捨てください」
「え」
そこですか。
意図的なのか、ずらされた論点に口篭ると、水読があれっ、と口を挟む。
「もしかしてミウさん、人を呼び捨てにするのは苦手ですか?」
「…………」
なんだそのいきなり世間話は。私は不審の目を向ける。が、その指摘自体は、実は図星だった。なんせ私、長いものには割と無抵抗に巻かれて生きてきたからね。目上、年上、初対面には敬語と敬称が欠かせない。口に出して呼び捨てって、慣れなくて違和感あるんだよね。
ええまあ、と答えると、水読は朗らかに微笑んだ。
「じゃあお揃いですね。僕も何となく苦手なんですよねー」
え、やだ。
「ジルフィーって呼んでも良いですか?」
「ええっ!?」
苦手意識は犠牲になったのだ。
躊躇なく抵抗感をかなぐり捨てる私に、水読が非難の声を上げる。
「光栄です」
肝心のジルフィーさ……ジルフィーは、それを完璧に無視して頷いた。
「なんですかそれは、ミウさん酷い……あなたも、ミウさんが苦手だと言っているんですから、辞退するべきじゃないですか」
「…………」
あ、また無視してる。
その後も水読が喚くが、ジルフィーは一言も口を開かなかった。
……何か私、この人とは上手くやれそうかも。塔の人なのに、水読への容赦無い黙殺っぷりが気持ちいい。
◇ ◇ ◇
「よかった、ひとまず今夜も無事に自室に篭れた……」
部屋に引っ込んだ後、私は内側から鍵を掛けて朝と同じく椅子を運び、そこでようやく一息吐いていた。
なにとぞ安眠できますように。なにとぞ、なにとぞ。
誰にともなくそう祈り、閉じられたドアを眺める。……これだけじゃ不安だな、もっと何か動かせるもの無いかな。
今しがた運んだ椅子に腰掛け部屋の中を見回した所で、カチャリと不穏な音が響いた。それはすぐさま、ガツンという衝撃音に替わる。
「わっ、ミウさん何置いたんですか!」
1/4程開けられた扉が、椅子にぶつかって停止していた。驚いて立ち上がろうとしていた私は、慌てて椅子に掛け直す。危ねえ……!
「やっぱり鍵持ってるんじゃないですか! 渡してくださいよ!」
「何のことでしょう。それよりミウさん、何で戸が開かないんですか」
尋ねるのは勿論水読だ。施錠したはずのドアをノックもせずに開けておいて、その開き直りは何なんだ。厚かましいすり替えに呆れ返る。
「何かご用ですか。そういえば私、大声出す練習しろって言われてたんですよね」
居間の外には、常駐の見張りが立っている。けしかける私に、水読は「意地悪」と文句を言った。失敬な、自己防衛と言って欲しいんですが。
「中に入れてください」
「嫌です」
「じゃあ外に出てきてください」
「嫌です」
「ええー。まだ寝るには早いじゃないですか。お話しましょうよー」
何だこれ、駄々っ子か。
断固として椅子から動かないまま、私は水読の要望を断り続けた。
そういえば、こんなような昔話なかったっけ。女の子が留守番している時に、戸口で「指一本分だけ開けて」と悪者がそそのかすやつ。悪者は確か……「天邪鬼」だ。水読にぴったりすぎる。
「もう……」
私が脱線している内に、ドアの外では不満そうな声がした。次いでトン、と軽い物音がする。訝しく思って恐る恐る覗くと、隙間越しに目が合った。何と、水読も反対側に椅子を持ってきて腰掛けている。
「……何やってるんですか」
「ミウさんの真似です」
「何のために……」
マジ、意味わからん。
呆れる私をよそにニコニコと嬉しそうな水読は、おもむろに向こう側から手を伸ばしてくる。私はさっとドアの影まで身を引いた。
「あっ、なんで避けるんですか!」
「いや、何で触ろうとするんですか」
「ちょっとくらい良いじゃないですか。こんなに冷たくされたのは初めてです。レオを恨みます」
「私は、王様に大変感謝してます」
すると水読は一旦手を引っ込め、しょんぼりした声で訴える。
「もう、どこがですか……。ミウさん見てくださいよ、こんな証書まで寄越して」
再び伸ばされたその手には、一枚の書類があった。私は触れられない位置をキープしつつ垣間見る。ひらりと摘み上げられた書面には、唐草模様のようなこちらの文字が何行にも渡って綴られていた。最後の所には、太陽を模した文様と猛獣の様な印がそれぞれ捺されている。
……これって、もしかして。
「ミウさんと、国王陛下の婚約届けですよ」
「うわぁ……」
やっぱりか……。
私はそれを苦々しい気持ちで見やった。照れるとか恥ずかしいとかより罪悪感の方が断然強いのは、実態が偽物の契約だからだろうか。何か、ヤバい事になってる気がするんだけど。
「……この紙、皆持ってるんですか?」
「いいえ?」
その返事にちょっとホッとした。確か王様はこの話の時、水読と上役にのみ知らせると言っていた。うっかり広まってしまったら色々大変そうだし、帰る時に困りそうなので、知る人は少ないに限る。
そう思っている内に紙を持った手は引っ込み、水読が溜息を吐いた。
「でも、もういっそのこと城中にバラ撒いちゃいましょうか」
「ええっ!? それはちょっと……!」
ぎょっとして椅子から身を乗り出す。
「ええ、しませんよ。そんなことして困るのは、僕とミウさんとお后候補の親族くらいです。全く、腹立たしいですね」
「…………」
……冗談か。脅かさないで欲しい。
うっかり目にしたその隙間からは、拗ねたような表情の水読の片目が覗いていた。ずっと見てる気だろうか。ホラーですか。
はあ、と息を吐いて背もたれに寄り掛かると、反対側からも同じような気配がした。水読もドアにもたれかかったらしい。
「ねえ、ミウさん」
木製の板に、囁くような声が振動する。
「どうして、レオがあんなに貴女の事を気に掛けるか分かります?」
「……何ですか急に」
何故か、少しだけ緊張した。逆に問い返す私に、水読は質問を変えずに重ねた。
「分かります?」
「同情心じゃないですか」
それしかありえない。
「おや、意外と冷静ですね。……本当にそう思います? こんな事までして?」
扉の向こうからは、ピラピラと紙を揺らす音がした。
まるで水底の澱が舞い上がるように、静かに心がさざめいていく。
「しつこいです。他に何があるんですか」
私は平静を装った。
王様が親切なのは、ただの同情だ。あの人案外優しいんだ。しかしそう思いつつも、うっかり頭の端をよぎった思考に、じわ、と顔が熱くなる。
想い起こされるのは、塔の階段での会話。
ランタンの灯りに映える石の壁と、金の髪。私に向けられた瞳、語りかける声。
――本当に、絶対にそれだけ?
