5 水の結晶
大地の深層部。つまり、地面のずっとずっと下ということだろうか。
「深層って、あの泉よりもっと深いということですか? 石で出来ているんじゃなくて水があったんですか……?」
確か地下の泉は、メルキュリアで一番低い場所ではなかったか。
疑問に満ちた顔で問う私に、水読は穏やかに微笑んだ。そして言葉を選びながら、少したどたどしく説明する。
「ええと、そのどちらも。ここは水核と呼ばれる場所で、石の中であり、水の中でもあります。地上とはちょっと層が違うんですよ」
「層……?」
「世界の層、といいますか……軸、と言ったほうがわかりやすいでしょうか。現実であって現実でない場所ですね。ここでは、地上では矛盾することが調和しえます。それから私達は今、こうして顔を合わせていますが、私も美雨さんの体も、今地上では別々の場所で眠っているんですよ。心だけがここで出会っている、という感じですね」
石の中であり、水の中でもある。今ここにいるのは心だけ。
よくわからないけど、なんとなく理解できる気もする。水中だけど息ができるのも、全然冷たくないのも。
「メルキュリアの大地の核は、透明な結晶でできています。地下深くなるととても硬くて掘り進めない、というのはご存知ですか?」
「はい」
いつか王様に聞いた話だ。
頷く私の髪を、水読はもう一度柔らかく撫でた。
「地上からは不可侵の領域ですね。ここは大地の結晶であり、すべての水が還る場所でもあります。地上の水は皆、地面に吸い込まれてここへたどり着くんですよ」
「水が還る場所……石に……?」
石が水を吸う性質があるとか、染み込む隙間があるとか、多分そういうことじゃないんだろうな。
「少し難しいですか? これは感覚的なことなので説明し辛いのですが、そういうものと思ってください」
「はい」
私は曖昧に頷いた。うん、変に深く考えるより、ふやーっと感じ取る方が理解できるような気がする。
「それで、どうして私や水読さんはここにいるんですか?」
「そうですね、まず美雨さんが今この場所にいるのは、私が呼んだからです。私の体は眠っていますが、中身は普段からこの場所に帰属します。水読の仕事は、水核へたどり着いた水を、再び地上へ汲み上げることですから」
「地上に水を汲み上げるって……」
「この地下から、山頂の湧き水や泉など、なるべく高い所へ水を送り出してやる事です。水脈と大地の管理は水読の管轄なんです」
「じゃあ、塔で眠っているのは普通のことなんですか……?」
それにしては爺さんたちは悲壮な雰囲気だった。水読はふるふると音も立てず首を横に振る。
「いいえ。本来は、体の意識を保ったままで行います。ですが近頃は少し問題があったので、全ての意識をここへ潜らせていました」
「問題って……?」
「実は、美雨さんにも関わる事です。メルキュリアの底――この空間の底ですね。そこには、一つ大きな穴が空いているんです。そしてその穴の向こう側は、美雨さんの世界に繋がっています」
「えぇ!?」
「美雨さんは、そこを通ってきたんですよ。こちらに来るとき、この水の中を通ったでしょう?」
「あ、た、確かに……でも、どうやって」
「それにはまず、力の仕組みをご説明しなくてはいけませんね」
水読の話はこうだった。
まず私の世界には”引力”という力がある。それはそのまんま、何かを「引っ張る力」だ。そしてそれはとても強い力なので、この「水核」と呼ばれる空間の水は常に穴の向こう側へ引っ張られているらしい。
しかしそれがそのままであれば、メルキュリアの水は流出し続けて無くなってしまう。
「それでは困りますから、こちら側には水を引き留める力が二つ用意されていました。一つは私、水読です。もう一つは……説明し辛いのですが、この空間に満ちていた、ある力でした。しかしその力が最近、決壊してしまいまして」
水を留める力。磁石みたいなものだろうか。
「決壊したという事は、今はその穴から水が私の世界に出て行っちゃうってことですか?」
「はい。実際、こちらの水は美雨さんの世界に漏れ出していました。私はここへ潜って、それを呼び戻していたんです」
私はその過程で、水に紛れてこちらへ汲み上げられてしまったらしい。……まるで、砂粒か何かの話のようだ。
因みにあの連日の雨こそが、メルキュリアから漏れた水だった。量の割に洪水にならなかったのは、水読が回収していた為だと言う。
「ですが、これが中々大変な負担で、私だけでは到底賄いきれない仕事なんです」
「ええっ!?」
じゃ、じゃああっちは洪水になってるんじゃ……!
