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“L'amour L'amour……”
莎莎がチラと目配せする風に私を見やると、薇薇がゴソゴソと自分のバッグを探り出した。
“L'amour L'amour!”
「……んたさ、これ、持ってってくれない?」
薇薇が小さな箱を差し出す。
「え?」
私は思わず問い返した。
「あんた、これ、向こうのホールに持ってって」
返事を待たずに、薇薇のぷっくりした手が私の掌に黒い箱を押し付ける。
フワフワしてる様で滑らかな、短く切り揃えた毛皮みたいな手触りがした。
これは洋人の品で、かなり高級な物らしい、とは漠然と察せられる。
“L'amour est enfant de bohème Il n'a jamais, jamais, connu de loi”
「お願い!」
莎莎が拝む風に、私に向かって手を合わせる。
「あんたなら、怒られないわ」
二人に背中を押され、私は胸に箱を捧げ持つ格好のまま、歌声と楽器の音色と灯りの漏れてくる出口に足を踏み入れた。
“Si tu ne m'aimes pas, je t'aime……”
「あ……」
思わず声を上げてから、固まった。
二胡や笛や銅鑼の遠縁らしき西洋の楽器を奏でていたのは、予想通り、中国人の男たちだった。
全員ともまるで申し合わせたかの様に、黄色い顔に黒い髪を撫で付けた頭にしている。
加えて、小明が着ていた服よりは上等だが、偉哥や達哥と比べると明らかに質素な洋服に身を包んでいた。
しかし、男たちの中央に聳え立っていたのは、他でもない、黒揚羽の翼さながら瑠璃色に輝く旗袍を長身の体に纏い、濃い栗色の髪を波立つ様に縮らせた、蓉姐だった。
「何」
彫り深い眼窩の奥で、私を見下ろす茶緑の瞳が冷たく光る。
姐さんの耳元では真珠が淡い輝きを放っていた。
混じり気のない純白な色合いに加えて、一分の狂いもなく丸い形をしている。
本来は品良く優しげに映るはずの宝玉なのに、見上げる私は余計に息苦しくなった。
「えーと……その……」
口ごもる間にも、醒めた苛立ちが姐さんの目から顔全体を凍らせていく。
楽器をめいめい手にした男たちも、演奏途中で手を止めたまま、よそよそしい目をこちらに向けている。
中でも琵琶を小さくした様な楽器を顎に当てた男は、恐らくは二十歳くらいで、ここにいる男たちの中では一番若く見えたが、斜め向きの流し目じみた格好のまま、冷ややかな目を投げ掛けていた。
結局、ここで一番場違いなのは、他でもない私なのだ。
「これを、姐さんに……」
うなだれて差し出すが早いか、姐さんの白い手が箱を奪う。
天井からの灯りに照らし出されたのを目にして、初めて、今まで手にしていた不思議な手触りの箱が、真っ黒ではなく深い藍色だと気付いた。
パカッ。
卵の殻が割れるのに似た音がして、蓉姐の手で藍色の箱が上下に開いた。
あれ、途中から二つに割れる仕組みの箱なのか!
妙な驚きに駆られる私をよそに弾き手のない鋼琴の上に姐さんは箱を置く。
天井からの灯りを浴びて、キラリと眩い二つの輝きが顔を出した。
艶やかな緑色だが、翡翠とも明らかに異なる、氷の様に透き通った石。
全体としては雫の形をしてはいるものの、表面に角張った切り込みを入れられているため、切り込みの面ごとに微細に色彩の異なる、正に玉虫色の光を放っている。
姐さんは耳元の丸い真珠を取り外して箱に入れると、新たに緑色の雫形を取り上げた。
ほんのり桃色に染まった蓉姐の耳朶に位置を占めると、緑の輝く石は、いっそう燦然たる光を放って揺れた。
と、姐さんの瑠璃色の旗袍が広がる様にこちらに迫ってきた。
頬に、鈍い衝撃が走った。
「いつまで、そこに突っ立ってんのよ」
姐さんの両目と、一対の耳飾りの、四個の緑色の光がこちらを見下ろしていた。
「練習の邪魔すんじゃない」
打たれた頬が、まるで遅ればせの様にゆっくり熱くなっていく。
先程まで小さな琵琶じみた楽器を顎に当てていた男がちらと目に入った。
いつの間にか楽器を膝に下ろして、「くたびれて肩が凝った」とでも言いたげに首を左右に捻っている。
他の楽士たちも空々しい面持ちで、それぞれ譜面を捲ったり、あるいは楽器の吹き口を拭ったりしていた。
「はい」
返事と同時に踵を返す。
さっさとこの場から立ち去りたかった。
「今度同じことしたら、承知しないわよ」
背中に姐さんの低い地声がまた突き刺さる。
「……はい」
――あいつは気まぐれで動くからな。
達哥(ダー兄さん)の言葉が頭の中に蘇って、また胸を刺す。
私の足音を掻き消すように、また、演奏が始まった。
“Et si je t'aime, prends garde à toi
Prends garde à toi……“
暗い廊下に戻ると、薇薇と莎莎が立っていた。
まるでそう言いつけられでもした様に。
「返してきたよ、耳飾り」
泣きたくなかったのに、終わりの方が涙声になってしまった。
「これで、いいんでしょ」
あんたたちが又貸しし合った耳飾りを言われるまま姐さんに返しに行って、あんたたちの代わりにぶん殴られた。
「ごめんね」
薇薇がふっくらした掌で私の背を擦る。
この子はひどくあったかい手をしていると撫でられる感触で分かった。
「あたしたちが行ったら、ビンタどころじゃ済まないと思ったから」
あれでも、まだ手ぬるい方なのだと薇薇は言いたいらしい。
「お昼、奢るわ」
莎莎はそれだけ告げると、私の答えを待たずに足を速めた。