16 美しき雨
「いやーまさか、本気で信じてくださるとは思ってなかったんですけどね。この手、意外と使えそうですね」
「二度と使うなよ。しかし一体どういう世界から来たのか。是非詳しく聞きたいな」
「…………」
ポツポツと交わされる会話を背に、私はクッションに顔を埋めていた。もうやだ。
水読の精神的な性別が女性というのは、真っ赤な嘘だった。まあ、冷静に考えれば当然ではある。鵜呑みにした自分を呪うしかない。好意的に受け取りすぎた。
でもこの人が嘘を言うなんて、全く思えなかったんだよなぁ……というか今でも信じられない。夢の中で会った時も、起きてからのやり取りも、あの優しい雰囲気は全部嘘だったっていうのか。うう、また裏切られた。
落ち込めばいいのか、よくも騙したと怒ればいいのか分からない。あと猛烈に恥ずかしい。
「いっそのこと、そう思い込んでいた方が気楽だったかもしれませんね」
少し離れた別のソファから、水読が苦笑気味に言う。そ、それはもしかしたらそうだったのか……も?
「で、程々の頃合いで急に迫られて、落差にやられると。美味しいですねー、まあずっと隠してベタベタ過ごすのも捨てがたいですけど」
「…………」
私は、一瞬感化されそうになっていた意識を引き戻した。美味しいって何だ。お手軽でってか。そんな凶悪なプランは絶対に却下だ。
「何故俺よりこんな奴の方を信じたのか、自分を疑うだろう?」
「はい……」
王様の問い掛けに、地を這うような声で答える。
私はかなりミスってた訳だ。一番信頼するべき人を恐れ、最も疑うべき相手をすんなり受け入れていた。
もっと早くから王様を頼って、水読と接触する度に詳しく話し合えていたら良かったんだろうけど、現実には真逆の対応をしてしまっていた……や、やめよう、今は何も考えたくない。下手に考えると死にたくなるし。
「ミウさん」
石の様にじっとしていると、微かな衣擦れの音が聞こえた。頭のすぐ上から声が掛かり、私はがばりと後ろに身を引く。
目の前には、ソファに腕を乗せる水読の姿があった。音もなく動くな、この人王様とはまた別の意味で怖い。アレな評判と態度の豹変ぶりを目撃し、いきなりひしひしと危機感を覚える。
クッションを抱え込んでギリギリまで距離を取ると、水読はふふ、と楽しそうに笑った。
「ごめんなさい、許してくださいね。仲良くしましょう? どちらにしても同棲しなきゃいけないんですから」
「ルームシェアと言ってください!」
「何ですか? それは」
ニュアンスの問題だけど、その言い回しは気に入らない。そしてキョトンと小首を傾げる水読に腹立たしさを覚える。ブリっ子はやめろ!
眉間にシワを寄せ警戒心MAXな私の頬に、水読は懲りた様子もなく手を伸ばした。
反射的に払い除けようとして、私はギクリとして途中で止めた。重大な事に気付いてしまったのだ。ヘラヘラと無駄に機嫌良さそうな顔をしている癖に、その切れ長の瞳だけが妙に冷静で。
「きっと仲良くできますよ。ね? ミウさん」
囁くように告げるその声は、とろけるように優しかった。その意味を正確に理解してしまい、凍りつく。
――そうだった。私は、この人に対して決定的に不利なのだ。
もし気に入らないことをして、「元の世界に帰さない」とでも言われてしまったら。
「触るな」
硬直する私に代わって、後ろから別の手がそれを払った。ぐいと肩を引かれ、すぐ後ろあったその体に背を預けさせられる。突然のことに慌てふためくが、肩の手のせいで起き上がれない。頬に、自分の物ではない髪が触れる。
そして、耳元で深い美しい声がミウ、と私を呼んだ。
「もしこれに帰すの帰さないのと脅されても、決して飲むなよ。口外するなと言われてもだ。不条理な選択を迫られたら、必ず一度断って相談しろ。俺が間に入る。意見が割れたら、迷わず俺に付け」
「は、はい!」
私は上ずった声で返事をした。囁かないでほしい。水読に騙されていたと発覚した時から顔が火照ってるが、今確実に悪化した。
そしてそれがバッチリ見えるであろう場所から、水読が不思議そうにこちらを見つめていた。その目にはさっきと同じ、純粋な疑問が浮かび、頼んでもないのに真顔で余計な事を言う。
