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上海リリ  作者: 吾妻栄子
37/50

<37>

ポーン」、「ルーク」、「ナイト」、「ビショップ」、「クイーン」、「キング」等、チェスの駒の漢字表記は全て中国語に準拠しました。

莉莉リリ


え?

不意を突かれて私は目を上げる。

総経理は盤上の駒に目を注いだままだ。


「君の姓は?」


「あ、ヤオです」


そういえば、私はまだちゃんと名乗っていなかった。


「そうか」


総経理の目は変わらず盤に正しく並んだ駒を凝視していた。


「右から四番目のポーンを、二歩進めろ」


抑揚のない、決定そのものの声が告げた。


「兵って……」


私は「右から四番目」の位置に前後して置かれた、二つの駒に目を泳がす。

まりを載っけた燭台みたいな格好の駒と、そして、かんむりの形をした駒。

とりあえず、後ろの冠形のではなさそうだけど……。


「その、前の列に、ぞろぞろ並んでるやつさ」


苛立ちもない代わりに笑いも含まない声が語る。


「一番、雑魚ざこの駒だ」


この人は、平坦な語調で相手を突き刺す言葉を口にする。


「あ、はい」


燭台形の駒の、鞠に似た先っちょを摘むと、二歩先の白い正方形のマスに置いた。

取りあえず、これでいいはずだ。

ほっと息を吐こうとした私の視線の先で、音もなく黒のポーンが置かれた。


「雑魚は雑魚で止める」


私の動かした白い兵の前には、総経理が新たに進めた黒の兵がまるで影の様に向かい合っていた。


「でも、兵はただの雑魚じゃないんだ。こいつが」


総経理の指が、私の進めた白の兵の頭を指す。


「こうやって、敵陣の奥にまで切り込めば、」


総経理の指が、私から見れば一番奥の、そして、彼からすれば一番手前側の、黒の冠が並ぶ列の上をなぞった。


クイーンになれる」


普段は耳にしない言葉が飛び出した。


「后?」


思わず総経理を見返した。

氷柱じみた鋭い目と再びぶつかる。


「つまり、雑魚の兵は女ってことだ」


総経理は囁く風にそう言うと、唇だけで笑った。

肉薄の唇から、私の進める駒よりも、もっと白い歯がちらと覗く。


国際象棋チェスでは、女も立派な戦力だ」


総経理は今度は揺るぎのない声で語った。

この人の歯は怖いくらい真っ白で、しかも整った並び方をしている。


「そうなんですか」


洋人の国では、きっと女も軍隊に駆り出されて戦うのだろう。

金色の髪に青や緑の目をした洋人の女たちが、手に手に弓矢や剣を持って集まる様が浮かんできた。

蓉姐みたいな体格ならば、生半可な中国男よりよほど強そうだ。


「洋人の奴らは、男も女も、自分の国に身を捧げ尽くすのさ」


総経理の顔は、氷柱じみた目を見開いたまま、何かを嘲笑っているかに見えた。


ポーン


先の尖った総経理の指が、二歩進んで足止めされたままの、白い駒の頭を叩く。


ルーク


端っこに置かれた小さな白の塔。


ナイト


首だけの白い馬。


ビショップ


白いぞうというより帽子に見える。


「それにクイーン


何だか、蓉姐が紅茶用に使う急須きゅうすみたいな形だな。

あ、そういえば、紅茶の茶葉、もう無いけど、どこで買うか小明シャオミンに聞き忘れてた……。


「皆で、たった一人のキングを守る」


総経理の声にまた我に返ると、彼の示す先には、というより、私のすぐ手元には、頭に白い十字を挿した、冠の形をした駒が立っていた。


「后が何人立とうが、王が倒れたら、そこで、みんな終わる」


この王の駒自体、何だか墓石みたいだ。

そう思ったが、それを今、口にしてはいけない気がした。


「さて」


総経理は胸ポケットから新たな煙草をもう一本出してくわえた。

また、あの目に沁みるやつだ。

そう思いながら眺めていると、総経理は新たに銀の小箱を取り出した。

何だろ、あれ?

と、カシャリと音を立てて、銀の小箱の上に小さな火が灯った!


打火機ライター、初めて見たのか?」


銀の小箱がキラリと光って総経理の胸ポケットにまた消えたかと思うと、彼の姿にゆっくりもやがかかった。


「あ、はい」


どうやら、マッチよりもっと便利で、恐らくは値段もずっと高い火付け道具があるらしい。

知らず知らず、私は抱きかかえたバッグの底の辺りを撫でていた。

借りたマッチ箱もバッグに入れて持ってきちゃったけど、これも、後で小明に返さないと……。


「次は」


煙が引いて、またもや盤上に目を注ぐ総経理が姿を現した。

私は手持ちの駒を確かめる。

これがポーン、こいつがルークナイトは名前の通りで、この帽子みたいなのが……。


「君の、本当の名前は?」


「え?」


ビショップの駒から目を上げると、総経理は盤上の中腹を凝視していた。


「姓がヤオで、名前は何?」


氷柱じみた目は、向かい合う白と黒の兵に注がれている。


「あ、莉華リーホアです」


この人、話の流れが全然掴めない。


「右のナイトを三列目の右から三番目に進めろ」


そこまで告げると、総経理の声が少しだけ柔らかくなった。


「さっき進めたポーンの、斜め後ろだよ」


「はい」


私は頭だけの小さな白い馬を指示された場所に置いた。

雑魚の兵より馬の方がどうやら変則的な動きで進むらしい。

洋人の馬も、やっぱり中国の馬とは違う姿をしているのかな?


「どこから来た?」


「え?」


総経理の目は盤上の駒ではなく、私に、かけたばかりのパーマ頭にお下がりの緩い旗袍チャイナドレスを着込んだ田舎娘に注がれていた。


「君の故郷だよ」


「あ、蘇州そしゅうです」


答えながら、声を潜めてしまう。

生粋の上海娘でもなければ、およそ「蘇州美人」にも相応しくない自分が恥ずかしかった。

大体、「蘇州の女が美人」なんて、誰が最初に言い出したんだろう。


「ははは」


総経理は初めて声を上げて笑った。


「上海も今じゃ、生え抜きより蘇州娘の方が多いくらいだな」


乾いた笑い声に混じって、黒のナイトが盤上を移る微かな音が響いた。

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