1 泉の乙女
結論から言うと、夢じゃなかった。
そう。
どうも夢じゃないらしい。
「……という訳で、貴女様がお出でくださるのをメルキュリアの民一同、待ち望んでおりました次第で」
「すいません、さっぱり分かりません」
優しく丁寧に話す老人を前に、ひくっと顔が引きつる。
「おお、“泉の乙女”様。やはり口頭のご説明のみでは、不足がございましょう。詳しくは明日以降、実際に国の様子をご覧に入れたいと思うておりますが……」
「いえあの、それ以前にその泉の乙女?っていうのが全く意味不明で、人違いじゃないかなーと思うのですが……」
「“泉の乙女”とは、この国に古くから伝わる、貴女様の呼び名でございます。ご安心ください。その神々しいお姿、断じて間違いなどではございません」
私は自分の手の甲をつねりまくっていた。もしこれが夢なら、一刻も早く目覚めたい。
だけどただ痛いだけで、自分は寝ていると誤魔化し続けるのも、そろそろ限界だった。
遡ること数十分――。
あの変な光る水から洞窟のような所へ上がった私は、奇妙に古臭くて儀式的な格好をした大勢の爺さんやおっさんやおっさんじゃない人に恭しく挨拶されたり、平伏されたり、むせび泣かれたりした後、長い石の階段を登ることになった。
岩盤をくり抜いて作ったかのような階段通路は窓がなく、壁、床、天井、どこを見ても滑らかな石で出来ていた。
洞窟は、地下深くにある特別な祭壇なんだそうだ。
通路を登り切ると地上の建物内に出て、そこから更に階段を上がり案内された一室で身支度をさせられた。手伝ってくれたのは、これまた西洋人っぽい女の人たちだ。全裸マントをやめ、随分古風なワンピースドレスを着せられる。
そして、高級そうな家具が並ぶ応接間に移動となった。
優美な格子窓から夜空が見えた。
部屋には燭台の火が灯り、物は見えるけどなんとなく薄暗い。なんだろう。内装といい服といい、何もかも時代錯誤的で、映画で見る一昔前のヨーロッパ貴族の館にいるようだった。
「どうぞ、お掛けください」
勧められソファに腰掛けると、斜向かいに上品な白髪のお爺さんが座った。その人は、地下で集団の一番先頭にいたあの老人だった。他の人より服が豪華で、どうやら偉い人らしい。
「あのーそれで、一体ここはどこなのでしょうか……」
恐る恐る尋ねると、お爺さんは頷いて本題に入った。これが全くもって意味不明な話だった。
要約すると、こう。
まずここは、水源豊かな王国「メルキュリア国」の王都。
色々聞いた結果、どうもここは私のいた世界とは違う、いわゆる「異世界」ということになるらしい……ここを納得しなきゃいけないというのが、既にかなりの無茶振りである。
さておき、この王国には昔からとある伝説があった。
――国が旱魃の危機に見舞われた時。
泉の底から水の化身である“泉の乙女”が現れて、雨を振らせて国を救ってくれる。
お爺さんは、その神聖な泉を守る管理組織のトップなんだとか。
「この国には、かれこれ二月ほど一滴の雨も降っておりません。更に例年ならもう秋に入っている時期だというのに、今年は日照りが続き未だ真夏のようです」
「二ヶ月も……」
「はい。民は慣れぬ暑さに苦しみ、近頃は死者も出ております。また雨の恵みを欠いた畑や山々は、実りの月を目前にしてもなお収穫が望める状態ではありませぬ。このままでは、厳しい冬を乗りきる事ができるかどうか……」
事態はとても深刻のようだ。なんでも、この国は元々そんなに高温にならない気候らしい――そして、冒頭に戻る。
「よくぞお出ましくださいました!」
「いやいやいや」
ありがたそうなお爺さんに、私は必死に首を振った。
だって、気づいたら知らない国……世界?で、私が雨を降らせる奇跡の人物?な訳がない。大体、雨を降らせるってどうやってやるんだろう。
そう言うと、お爺さんは目をキラキラさせて即答した。
「それは勿論、ご本人様のみの知る、奇跡の御業にございまする!」
「…………」
絶対、人違い。
「申し訳ないんですが、私は出来そうにないので、そろそろお暇させていただきたく……」
「なんと、ご謙遜を。貴女様なら必ずや、成し遂げられる事と存じます」
「いえ、全く方法に心当たりがなく……」
