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「小明です」
受話器の向こうから、丁重に名乗る声がする。
「おはようございます」
笑いを含んだ声の響きから、「男」というより、まだ「男の子」と呼ぶべき年配だと知れた。
「あ、おはようございます」
私はどぎまぎして鸚鵡返しする。
何から話せばいいんだろう?
「……蓉姐?」
聴こえてくる声が、急に怪訝な色を帯びる。
「あ、私、違います!」
この人、私を姐さんと勘違いしてる!
受話器を持たない方の手を激しく前で振ってから、向こうにもこちらの姿が見えないのだと思い当たった。
「え」
向こうはそう言いかけたなり、急に黙ってしまった。
どうすればいいんだろう?
私も受話器を持ったまま、躊躇する。
とにかく、この人は姐さんに用があって電話してきたわけだから……。
「あの、ご用件なら……」
こちらが言いかけた瞬間、相手が早口で答える。
「悪いな、かけ間違えた」
受話器の向こう側から、ガチャリという音がした。
「あの、もしもし? もしもし?」
受話器からは、ツー、ツー、ツーと物寂しい音が連なって流れてくる。
どうやら、もう話せないらしい。
私が蓉姐じゃなくたって、話を最後まで聴いてから切ればいいのに。
妙にしょんぼりした気持ちになって、受話器をカチャンと元の位置に戻した。
蓉姐が戻って来たら、「小明」から電話が来たとだけ伝えよう。
偉哥とも関係のある人みたいだから。
――阿建と小明が十九歳なんでしょ?
昨夜、姐さんが偉哥に確かめていた言葉を思い出す。
応接間を見渡すと、卓子の上に、昨日の繕いかけの卓子掛けが忘れられた様に丸めて置いてあるのが目に入った。
取り敢えずは、あれを終わらせておこう。
電話を離れて二、三歩卓子に向かった所で、背後でがなり立てる音がまた始まった。
「小明」だ。
私は直感的に察した。
早く取れ、と急かす様に電話が鳴っている。
今度こそは、ぶれずに堂々と「小明」と話そう。
深呼吸すると受話器に手を伸ばした。
「もしもし?」
私は抑えた声で丁重に問う。
「どちら様ですか?」
小明です、というさっきの声を頭の中で思い出して待つ。
「本当だ」
戻ってきたのは、「小明」のではない、ガラガラ声だった。
「違う所にかかるぞ」
年配としては、こちらもまだ男の子みたいだ。
「あの、どちら様ですか?」
小明の仲間らしいと辺りを付けながら尋ねてみる。
「てめえ、誰に断ってこの番号使ってんだよ!」
答えの代わりに、受話器からとんでもない大きさの声が返ってきた。
「てめえのせいで、掛けたいとこに繋がんねえじゃねえかよ!」
思わず耳を放したが、受話器は変わらずがなり立てる。
「落ち着いて下さいよ。私は……」
「つべこべ言わずに、今すぐこの番号変えろ!」
「ですから……」
「この次掛けた時にてめえが出たら、ただじゃおかねえからな!」
ガラガラ声は怒鳴るだけ怒鳴ったかと思うと、ガチャンと叩き付ける音で途切れた。
ツー、ツー、ツー、……。
受話器をへし折りたい様な気持ちで、私はガチャリとまた元の位置に戻す。
こちらが訊いても名乗らなかったのだから、こいつの電話を蓉姐に伝える必要はないだろう。
フーッと息を吐くと、今度はシンとした部屋でお腹の鳴る音が響いた。
お腹減った。
何か食べたい。
何かを口に入れて飲み込みたい。
ムシャクシャする気分も手伝って、
何でもいいから腹に収めなくては済まない気がしてきた。
食べたい。
食べなくちゃ。
食べるんだ。
呪文の様に頭の中で繰り返しながら、
またも鳴り出した電話に背を向けて歩き出す。
どうせ、またあのガラガラ声だろう。
やかましく呼び出す音を足の後ろに蹴飛ばす。
玄関からこの応接間に来るまで
暗い一間があったから多分そこが台所の筈だ。
昨日の昼飯の残り位は取ってあるかな?
誰もいないと知りつつ、足音を忍ばせて薄暗い一間に踏み入る。