表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
上海リリ  作者: 吾妻栄子
31/50

<31>

久し振りにお腹一杯食べた、と言いたい所だが、そうは問屋が卸さなかった。

何せ、三人分の食事を五人で分け、おまけに追加分の二人がおなかを空かせた男の子ときている。

そうなると、新参者の私がでしゃばる訳にもいかない。


普段の倍ぐらいの回数で口に入ったものを噛み締めながら、食卓を探ると、向こうの皿に、粽子ちまきが一つだけ残っているのが目に入る。

……あれは、もらっていいよね?

手を伸ばすと、赤黒い手が重なった。

目を上げると、阿建のギョロ目がカチリとぶつかる。


「阿建」


蓉姐の低い声が刺す風に飛んだ。


「あんた、さっき、散々つまみ食いしたでしょ」


それを聞くと、阿建はしぶしぶ手を引っ込める。

……どうして、姐さんじゃなくて、私を睨むんだ。

素知らぬ顔で阿建から目線を外すと、私は冷えかかった粽子を取る。


粘っこい粽子はそのままだと喉に詰まりそうなので、茉莉花茶と一緒に飲み込んだ。

二番煎じでも、香りはかんばしい。

これも、結構高い茶葉なんだろうな、と思いつつ、小明の方を窺うと、湯飲みに目を落としたまま、何だか苦い薬でも飲まされた様に難しい顔をしていた。


「で、」


偉哥がまた煙草に火を点ける。

さっき小明や阿建が吸っていたのとは煙の匂いからして全然違う。

お茶葉と同じで、多分、煙草にも銘柄があって、その中にも高級品や安物があるんだろう。


「お前ら、どうしてここに来た?」


「屋台で、昨日の奴らに遭いました」


小明が声を潜めて答える。


「何人いた?」


くわえ煙草の偉哥の眼光が鋭くなる。

大きな二皮目ふたかわめに収まった斜視の双眸が、獲物を窺うたかじみて映った。


「四、五人です」


答える小明の目も、奥二重の睫毛の奥から冷たく光る。

私は鳥肌が立つのを覚えた。

さっきまで台所で寂しく笑っていた男の子とは、まるで別人だ。


「もっと居たぜ」


阿建が口を挟む。


「あいつらに出くわす前に擦れ違った奴らも、同じ寧波ニンポー訛りだったんだ」


不思議なもので、こちらもギョロッとした目玉が本当の野猪いのししみたいに獰猛に見えてくる。

――野猪にぶつかると骨が砕ける。

昔、母さんから聞いた話を思い出した。


四馬路スマロで俺らが出くわした連中の仲間さ」


偉哥の言葉に、蓉姐も煙草をくゆらせながら黙って頷く。

表情のない真っ白な顔の中で煌く茶緑の目は、熱しても決して温まることのない翡翠の様に見えた。


私は湯飲みに残った茉莉花茶をゴクリと飲み干す。

全員、食べ終わったみたいだし、さっさと後片付けをしよう。

皆が今、話し合ってるのは、私には全然、関係ない話なんだし……。


「お茶、お代わりを淹れてちょうだい」


空になった食器と急須を盆に載せて立ち上がった所で、長椅子の蓉姐が声を掛ける。


「はい」


何も考えずに頷くと、小明が無言でマッチ箱をポンと卓上に置く。

そうだ、コンロで沸かすんだった。

黙って型崩れしたマッチ箱を受け取る。

小明の小作りな横顔は、偉哥の方を向いたまま微動だにしなかった。


そろそろ沸く頃かな?

流しで食器を洗いながら、私はコンロで青火にかけた水壷やかんの様子を窺う。


「大丈夫とは思うけど、階段から降りた方がいいわ」

「ああ。お前も出る時は気を付けろ」


廊下から蓉姐と偉哥の声とバラバラに入り雑じった足音が聞こえてきた。


「それじゃ、姐さん、お邪魔しました」

「どうも、ご馳走様です」


小明と阿建の代わる代わる挨拶する声が耳に入る。

あれ、もう帰っちゃうの?

水壷がカタコト震え出したので、慌ててコンロの火を止める。

せっかくお湯を沸かしたのに。

玄関の扉が静かに開いて、またひっそり閉まる音が微かな震えと共に台所まで届いた。


「紅茶にして」


玄関から戻ってきた蓉姐が廊下から台所の私に言い放つ。


「はい」


返事する前に、姐さんは応接間に姿を消した。


紅茶はまだ一杯分残っているのだっけ。

小明の言葉を思い出しながら、私は流しの下を開けて“ASSAM”の缶を取り出す。

蓋を開けると、紫蘇しそに似た、不思議な香りがさっと広がった。

缶の底に、赤黒い燃えカスみたいなものが一掴みほど入っている。

確かに申し訳程度にしか茶葉は残っていない。


「これ、紅茶以外に使うんだった!」


先程の急須からふやけた茉莉花茶の茶葉を捨てた所で、また小明の言葉を思い出す。


「まだなの?」


食器棚から水差しに似た白磁の容器を取り出した所で、奥から蓉姐の棘を含んだ声が飛んできた。

この声はまずい兆候だ。


「今、お持ちします」


答えながら、新たに見つけた紅茶用の白い急須に一掴みほどの茶葉を入れ、水壷の湯を注ぐ。

あ、これ、湯飲み三杯分のお湯だった!

湯を全部注ぎ終わってから、思い当たる。


お茶の濃さ、これで大丈夫なのかな?

覗き込んだ急須の中の湯の色は薄っすら赤みを帯び始めてはいたが、「人の血みたいに赤い」状態には程遠い。


「飲んだら出掛けるんだから早くして!」


姐さんの声がヤリになって飛んでくる。


小明がもう少し残ってくれたら良かったのに。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