「いえいえ、よ~~~く思い出してみてくださいませ」
「いえ、いえいえ……」
「いえいえ、いえいえ……」
会話がひたすらループする。
元々断るのが得意ではない私は、段々げっそりしてきた。涙ぐんでありがたがる老人の頼みを断り続けるとか、罪悪感がすごい。しかも話の通りなら、このお爺さんの懇願には自国の存亡が懸かっている。重すぎ。
相手が必死な分だけ、私も必死だ。だって、やりたくないんじゃなくて出来ないのだ。それなのに期待させて「やっぱり出来ませんでした」となったらどうなるのか。……怖すぎる。早く家に帰りたい。でも、とても席を立てる雰囲気じゃない。うーん、どうしよう……。
状況を破ったのは、ノックの音だった。お爺さんが頷き、部下っぽい人が分厚いドアを開ける。
「――失礼する。遅くなった」
深く艶やかな美声と共に入ってきた人物を見て、私は一瞬呼吸を忘れた。
現れたのは、ひれ伏したくなるような、とんでもない美青年だった。
眩しい炎のような金髪に、目鼻立ちのはっきりした端正な顔。年は、20代半ばくらいだろうか……でも、私よりたった二つ三つ上とは思えない堂々とした雰囲気だ。すらりと背が高く、抜群に均衡が取れた体格をしている。
何より強烈な印象を与えるのは、見たことのない鮮烈なグリーンの瞳だった。見るからに知性と自信に満ち、力強く輝いている。
脳裏に「神」という文字が浮かんだ。冗談抜きで、格好いいというか神々しいんですけど……。
ただ、お爺さんやその仲間とは違った服装をしていたので、宗教感は薄かった。
優雅な襟付きのシャツに茶色っぽいベスト、刺繍の入った深紅のガウン。首元はタイで閉じ、宝石付きの黄金のピンで留めている。派手すぎず地味すぎず、とってもお洒落な……100年前の西洋貴族風? ちょっと独特の雰囲気を加えた感じだけど、どちらにしても、これまた時代錯誤的だ。僧侶っぽい格好のお爺さんと並ぶと、完全にファンタジー。
本人にも部屋にも似合ってるから、違和感が追いつかないけど。
「掛けても宜しいか?」
「……えっ。あ、どどど、どうぞどうぞ」
気品溢れる微笑を向けられ、慌てて返事する。な、なんで私に聞くんでしょう。
では、と断り、美青年は私の正面に腰掛けた。テーブルを挟んだ距離で視線が合う。
――そこで私は、異様な威圧感に襲われた。
美貌の迫力、ってことなんだろうか? ただ前に座られただけで、のけぞりそうな心境だ。なんでだろう??? 決して、見た目や態度が威圧的なのではない。むしろ微笑みを向けられている。なのに、その宝石のように輝く目をうっかり直視すると、お腹の底がひゅっと冷えるような心地がする。何か底知れない圧力のようなものが胃袋にグサグサ突き刺さり、隠しておきたい何もかもを見透かされるような……
平たく言えば、めちゃくちゃ怖い。今すぐ逃げ出したい。
でも、恐ろしくて到底動けない、みたいな。
「貴女が“泉の乙女”か」
耐えきれず目を逸らした所で、美青年は私を見据えて尋ねた。
突然だけど、私のモットーは「長いものには巻かれろ」である。
万事穏便にやり過ごすため、そういった相手にはとっても従順です。
……というのを前提として、目の前を見ると、そこにおわすのは完全に「長いもの」だ。どっからどう見ても長い、超長い。悠長にソファに座ってないで、今すぐ平伏するレベル。
プレッシャーに負けてうっかり「はい、そうです」と答えそうになり、私は慌てて踏みとどまった。危ない危ない、流されやすい私だけど、これだけは確信がある。今流されたら絶対ヤバい。
ありったけの気合を総動員して、私はもう一度だけ視線を合わせた。
「あ……あの、人違いなんです!」
「人違い?」
どうにか絞り出すと、怪訝そうに聞き返される。コクコク頷き、私はお爺さんを手で示す。
「こ、こちらの方からその……“泉の乙女”? とは奇跡を起こす存在だと伺ったのですが、でも、私にはそのような力は無いんです。い、一般人なんです。ご期待に応えられずすみません、私の国には似たような外見の人が沢山居ますので、旱魃の時に救世主が現れるということでしたら、いずれ本物がいらっしゃるかと思います!!」
よし、言い切った!
