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上海リリ  作者: 吾妻栄子
35/50

<35>

薄暗い建物の中に足を踏み入れた途端、転びそうになる。

公寓アパートの床よりもっとツルツルした床だ。

上海の建物は高級であればあるほど、床を磨き上げるんだろうか?

まるで罠だと思いながら、足許を見下ろすと、白い石を敷き詰めた床らしく、暗がりの中でも僅かな光沢が確かめられた。

何だか墓石や石碑の上でも歩いてるみたいだ。

前を歩く蓉姐の旗袍の背が暗い中で光りながらうねる。


総経理しはいにんの部屋はね、このホールを通った奥にあるの」


姐さんが振り向きもせずに説明する。


「はい」


私は姐さんの背中に向かって頷く。


ふと、行く手から笛の様な、しかし琴にも似た、不思議な音色が流れてきた。

歩けば歩くほど、はっきりとした旋律になって聴こえてくる。

音色も不思議だが、曲も何だか耳慣れない調子だ。

多分、これは西洋の楽器で、あちらの曲を弾いてるんだろう。

ここでは洋人も働いているんだろうか?

青い目をした洋人の男が不思議な楽器を奏でる様子を想像しながら、手に持った赤玫瑰あかバラの香りを吸い込むと、余計にゾクゾクする。


氷の様に滑らかな白い石の廊下が急に開けたかと思うと、目の前にガランとした広間が現れた。

不思議な音色が薄暗い広間の空気を震わせて、直に響いてくる。


広間の遥か向こうは舞台になっていて、そこだけ灯りに照らし出されていた。

そして、白々とした月光に似た灯りを浴びながら、白いシャツを纏った男が椅子に腰掛けて、大きな黒塗りの卓子テーブルに似た、不思議な楽器を奏でていた。

白いシャツの華奢な肩、蒼白い灯りに照らし出された漆黒の髪、そして小作りな横顔の輪郭……。


小明シャオミン!」


思わず口から飛び出した声が広間に響き渡る。

音色がパタリと止んだ。


「あ……」


蓉姐の振り向いた顔と舞台の上からこちらを見やる男の顔に、息が止まりそうになる。


達哥ダーにいさん、構わず鋼琴ピアノ、続けて下さい」


蓉姐が舞台に向き直って告げる。

暗がりの中に、うろたえた姐さんの声がこだまする。


「いいんだ」


舞台の上の男は、それまで弾いていた楽器の白い部分に黒い蓋を下ろした。


「もう、こいつの調律は済んだから」


かすれた低い声で告げると、男は椅子から立ち上がる。

顔は遠目にしか分からなくても、話す声を耳にすれば、もう「男の子」と呼べる年配でないのは明らかだった。


「話は奥で聞こう」


男は椅子の脇に畳んで置いていた黒の上着を取り上げ、白シャツの上に羽織りながら舞台を降りると、暗い奥に消える。

一つ一つはむしろゆったりした動作であるにも関わらず、見る側には瞬く間に姿を消した感触が残った。


「あれは、総経理よ」


蓉姐は恐ろしい目で睨み付けると、私の手から花束を取り上げて早足で歩き出す。


あれが、総経理こと達哥だったのだ。

胸の奥が急速に早打ちしてきて、私はこれで何度目になるか分からないが、手持ちのビーズバッグをぎゅっと抱き締めた。

その弾みにクシャリと何かがビーズの下で潰れる音がした。

この中に、私の身を守るのに役立つ物は、何一つ入っていない。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


コン! コン! コン!

暗闇に蓉姐の扉を叩く音が響く。


「入れ」


中から声がした。


「失礼します」


従順に答える蓉姐の声に続いてギイッと重い音が暗闇を引き裂いた。

目の前が真っ白になる。

そういえば、外はまだ昼だった。

バッグを抱え、眩んだ目を伏せたまま、部屋に足を踏み入れる。

氷上の様な廊下に対して、この部屋の床には、一面に真紅の絨毯が敷き詰められている。


「達哥、今日は新しい子を連れてきました」


蓉姐は打って変わって仔猫じみた口調になる。


「うちで働きたいそうです」


背凭れのある椅子に深々と腰掛け、窓から流れ込む陽射しを背にした男は、何も言わない。


「花瓶のお花、換えますわ」


蓉姐はそう言うと、机上に置かれた花瓶から萎れた菖蒲しょうぶを抜き取って机の下に捨て、玫瑰の包みを新たに解き始める。

本当は姐さんじゃなくて、私が率先してこういう事をやらなきゃいけないんだ!

そう気付いた時にはもう、白い陶器の花瓶の上に新たな赤い花輪が収まっていた。


「名前は?」


出来上がったばかりの花輪の向こうから、掠れた声が飛んできた。


莉莉リリです」


私は目を上げて答える。

窓からの陽射しが眩しい。

総経理の側からは、日光に目の眩んだ、さぞかし間抜けな顔つきの小娘が見えてるんだろうな。


「年は?」


光に目が慣れてきて、額を全部出して髪油できっちり固めた小さな頭、尖った細い顎、成人の男にしては華奢な肩の線が、赤い花の向こうに浮かび上がる。


「十八歳です」


知らず知らず、右手でバッグの取っ手を握り締めていた。


――その子を連れて十八といったって、ダーあにきに通じるもんか!


昨夜、偉哥ウェイにいさんもそう話していた。


沈黙が流れた。


「お古の服と一緒に、名前まで付けてやったのか?」


静寂を切り裂いた、掠れ声の語尾が震える。

総経理は、どうやら笑っているらしい。


「衣装はこの子の自前がありませんでしたし」


こちらに背を向けた蓉姐の声は何だか言い訳がましい。


「今、うち、『茉莉花ジャスミン』はいませんよね?」


茉莉花の「リー」の所で、姐さんの声に少し力が込もる。


モーなら居たさ」


影になった総経理の手が花瓶の玫瑰に伸びて、一輪だけ飛び出た花をそっと群れの中に戻す。

男にしては、ほっそりした指だ。


「昔の話だがね」


その言葉の方は、やっと聴き取れるくらいの声で総経理は付け加えた。

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