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上海リリ  作者: 吾妻栄子
25/50

<25>

「触らないで!」


応接間に足を踏み入れるや否や、私は思わず金切り声を出した。


「デカイ声、出すなよ」


阿建は伸ばした手を一度引っ込めたが、その手で苛立たしげに天井を指し示す。


「人が聞いたら、誤解すんだろうが」


「それは、蓉姐ロンジエの衣装よ」


上の階、というより他の部屋にはどんな人が住んでるんだろう?

頭の片隅でちょっと気になりつつ、私は阿建と小明に挟まれた籐椅子の旗袍チャイナドレスの山を指さした。


「んなの、知ってらあ」


阿建はうるさそうに片手で空を払う仕草をすると、長椅子にドサリと腰掛けた。

小明は、棒立ちのまま旗袍の山を眺めている。


「知ってるなら、汚れた手でいじらないで」


鼻血の付いた指で白絹の服に手を伸ばすなんて!


籐椅子に小走りで近寄ると、小明は遠慮がちに脇にけた。


こいつらのいる状態で応接間に置きっぱなしだと不安だから、やっぱり、手直し済みの服は寝室に移動させよう。

一旦、衣装のうず高い山を持ち上げようと屈み込んで、また思い直す。

まずは、寝室の扉を開けるのが先だ。


「何か手伝うかい?」


脇から小明の声がした。

チラと見やると、彼の手はそこまで汚れてはいない。


「ありがとう、でも大丈夫よ」


これは、姐さんが私に任せてくれた仕事だから。


「小明、火、貸してくれよ」


阿建の暢気のんきな声は無視して、小分けにした衣装の第一群を寝室に運び込んだところで、急に小明の声が耳に飛び込んできた。


「お前、旗袍の上に座ってるぞ!」


応接間に飛んで戻ると、阿建が薄橙色の旗袍を摘まみ上げていた。


「ここにも一枚あったけど」


黒ずんだ太い指が絹地の肩を掴んでいる。


「それ、もらった服なのに!」


服を引ったくって阿建が摘まんでいた辺りを叩いて払う。

生地に目を近付けて、汚れが残っていないか確かめる。


「だったら、そんな大事なもん、こんなとこに置いとくなよ」


相手はそう言い捨てると、小明の手からマッチ箱を引ったくって、自分の煙草に火を点けた。


「長椅子の上にそんなのが一枚きり広げてあったって、カバーか膝掛けかと思うよな?」


阿建は厚ぼったい唇をすぼめて空々しく紫煙を吐き出すと、小明に念を押した。

小明はうんともすんとも言わずに、代わりに自分も胸ポケットから半ば潰れた格好になった煙草の箱を取り出す。


私の服と分かった途端、「そんなの」か。

忌々しい気持ちを抑えて金魚色の旗袍を畳む。


しかし、そこではたと困る。

私の物は、一体どこに仕舞えばいいんだろう?


取り敢えずは隣の寝室に持って行く。

この服にあいつらの煙草の匂いが染み付くのは我慢がならない。


窓際の写真が載った棚の上に、もう一度小さく畳んで置いておく。

日差しを浴びて、橙色の旗袍は水中の鱗の様に柔らかに光った。


蓉姐が戻ってきたら、私の持ち物はどこに置くべきか聞こう。

たかがこの服一枚置くくらいの場所なら、あの人も許してくれるはずだ。


これで全部だ。


小分けにした旗袍の最後の一群を寝室に運び込み、再び応接間に足を踏み入れる。


阿建と小明は二人でフカフカした長椅子に腰掛け、思い思いの方向に目を向けたまま、黙って煙草をくゆらせていた。


兄貴分がいなければ、こいつらもやる事がないのだ。


そんなことを思いながら、私は寝室の扉を固く閉めた。


さて、と。

次は何をすればいいんだろう?


卓上の隅で丸まっている白い卓子掛けが目に入る。

そうだ、あれを繕う仕事がまだ残っていたんだった。


卓子に近付いていくと、阿建と小明は我に帰った体でこちらを向く。


阿建はギョロリとこちらを睨んだが、すぐに卓上の灰皿に目を落として煙草を擦り付けた。


あんたたちに、用は無い。


私は何も言わずに卓子掛けとお針道具を取り上げる。


卓上の灰皿の傍らに、擦れて形の崩れた小さなマッチ箱が置かれているのが目に入った。

小明はいつの間にかまた目をあらぬ方に向けて、白い煙を少しずつ吐き出している。


まだ子供で、貧乏な癖して、どうして煙草なんか吸ってるの?


そう問いたい気持ちで、空になった籐椅子を卓子に引き寄せて腰掛ける。

卓上にお針道具を開き、卓子掛けの巾を膝の上に広げた。

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