続けて、自分は元はこことは別の世界に住んでいて、自分でもどうしてこの場所に来てしまったのかわからない、元の国に帰らせてほしい、ということを訴える。
可能な限り整然と、誠実に、私はグリーンの瞳をひたと見つめて語りかけ……いや、やっぱ目はチラ見が精一杯だけど、必死に説明すると、美青年は意外と普通に聞いてくれた。私は嘘は言ってない。到底騙せそうにないお見通しな視線が、こうなると逆に少し安心だった。なんだかこの人なら、私の話の真偽を見抜いてくれそう。
しかし。
「成る程。老師、どう思う?」
「いいえ、お人違いのはずがございません!」
「ちょっ、違いますーーー!!」
爺さん!!! なけなしの勇気と努力で作った流れを、遠慮も無くボキッと折ってくれるよね!!
「この夜のような御髪と瞳、月色のお体。伝書に記されております、“泉の乙女”のお姿そのものでございます!」
「本当に違うんです!!」
伝書だかなんだか知らないけれど、日本人の定番カラーをそんな仰々しく表現しないでほしい。というか、そんな特別な人間だと思うなら、本人の言うことをもっと重く受け止めようよ。うっかりその伝説のなんとかと思われて、旱魃を終わらせろとか言われたら堪らない。絶対ほら、そのうち本物が来るから私は帰らせて!
主に美青年に向けて必死に訴える。私が説得すべきは、恐らくこちらの人物だ。爺さんはもう無理、諦めた。今も明らかに納得していないって顔してるし。
「本当なのか?」
「はい!」
美青年はこちらを検分するような鋭い目でじっと見てから、「そうか」と頷いた。
「いずれにせよ、一度上へ同行願うのが良いと思うが」
「然様でございますな」
爺さんが重々しく頷き、私に告げる。
「貴女様に、是非お会いになって頂きたい方がいらっしゃいます。一目だけでも、是非」
「え……」
会ってほしい人? ……どんな人だろう、それ。もっと怖い人の所へ連れて行かれたらどうしよう。
正直全然会いたくなかったけど、断れる私ではない。渋々頷くと、席を立ち移動となる。
◇
部屋を出て白い石の廊下を辿り、今度は地上からまた結構な数の階段を上がった。
着いたのは、塔の天辺にある不思議な円形の小部屋だった。
日頃の運動不足が祟り、私はドアの前に立った頃にはゼーゼー言っていた。意外なことに、再び案内役を引き受けた老人の方は息切れ一つしていない。同行した美青年も平気そうだ。
小部屋はガランとしていて、僅かな明かりだけが灯され薄暗い。
「こちらへお進みください」
老人に続き部屋の中央へ向かう。そこには、寝台が一つ置かれていた。道すがら聞いた話によると、私に会わせたい人というのは今、何故かぐっすり眠っているらしい。
「この方をご存知ではございませんか?」
「…………」
寝台に寝かされていたのは、一人の男性だった。
近付いて、私は今日何度目になるかわからないけどギョッとした。
まず目を引いたのは、淡い色の髪だった。ものすごく長い。足に届くんじゃないかという長さだ。緩く束ねられ、寝台から零れ落ちている。
そして、顔。すっと鼻筋が通った中性的な顔立ちで、美形と言えたが、頬からは一切の血の気が抜け落ちている。いわゆる蝋人形のように白いというやつだ。蝋人形見たこと無いけど。
