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上海リリ  作者: 吾妻栄子
32/50

<32>

「今日は総経理しはいにんに会うから、失礼のない様にしてね」


「はい」


総経理って、要はお店の老板てんちょうみたいなもんなのかな?

蓉姐の言葉に頷きながらも、私の頭の中はまた耳慣れない言葉でいっぱいになる。


とにかく、姐さんの話を総合すると、私は姐さんも勤めている「舞庁ダンスホール」の「総経理しはいにん」に会って、そこの「舞女ダンサー」にしてもらえるように頼まなくてはいけないらしい。

客の前で踊りを見せたり、あるいは求められれば一緒に踊ったりはするが、「野鶏たちんぼ」とは断じて違うので売春の類は決してしないそうだ。


達哥ダーにいさんはとても厳しい人なの」


あんたも知ってるでしょ、という調子で、蓉姐はまた私の見知らぬ人の名を口にする。


「あんたが使い物にならないと判断したら、その時は」


姐さんの紅い唇が続ける。


「バラバラにして蘇州河そしゅうがわに放り込む位、あの人は平気でするわ」


人前で踊るより、まずその総経理のお目にかかる方が恐ろしい。


「あんたのバッグはこれね」


私の思いをよそに蓉姐は箪笥の奥から黄色いビーズのバッグを取り出して、ベッドに放る。


「昔、あたしが使ってたやつだから、ちょっと流行遅れだけど、使う分には支障ないから」


「どうも、ありがとうございます」


やっぱり、この服、私にはちょっと緩いみたい。

姐さんに貰った橙色の旗袍は、いざ袖を通してみると、脇の下の隙間から微妙に下着が覗いてしまう。

今日着ると分かっていたら、卓子テーブル掛けなんかより、こっちの手直しを先にしたのに。

そう悔やみつつ、ベッド上の黄色いビーズのバッグに手を伸ばした所で、蓉姐の声が飛ぶ。


「ちょっと、万歳してみて」


私はバッグを持ったまま両手を挙げた。

何て間抜けな格好だろう。

蓉姐は呆れた顔で息を吐く。


「洗面所に剃刀置いてあるから、今すぐ脇の下、剃って来なさい。石鹸を付けると綺麗に剃れるから」


万歳したまま、私はカッと顔に血が上るのを感じた。


「脇にヒゲを生やしたまま旗袍チャイナドレス着てたら、オカマと思われるわよ」


これからは、毎日風呂に入るばかりでなく、その都度、脇の下を剃らなくちゃいけないみたいだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「こっちよ」


濃紺の旗袍に真珠の耳環で着飾った蓉姐の声が通りに響く。


「ほら、もっと、シャキシャキ動く!」


「はい」


返事はしてみるものの、新しい靴を履いた足を早めようとすると、グラついて転びそうになる。

踵の高い靴、姐さん曰く「ハイヒール」が、こんなに歩きにくいとは思わなかった。

私が薄桃色のハイヒールで一歩踏み出すのにさえ四苦八苦している間に、姐さんは青紫のハイヒールをカツカツ進めていく。


と、その規則正しい音が止まった。


「ここで、今度は頭をやってもらうわ」


姐さんの白い手が指し示す。

次は、一体何があるんだろう……。


白小姐バイさん、おはようございます」


出迎えた五十がらみの男は蓉姐を認めると、丁重に頭を下げた。


「今日は私じゃなくて、この子の髪をお願いしたいんです」


「お下げに長くしてるみたいですけど」


「切ってパーマにして下さい」


蓉姐と男のやり取りを尻目に私は店内をぐるりと見回す。

壁に備え付けられた大きな鏡。

その前にはベッドと椅子の合の子みたいな腰掛けが並ぶ。

部屋全体に漂う、石鹸やら髪油やら薬やら混じった異様な匂い。

何だか床屋というより、怪しげな手術を施す医院にでも入った気がした。

と、男が急に私の肩に手を置くと、金歯を覗かせて笑った。


「それじゃ、そちらにお掛けになって下さい」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「いかがでしょう?」


理容師は鏡越しに金歯を見せて微笑む。


「とても」


鏡の中の私が引き吊った顔で笑う。


「とても素敵です」


新しい髪型は、お下げ髪を肩まで切って全体を波打たせ、前髪は鶏冠みたいに丸めて縮らせてある。

何だか、頭にだけ雷が落ちて、その後に鳥が巣を作ったみたい。


「このパーマが今の流行りなの」


蓉姐が隣に来て笑う。

これは、多分、洋人の女が始めた頭なんだろう。

同じ髪型なのに、私はまるで火事で焼け出されたみたいで、蓉姐は生まれ落ちた瞬間からこの頭でいた様に思える。


「どうも、ありがとうございます」


せめて笑い方だけでも似せよう。

私が唇の両端をきゅっと吊り上げたところで、鏡の中で後ろの扉が開いた。


薇薇ウェイウェイ!」


「あ、ね、姐さん」


呼びかけられた相手は、ぷっくりした丸顔のクリクリした両目をパチパチさせる。


「お早うございます」


薇薇と呼ばれた女の子は太った小柄な体を折り曲げて、巨大な鳥の巣じみた頭を下げた。

動くと石榴ざくろ色の旗袍が今にもはち切れそうで、見ているこちらがハラハラする。


「この店で会うなんて、あんたも出世したわね」


蓉姐がにいっと目を細めて相手に歩み寄る。

この目付きは、まずい兆候だ。

私は腰掛けから動けないまま息を呑んで見守る。

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