「レオ、もしかして本気でミウさんと結婚しようとしてます?」
「牽制になるなら、そうだと言っても良いんだが」
王様の答えも答えだ。
私は真下を向いた。これに対する「正しいリアクション」が分からない。とりあえず、緊張で頭が爆発する前にどうにかしないと……! つまり王様離してください、その為にまず水読はどっか行け。
内心でシッシと手を振る私を見て、諸悪の根源は長い髪を傾け、にっこりと微笑んだ。
「女性は困った顔が一番魅力的ですよね」
「悪趣味だな」
ほんと、趣味悪すぎる……。
◇
何とか全員が私的正しい持ち場に戻り落ち着いた後、引っ越しについての相談となった。日時や付き人を一緒に住まわせられないか等々が、時々茶々を入れられつつ話し合われる。勿論、茶々入れるのは水読である。
私としては、アプリコットかサニアが一緒に来てくれないかと考えたのだけど、塔は基本的に女人禁制なのだそうだ。“泉の乙女”に纏わる泉の真上なので、敬意を表して“乙女”以外の女性は入れない事になっているらしい。塔に女性の神官が居ないのも、これが理由だという。尤も、現時点では図らずとも水読の毒牙から女性達を守る働きを担っているが。
「と、そういういう理由で、お前は極力この部屋を空けている方が良い。これと二人きりになるな。警護の者を付けるつもりだが、お前が丸め込まれては手が回らんからな」
王様が言うのを、私は膝の上で両手を握り真剣に頷いて聞いた。
「ちょっと待って下さいよ、丸め込まれるののどこがいけないんですか」
すかさず水読が口を挟む。何だその主張は。
「ミウ、こいつに好きにされたいか?」
私はブンブンと首を振った。恐ろしい質問だ。
「ある程度から先は、自分の身は自分で守って貰わねばな。近寄られたら、殴るなり蹴るなりするといい。これは頑丈だから遠慮はいらん」
「しれっと酷い助言をしますね」
「お前の手癖の悪さは目に余る。泣き寝入りした者の数などは数えたくもない」
なにそれ、王様も全部把握していないくらいアレなのか……。
こうして水読がいかに鮮色家かを聞かされた私は、更に存分に警戒を深める事となった。まさか自分なんて、というのは一番危険だそうだ。完全に犯罪者対策である。
「心外です。私は、女性に無理強いをしたことは一度だってありませんよ」
水読は不服そうに言うが、私は不信に満ちた目で見やった。そこで胸を張られても、それ以前の問題なんですけど。一つも見直せないっていうか。
ただそんな状態なのに、眠る時にここに居なければ意味がないというのは、王様でも覆せない、揺るがぬ事実のようだ。恐ろしい話を聞いた後で、辞退出来ないのが辛すぎる。
「廊下で寝ます。それか、上の階で」
「大丈夫ですよ。寝室には鍵が付いていますし」
私の意見をことごとく却下し、水読は微笑んだ。鍵ね、無ければお話にならない。
「まあ、合鍵は僕が持っているんですけど」
薄氷のような安堵が早くも崩壊した。意味ない。
「渡せ」
「仕方ないですね……」
王様が言うと、水読はよっこいしょと立ち上がった。そして棚の上の引き出しから、一つの鍵を出して手渡す。おお、良かった。これで一安心だ。
しかし王様は鍵を持ったまま無言で立ち上がり、私の住まうことになる部屋の扉へ向かった。そして鍵を鍵穴に鍵を差し込んだかと思うと、おもむろに水読に投げ返した。
「本物をよこせ」
「…………」
偽物だったらしい。
「全く、細かいことに気がつく人ですね……あんまりみみっちいともてませんよ」
「問題ないな。そうだろう?」
私に聞かないで……。
はいともいいえとも答えられず、私は息を潜めてソファで縮こまった。その間に水読がブツブツ言いながら別の鍵を渡し、王様が再び鍵穴にそれを差し込む。今度はちゃんと回ったようだ。
「これは老師に預けておく」
やれやれと息をつく王様に、水読は口を尖らせて言う。
「この人、意地悪ですよねぇ? どういう権利があるのか知りませんが、何かと僕の邪魔をするんですよ」
王権じゃね?