怖い人だったらどうしよう、という私の予感はある意味当たってしまった。今傍に立つトンデモ美青年とは、また違う意味で怖いタイプだ。具体的に言うと、夜暗い所で出会いたくない部類。……この人、既に死体じゃないよね? 呼吸も怪しいほど静かな上に、ベッドメイクに真っ白いシーツばかり使われているせいで、どうしても不吉なイメージが拭えない。
まあ、それはともかく。
「知らない方です」
「然様でございますか……」
正直に告げると、爺さんは落胆した様子で息をついた。
なんで私の知り合いだと思われたんだろう。
「この方は、水読様です。この国の水の恵みを支える、特別な力を有された尊きお方で、“泉の乙女”と近しい者とされているのですが……」
なるほど。
対面した途端、私の脳裏にビビッ!と何かが閃き――となれば良かったらしいが、残念ながら何も感じない。
「水読様は、もう半月もこうして眠り続けています。恐らくは精神の深部へ潜り、このメルキュリア全土のためご尽力されているのでしょう。しかしあまりに長引くようでしたら、とてもお体が持ちません」
「はあ……」
よく分からないけど、この水読という人は霊能者的な人物なのかな? 着ている服も襟元を見るに、多分爺さんと似たような系統だ。教祖だったりして。
私は、悲痛な面持ちの爺さんと眠る人物を交互に見た。とても気の毒だとは思う。でも本当に、私にはどうにも出来ない。
「本当に覚えがないんだな?」
「はい……」
美青年にも尋ねられ答えると、あとは重い沈黙が落ちるだけだった。
それから私と爺さん、美青年の三人は、先ほど上ってきた階段を下っていた。
人違いと納得してもらえたのか、私が「最初に現れた地下の泉に戻りたい」と言うと、すんなり承諾された。二人は案内してくれるようだ。
あー、とりあえず良かった……。泉に行ってあの変な水に足を突っ込めば、やっと帰れる。
しかし階段が終わり、洞窟のような部屋に入った時、ドキリとした。
「あれ……」
そこにはランタンの明かりしかなかった。
薄青い光がない。
光る、泉の水が見えない。
嫌な予感がし、その場所へ駆け寄ると、出てきた時には最低でも足首くらいまでは水があった泉は、今はただの岩のくぼみになっていた。屈みこんで手で触ってみる。湿り気すら感じない。
うそ。
すーっと気が遠くなっていく。
私が今まで散々おかしなことを言われても、比較的落ち着いていられたのは、ここへ下りれば間違いなく家に帰れると思っていたからだ。誤解を解いて、ここにさえ来ればいいと思っていた。
でも、そうか。別にそんな確証、無かったんだ。
立ち上がり一歩後退ると、借り物の柔らかい革靴が岩の地面に擦れ、クっと小さな音を立てた。
どうしよう。
帰れないかも。
めまいがして、手や顔の熱が急速に引いていく。自分でも青ざめていくのがわかった。体がふらつき、支えようと片足を踏み込んだらカクンと膝が折れた。
倒れる。でも、手が動かない。
岩肌に顔からぶつかるのを覚悟した時、後ろから誰かに肩を抱きとめられた。
力の抜けた首でぎこちなく振り返ると、エメラルドのような瞳があった。魅惑的な目元が少し、驚いたように見開かれている。
私を抱きとめた体は蝋燭の光を遮り、髪や肩に淡い金色の縁取りができていた。
なんだこれ――本当に、神様みたい。
絶望的な気分なのに、心の一部は、目に映った光景に素直に感動していた。
こんな状態でも、綺麗なものはやっぱり綺麗に見えるんだ。
ため息を漏らすと、視界はそれきり、深く暗く落ちていった。