取り乱す私に、水読は安心させるように微笑みかける。
「いいえ、今はもう大丈夫です。代わりの”引力”がこちらに来ましたから」
「代わりの引力……?」
「ええ。美雨さんのことですよ。美雨さんの体にも、美雨さんの世界と同様に引力が備わっています。それが穴と反対の方向に水を引っ張ってくれているので、今のところ水の流出は止まっています。ちなみにこの力は、アルス殿下にもあるようですね。ごく微量ですが、今の均衡を崩したくないですから、彼にはまだ健在していて欲しいですね」
水読の言葉を、私は頭の中でこねくり回す。私には、何か力があるらしい。そしてアルス王子にも。その”引力”とやらは、髪が黒いと備わるものなんだろうか。
「まあ、そんな所です。そういう訳ですから、彼を救って頂いて助かりました。美雨さんの国も、洪水にならなくて済みましたし」
故郷の危機というのを回避できたと聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。
良かった。家族とか友達とかが大変な目に遭ってたらどうしようかと思った。そう思って少し気が緩んだとたん、鼻の奥がツンとする。
だって、状況はまだ混乱したままだ。これまで分からないこと、理不尽なことが多過ぎた。
私は結局“泉の乙女”なのか。そして、こちらに来てしまったのは何故私なのか。どうしてもっと早く色々説明してくれなかったのか。私は帰りたい。帰れるの? 沢山の思いや疑問が渦巻いて、次々と口を衝く。
「ごめんなさい。理由も分からずに辛かったですよね」
殆ど八つ当たりに近い感情で泣きそうになる私を、水読はやっぱり穏やかに慰めてくれた。小さな子供にするように、よしよしと軽く体を叩く。何度も謝られて、私はやり場のない気持ちに切なくなった。
ああ、そうだよね。この人も国を守るためにしたことで、大変だったはずなのに。こんなに優しい人に泣き言を言う自分が嫌だった。
しかし水読は、怒りも嘆きもせず、それすらも飲み込むような大らかさで私の質問に答える。
「美雨さんは、あちらの世界の中では、メルキュリアの水に一番近かったんですよ。ですから水と一緒に、こちらへ引き上げられてしまったんです」
「……それが、“泉の乙女”ってことなんですか?」
「ええ。結論から言いますと、その通りではあります。ですが、美雨さんは完全な“泉の乙女”とは少し違っているようです」
「……?」
「内包する力が足りていません。ですが体は“泉の乙女”そのものです。引力は質量のある肉の身に備わるもので、それを持っている女性が“泉の乙女”とされますから」
ゆっくりと説明する声に、私は黙ってただ頷いた。理解し、納得できるかは別としても、この声を聞いているだけで乱れていた感情が滑らかに梳られていく。
「ここへも、もっと早くお呼びしたくて、何度か呼びかけてはいたのですが……美雨さんの体がこちらの水に馴染んでいなかったようで、中々声が届かなくて」
「そうだったんですか……?」
今までぼんやり見ていた夢は、水読からのコンタクトだったようだ。呼ばれてそのまま放置されていた訳じゃなかったらしい。
「それって、今は馴染んだんですか?」
「ええ。塩の湖の水を飲んだでしょう? あの湖はメルキュリアの地上を廻る水が最後に集まる場所ですから、少し特別なんです」
「あ。そういえば、塩が何とかって夢で……」
「はい。塩の湖に体を浸して頂けませんか、とお伝えしたこともありました。でも残念ながら、その時は力が及ばなかったようですね」
本当なら、こちらの水には普通に生活しているうちに、食事などで自然に馴染むはずだったらしい。ただ、予想より時間が掛かって困っていたそうだ。そこが完全な“泉の乙女”と、体だけだという私の違いなのかな。ともかく、あの破壊的な味の水を飲んだ苦労もちょっとは報われたってことか。
「そういった意味では、アルス殿下がかなりの功績者でしたね。あの夜は満月でしたし、この上ない好機でした」
「そうなんですか?」
「ええ。湖、塩、それから月と夜も、全て水の領分ですから。無意識であの取り計らい、神官の素質があるかもしれませんね」
そう言う水読は苦笑交じりだ。あの夜は本当に本当に災難だったけど、結果オーライらしい。
聞いた内容についてじっくり考えこむ私を、水読はその穏やかな眼差しでじっと眺めていた。しかししばらくすると、何かに気づいたように上を見上げる。
「……ああ、残念ですが、どうやらそろそろ時間切れのようです」
「えっ?」
「間もなく日の出になります。もうお話できる時間が少なくなりました。貴女をお呼びしやすい時間は、夜明け前と日暮れ後の短い間だけなんです。もうすぐ美雨さんは、浮上してしまいますよ」
「ええ! ちょ、ちょっと待って下さい」
その知らせに私は焦る。まだまだ聞きたいことは山ほどあるのに。
「あの、水読さんとは、またお話できますか!? あと雨ってどうやったら降るんですか!?」
差し当たって一番聞いておきたいことを尋ね、その白い袖を握ると、水読の手がやんわりとそれを包み込む。
「安心してください、必ずまたお会い出来ます。雨は、美雨さんがお手伝いしてくれれば私が降らせられるでしょう」
「ほ、本当に!? どうすればいいんですか……?」
縋るようにその不思議な瞳を覗き込む。水読はにっこりと笑って、長い指で私の頬に纏わり付いた髪を避けた。
「まずは塔へ行って、私の体を起こして頂けますか。こうやって、手を握っていてください。肌を経由して、美雨さんの”引力”にあやかります。少し時間が掛かるかもしれませんが、それで多分起きられると思いますから」
「は、はい……それだけでいいんですか?」
想像以上に簡単で、拍子抜けしてしまった。たったそれだけで良かったのか。これまで、寝台に眠るこの人に触ってみようなんて、思ってみた事もなかった。
「漏れ出した水も回収できましたし、美雨さんが居らっしゃる以上、もうここに潜っている必要は無いですしね。本当はそろそろ戻りたかったんですが、深く沈みすぎて中々戻れなかったんです。雨については、私が起きてから直接お話ししましょう」
「分かりました」
私はその声、その手段を頭の中で繰り返し、しっかりと刻み付けた。起きたとき、絶対覚えていられるように。
そのうちに現実の地上では、今日最初の太陽の光が差したようだ。
「朝日です……もう夜もおしまいですね」
その言葉を聞くか聞かないかという内に、私の体はふわふわと浮かび始める。握っていた水読の服も、私を捕まえていた腕もすり抜けてしまう。
「水読さん、また――」
私は透き通る瞳に、そう呼びかけた。
ああ、またここに来たいな。安心できる、この人ともっと一緒にいたい。名残惜しく思いながら眼下に目を凝すと、水読の姿はあっという間に白い点のように小さくなっていった。視界には最初と同じくもやが掛かり始める。
――はい、美雨さん。
遠くで穏やかな返事が聞こえた気がしたときにはもう、意識は淡く薄れていた。




