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上海リリ  作者: 吾妻栄子
39/50

<39>

「練習場は、地下だ」


達哥はポケットからまた銀の打火機ライターを取り出すと、煙草に火を点けた。


薇薇ウェイウェイ莎莎シャシャがそろそろ来てる筈だから、まずはその二人に踊りを教えてもらえ」


煙の向こうの眼光からも、声の調子からも、一瞬の熱が消え、元の冷え固まった鋭さだけが伝わってくる。


「はい」


頷きながら、理髪店で出くわした薇薇の鳥の巣頭を思い出して、一瞬だけ吹き出したくなる。


「後は他の姐さんたちが踊るのを見て自分でどんどん覚えろ」


「はい」


あんな氷か墓石みたいなツルツルの床の上で、一体どんな踊りを踊るんだろう。


「教えてもらうつもりでいては駄目だ。大事な事は盗んででも自分のものにしろ」


「はい」


習うより慣れろではなく、習うより盗め、というのが、この人というか、ここでの掟なのだろう。


「決して、客の財布をスれとか、姐さんの耳飾りを猫ババしろとかいう意味じゃないぞ」


そこまで語ると、達哥の薄い口の端が歪んで笑った。


「はい」


考え無しに頷いてから、何となくそういう自分を間抜けに感じた。


「まあ、貴重な物を貸しておいて、後から返せと大騒ぎする方も馬鹿だけどな」


達哥の細い指が煙草の先を灰皿に押し付けてゆっくり潰す。

どこにも荒れた所のない、しかも男としては華奢な手であるにも拘らず、指全体が滑らかで鋭く尖った爪の様に見えた。


「いっそくれてやる位の気持ちになれないなら、最初からそんな値打ち物を人に貸しては駄目さ」


昨夜、蓉姐が電話口で毒を吐いていた姿が急に思い出された。

むろん、達哥の耳に姐さんの罵声が届いた筈はないし、姐さんにしてもこの人には聞こえないと十分に見越した上でうそぶいたに違いない。


ただ、今、目の前に座す達哥の皮肉な笑いを眺めていると、蓉姐のそんな悪態も、その傍で棒立ちになっていた綿入れ姿の私も、全部お見通しで泳がされていただけの様に思えた。


「お前も、そう思うだろ?」


「は、はい……」


私は口ごもる。

達哥の立場なら蓉姐を「馬鹿」と呼んでも許されるだろう。

それに、普通に考えれば、蓉姐よりもこの人の言葉に従うのが理にかなっている筈だ。

でも、そうだとしても、蓉姐を馬鹿扱いする話に頷くのは何だかいじましく思えた。

姐さんは見ず知らずの私を家に泊め、この服を譲ってくれ、ハイヒールも買ってくれたのだ。

そりゃ、一晩かけてあの人の旗袍を直しはした。

だが、蘇州の周家で働いていた頃に、私と母さんが何晩もかかって奥様の衣装を仕上げても、お古をいただいたことなど一度も無い。

そもそも、私たちが何年お仕えしようが、奥様と同じ絹の服を持つこと自体、蘇州では有り得なかった。


「あいつはその場の気まぐれで動くからな」


達哥はそう言い放つと、マスの中央から少しずれた位置に立つ白のクイーンを置き直した。


「そうかもしれませんけど……」


言い掛けたものの、言葉の継ぎ穂が見当たらない。

もしかすると、この服も靴も散髪代も、「返せ」と後で姐さんから迫られるのだろうか?


姚莉華ヤオ・リーホア


達哥はまるで私に向かって教え込む風にゆっくりと発音した。


「君は、いくつなんだい?」


――君は、まだ子供だろう?


そうさとされている様にも思える。


――君は、もう大人だろう?


そうたしなめられている気もする。


じゅう……」


はち、五、八……。

頭の中で二つの数が交互に顔を出す。

脇の下が、氷柱でなぞられた様に冷たく濡れてきた。


十八じゅうはっ……さいです!」


真っ直ぐ達哥を見据えて答えた。


「ははは」


乾いた笑い声が部屋に響く。

達哥の目のない目尻に刻まれた、亀裂じみた皺に今更ながら気付いた。

この人は、私の倍は生きている。


「田舎の亭主とはちゃんと別れて来たのかい?」


達哥は笑った口調はそのままで、見開いた目を私のバッグに注いだ。


――そのバッグにはまな板まで切れる包丁が本当に入ってるのかい?


三白眼の小さな黒目は、バッグの中身を見透かした上で、敢えて問い掛けているかの様だ。


「人の女房をここで働かせるのはさすがにまずいんでな」


淡々と語っているだけに、却ってそうあっては不都合なのだと知れた。


「私はそんな……」


首を横に振ると、半歩遅れた調子で前髪が上下に揺れるのを感じた。


「亭主なんて、いません」


そういえば、母さんは今年三十二歳だった。

十八歳なら、亭主どころか子供がいてもおかしくないのだ。

今更ながらそう思い当たった。


「いたことはあるのか?」


ないだろう、と念を押されている気がした。


「ありません」


今度は首を振らずに答える。

やたらと頭を振ると何だか子供っぽい上に、反抗していると思われそうで、それが恐ろしかった。


「正式に嫁いだんじゃなくても構わないんだが」


達哥はふっと笑いを消すと、静かに続けた。


「つまり、お前は男を知らないのか?」


「え……」


達哥の顔も口調もあまりにも平静だったので、一瞬、言われた意味が分からなかった。


「男をって……」


体中の血が一気に顔に集まった気がした。


「言わなくていい、もう分かったから」


達哥は煙を仰ぐ様に手を静かに振った。


「働く気さえあれば、生娘きむすめでも問題はない」


氷った三白眼が、私の旗袍の奥の薄べったい胸や、はらわたの底まで刺し貫く様に見据えた。


「稼ぐ気持ちさえ、確かならばね」

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