もし王様が本当に、私の事を結構嫌いじゃないと思ってたりしたら…………って危ない危ない、一体何を考えたんだ。
私は、心にぼんやり浮かんだその期待を、すぐさま掻き消した。
彼の言動に理由があるとすれば、同情と政略の二つだけだろう。そう、ただそれだけだ。
「ミウさん、僕は今、貴女がどんな顔をしてるのか見たいです」
水読が面白がるように言うのが聞こえ、私は苛立ちを覚えた。絶対開けさせてなるものかと椅子に深く腰掛け、靴を脱いで両足まで乗せてやった。この人は、私が困るのを楽しんでいるんだ。やっぱり性格悪い。……水読にとってはそれまでだが、私はそれだけでは済まないのに。
さっきの婚約書とか、変に意識してしまったら最後、なんかおかしな事になる予感がする。
考えをもみ消そうと無言でいると、水読が続ける。
「ミウさんの予測は合ってますよ。同情です。レオは見かけによらず人情家らしいですね。零れ落ちるものがあれば、救おうとしてしまうんでしょう。職業病じゃないでしょうか」
あっさり言われ、私はやっぱりイラッとした。今度は自分にだ。完全に翻弄されている。
「ただ、ちょっと仕事に関しては問題ありですよね。手の及ぶ範囲が広すぎる上に、何でも全てこなせてしまうなんて異常です。もっと人任せにしないと――あれでは王としては不十分です。早死にしますね」
「え……?」
不吉な発言に、思わず声を上げる。また寿命の話?
「あ、気にしなくていいですよ。ただの比喩ですから」
「紛らわしい冗談は止めてください」
「あはは、すみません」
水読の口調は、相変わらず軽い。しかしその次の言葉は、やけに腑に落ちるものだった。
「レオは変わり者ですからね。自分に与えられなかったものを人に与えて、それで満たされる人なんですよ」
「……そうなんですか」
私は相槌を打ちつつ、ぼんやりと思いを馳せる。
生まれつき王位を約束されていて、若くして国を任される。それがどういう事なのかは、私などにはとても想像がつかない。よく考えたら、王様は私と5つしか違わないのだ。それなのにあの威厳のある雰囲気に、あの手腕、相応の苦労を経ての今だという事は推測できる。天賦のものを持って生まれたのは確実だとしても。
生まれや運命を嘆く代わりに、水読の言う通り、そうやって自分を保って来たんだろうか? 10手も20手も先を行くようなあの人の事は、私には読み切れなけど。
「でも私は、ちゃんとミウさんと仲良くしたいと思ってますよ。同情なんかじゃなくて」
「……あ、そうですか」
急にトーンを落として艶っぽく囁かれ、私はそこで深刻な思考を打ち切った。なんかこう、ニュアンスが殺し文句的だった。これが言いたいが為の王様の話かい。
「それに王様も、この人だけには変わり者って言われたくないだろうなぁ……」
「ミウさん、声に出てますよ」
「あ」
うっかり……。
「ていうか、いい加減自分の部屋に戻ってください。そして安眠妨害しないでください」
「はぁい」
面倒になってそう言うと、水読は案外素直に返事をした。椅子を動かす気配に合わせて、私も内側から椅子を押しやり、ドアを閉める。早速過ぎる、酷いとか言われたが気にしない。
そうして再び鍵をかけ直した所で、扉の外から声を掛けられた。
「ミウさん」
「何ですか」
まだ何かあるの?
うんざり聞き返した次に聞こえた声は、先程のようなおどけたものではなかった。
「レオを好きにならないでくださいね」
「……は?」
「誰のものにもなっちゃ駄目ですからね」
「…………」
不覚にも一瞬ドキリとした。勿論内容だけ聞けば、また戯言かと流しただろう。でもその時は、そうは出来なかった。ポツリとそう言う水読の声があまりにも淋しそうで、不安気に揺れていて。
この人は、何を抱えている……?
私はつい「どうして」と尋ねようとして、やめた。これも演技かもしれない。甘い顔をするのは、よく考えてからだ。
「……私、帰りますから」
「そうでしたね」
とにかく、今言える事だけを告げる。
水読の返事は苦笑交じりで、もういつもと変わらない響きだった。




