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上海リリ  作者: 吾妻栄子
29/50

<29>

「おい、何、くっちゃべってんだよ!」


阿建アジェンが唐突に猪首いくびを出した。

狭い一間にバタバタと足音が響き、台所が急に汗臭くなる。


「お湯が今、沸いたところよ」


私が言い返すと、阿建は返事の代わりにしゃがんで流し下の棚をバタンと音高く開けた。


「ちょっと、もっと静かに開けてちょうだい」


棚が壊れたら、どうするの?

そう阿建に言ってやりたかったが、それを口にすると、何となく小明まで巻き込んで咎めることになってしまう気がしたので、後の言葉は飲み込んだ。


「ええと、西湖龍井シーフーロンジンは、あったあった!」


阿建はしゃがんで私たちに背を向けたまま、棚の中に手を伸ばす。

こいつ、私の話を全然聞いてやがらない。


「止めとけよ、龍井なんて。それ、バカ高い茶葉だぞ」


先に制したのは、小明だった。


「洋酒はさすがにヤバいけど、お茶なら大丈夫だろ」


阿建は棚から茶葉の缶を取り出しながら、小明を振り返る。


「この前も、飲ましてもらったじゃん」


念を押す風に、「西湖龍井」と端麗な筆文字で記された茶葉の缶を示す。


「あれはビャオあにきたちが来たから、蓉姐も特別に高い茶を出したんだ」


小明は私には分からない人の名を挙げると、声を潜めて続けた。


「俺らだけで勝手に飲んだら、大変なことになるぞ」


「ねえ、莉莉」


阿建が急に上目遣いにこちらを向いて甘ったるい声を出した。


「お前が気を利かせて俺らに龍井茶を出したってことにしてくれな……」


「駄目です!」


最後まで言わせずはね付ける。


「姐さんに無断でそんな高いお茶を淹れるなんて、図々しい真似は出来ません」


後で酷い目に遭うのは私なんだから。


「ちぇっ、ケチ臭い女だな!」


阿建は打って変わって舌打ちした。

微妙にだが、私の顔に唾が飛んだ気がする。


「ケチも何も、ここに置いてある物は全部姐さんので、私の自由になる物は何一つありませんから」


阿建の手から西湖龍井の缶を取り上げる。


元に戻すべく流しの下の棚を開くと、「洞庭碧螺春どうていへきらしゅん」とやはり筆文字で記された缶が目に入った。

蘇州と杭州で並び立たせてやろう。

「洞庭碧螺春」の隣に「西湖龍井茶」の缶を収めた。


「茉莉花茶、出して。そいつなら安いから大丈夫だ」


頭のすぐ上で、小明の声がした。


「早く淹れないと、沸かした湯が冷めちまうよ」


そうだ。

元は二人分のお茶を淹れるためにコンロで湯を沸かしたんだった。


「分かった。これね」


私が「茉莉花茶」と記された缶を出して示すと、小明はもうこちらに背を向けて食器棚の中央の扉を開けているところだった。


「紅茶以外はこの急須で淹れるから」


片手に持った急須を見せながら、小明はもう一方の手で私から缶を取る。


「茶葉入れる前に、急須は一回軽く洗った方がいい」


口は説明しながら、小明の手は流しの管の栓を捻って洗い出す。

この人、今までどれだけ台所仕事をさせられてきたんだろう。


「俺、紅茶がいいな」


阿建はいつの間に出したのか、紙箱から煎餅菓子めいた物を取り出してポリポリ噛みながら口を挟んだ。


「クッキーには紅茶の方が合うし」


そう語る間にも、噛んだ菓子のカスがボロボロと床にこぼれ落ちる。

蓉姐も、確かにこいつには台所仕事をいつまでもさせたくあるまい。


「お前、勝手に喰うなよ」


小明が急須をすすぎながら、阿建を睨む。


「いいじゃん、箱の口、もう開いてたし」


そんな二人をよそに食器棚から湯飲みを探す。

私たち三人は、どんな器を使えばいいんだろう?


「この白い、取っ手が付いた器でいいの?」


水の出る管といい、コンロといい、洋人の作る物には何でも取っ手が付いているみたいだ。


「ああ、三個出して」


頷きながら小明は缶の蓋を開け、カサッと茶葉を急須に振り込む。

台所いっぱいに乾いた茉莉花ジャスミンの匂いが広がった。


「俺、紅茶の方がいいって今言ったじゃんよ」


阿建が口を尖らせる。


「紅茶はもう缶に一杯分しか残ってないんだ」


小明は阿建に告げると、私に向かって言った。


「茶葉が足りなくなったら、姐さんに言って買い足してね」


水壷やかんの湯を急須に注ぎながら、小明は今度は苦い顔になって付け加える。


「その場で飲みたい茶がないなんて事になったら、姐さんの雷が落ちるから」


「お茶葉ってどこに買いに行くの?」


この界隈はまるで分からない。

そもそも、隣の部屋に誰が住んでいるのかすら見当が付かなかった。


「紅茶の茶葉だけは……」


小明が言い掛けた所で、玄関からガチャガチャと錠の鳴る音がした。


私たち三人は台所で一斉に凍り付く。


「ただいま」


蓉姐の声が廊下に響く。

私は湯飲みを三個抱えたまま、廊下に飛び出した。


「お帰りなさいまし」

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