私は小さく首を振った。それは意地悪と言いません。
王様と水読が一見不毛にも思える応報(でも多分今後のために重要な話)をしている間、私はソファで大人しくそれを聞いていた。口を挟んで矛先を向けられては困るので、存在感を薄めるべくひたすら沈黙を保つ。
この二人は仲が良いのか悪いのか謎だが、なんかこう、対等という感じはある。そんな所に私などが入っていったら、あっという間にミンチにされるのが関の山だ。いくら“泉の乙女”とか言われても中身は一般人だし、更に私はその中でも小心者に分類されるはずなので、せいぜい大人しくして余計な火の粉を引っ被らないよう心掛けたい。
さて、私が息を潜めてじっとしている間、窓の外では、長らく目にしなかった雲が出始めていた。それは誰も気が付かない内に音もなく星空を覆い隠し、厚く広く重なっていく。
そして遂に、誰もが待ち望んでいたその一粒が、静かに地上へと落とされた。
微かな音が聞こえ始めて、私はようやく窓に目を向けた。
「あ、雨……!」
呟くと、掛け合いの声が途切れ、視線が集まる。
「来ましたね」
水読が穏やかな声で言った。
――雨だ。
気が付くと、私は吸い寄せられるように窓辺へ行き、窓を開けていた。
水滴が、石の手すりや床で弾けては小さな音を立てている。こちらに来てしまう前には嫌気が差すほど耳にしたその囁きが、今は酷く懐かしい。
ランプの光を背に覗き込めば、湿った空気と雨の匂いが鼻孔をくすぐる。仄暗い影の中にも、水の粒がバルコニーを濡らし色を濃くしているのが分かる。そしてこの部屋を通り過ぎた無数の雫たちは、静かに下界へと降り注いで行く。
私は目を閉じ、耳を澄ました。
夜の闇の中で、物言わぬ沢山の植物が、乾いた大地が、久方ぶりの水を得て歓喜に沸き立っているような気がした。
窓際でじっとしている私の隣に、背の高い人影が二つ立った。
満足気な溜息は、王様のものだろう。
一つ隣の窓を、そっと開いたのは水読だ。
私たちはしばらくそこに佇み、染み渡るような雨音と、水を含んだ夜の空気をたっぷり浴びた。
◇ ◇ ◇
水読の部屋を出て、私と王様は、来た時と同じように暗い石段を下っていた。
「では、手配が出来次第転居だな。今の部屋は一応、お前の為に残しておこう」
「え。いえそんな、悪いですので……」
「いや、逃げ場はあった方が良いぞ。だがそうだな、もしかすると城は難しいか……“泉の乙女”となれば、塔に所在が有るべきだと騒がれそうだ。塔に掛け合って一部屋確保させるか」
「……ありがとうございます、何から何まで」
恐縮しつつ、申し出をありがたく受ける。こういう所が庶民というか、自室を貰うという発想がなかった。水読について散々脅されたが、それなら何とかなるような気がする。夜寝る時だけ、先ほどの部屋にダッシュで駆け込んで鍵を閉める生活をすれば良いか。
「しかしお前は、妙に人が良いというか……正直心配だな」
人が良い、の後に「ぼーっとしている」とか「詰めが甘い」と聞こえた気がするが、敢えてそれは聞き流して、私は答えた。
「何とかなりますよ」
現に雨も降ったくらいだ。最初は絶対に無理、ありえないと思っていたにも拘らず、解決してしまった。だから多分、その他も上手いこと行くに違いない。というか、そうとしか信じない。ポジティブ教信者として生きるぞ、私は。
「そう言われれば、そうかと答える外に無いが」
改めて決意を固める私に、王様は苦笑を漏らした。そして、思いついたように突然言う。
「お前、本当に俺の妻になるか?」
「へっ!?」
本日何度目かの爆弾発言をした声の主は、目を見開く私をちらりと振り返ると、可笑しそうに笑った……な、何だびっくりした、冗談か。
「驚くほど何もかも顔に出るな」
ひどい。
「か、からかわないでください……私、絶対帰るって決めてますから」
「そうか? 頷いてくれると助かったんだが」
「助かるって……」
からかうにしても、決して恋愛感情があって言っている話じゃない。それだけは分かりきっているので、私は出来るだけ平静を保って聞き返した。
王様は何の事もなく答える。
「この年にもなると、流石に周りが煩くてな。理由を付けては引き伸ばすのも、そろそろ無理があるようだ」
国王としても、彼の年で未婚なのは珍しいようだ。こちらは成人年齢も早いし。でも、それと私は無関係である。
「釣り合う方を選ばれたらいいじゃないですか」
その地位が好まれるか倦厭されるかは別としても、この人ともなれば選り取り見取りだろう。相手が威圧感に耐えられる場合に限るけど……。
「釣り合う? それを言ってしまえば、それこそお前しか居なくなるぞ」
「な、何でそうなるんですか」
「“泉の乙女”だからな」
ああそっか、特殊な立場の釣り合いがね……ってそういうことじゃなくて、外見とか家柄とか中身の話をしているのだ。私は本来一般人です。
王様は笑った。
「まあ聞け。花嫁選びも中々難しいんだ。俺の代は“呪い”が出ただろう? 王家の血を薄める為に、出来るだけ遠い筋から妻を娶らなければならない。が、その辺りで臣下が揉めて仕方がない。その点お前は最適だ、何せ異国の人間だからな、太陽の血は一滴も入っていないし、しがらみも無い」
なんという政略結婚。
非常に合理的な理由を説明され、甚く腑に落ちた。でも、それだけだ。私にはそのしがらみ、もとい人との繋がりが向こうにあるんですよ!
「私で手を打たなくても、きっとすぐ王様にぴったりの素敵な人が現れますよ!」
何の根拠もないけれど、ポジティブ教として無責任に断言すると、王様は何故か大笑いした。
「初めて袖にされたぞ。お前、中々度胸があるな」
「そ、そういうあれじゃ」
この人の笑いのツボは、ちょっとよく分からない。袖も何も、ジョークを真に受けると恥ずかしいってことは先程よくよく勉強させられたばかりだ。それに、思い切り政略的解説をしておいて何を言うか。
「ああ、口説かれ方が気に入らなかったのか」
「違います!」
ついぴしゃりと言うと、今度は吹き出された。まあ、怒り出されるよりマシかな……。
「俺が本気で口説いたら困るだろう? 絶対に逃げられないぞ。惚れてしまうしな」
恐ろしい程自信家な発言だが、それが許されるだけの資質があるのが問題だ。惚れる惚れないはともかくとして。
「お前が帰りたいというのなら、引き続き協力はする。俺の気が変わる前に帰れると良いな。だが、もし帰れなくても心配するな」
「…………」
「まあ、考えておけ」
何をですか。
軽く言う王様は機嫌が良さそうだ。脅しなのか励ましなのかよく分からない言葉に、私は曖昧な声を上げて誤魔化した。
そうして塔を抜け、部屋まで歩く間、私は時折廊下の窓から外を見ながら歩いた。
しとしとと降る雨は闇の中で、目には見えないものの、確かな存在感を持ってこの世界を潤していた。本能的とも言える安堵と喜びが胸に満ちる。
部屋の傍まで来たときに、王様も同じように窓に目を遣った。
「今夜は良く眠れそうだ」
そして、ぽつりとそう言った。
――雨は、この日から三日三晩降り続いた。
乾いた大地を癒す、細く美しく、優しい雨だった。




