開かれた箱
「その傭兵は、哀しき剣を胸に抱く」の後日譚
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頬が、痛かった。
笑っている——はずだった。
白馬の上で、紙吹雪の中で、王都の民に片手を上げている。
口の端を引き上げるたび、頬の筋が軋んだ。
まるで凍りかけた革を、無理に折り曲げているみたいだった。
背筋を伸ばす。
顎を上げる。
英雄らしく、前を見る。
白と金の紙吹雪が空から舞い落ち、石畳を埋め尽くしていく。
歓声が波のように押し寄せていた。
英雄が帰ってきた——そういうことに、なっていた。
実態は、惨敗だ。
千年将軍の前で策はすべて読まれ、陣は裂かれ、仲間は各個に叩き潰された。
私たちは勝ったのではない。
ほとんど、逃げ帰っただけだ。
ただ一つ。
殿に残ったグレンが、帝国の英雄を道連れにした。
それだけが、王国にとって都合のいい勝利になった。
遺体は、戻らなかった。
戻ってきたのは、折れた剣と、血の染み込んだ外套だけだった。
あの戦場から引き上げられた者は、誰一人として、グレンの最期を確かめていない。
だから皆、死んだのだと決めた。
決めなければ、前に進めなかった。
王国の上層部は、その首級に目を輝かせた。
「使える」
その一言が、今日の舞台を作った。
大通りを飾る旗。
整列する兵士。
磨き上げられた甲冑。
民の前に掲げられる、勝利の形。
誰かが丹念に組み立てた虚飾の上を、私は白馬で進んでいる。
後ろを振り返る。
団員たちの誰もが、同じ顔をしていた。
口の端を無理やり持ち上げて、それでも前を向いている。
目だけが、どこか遠くを見ていた。
副団長の席が空いていることに、誰も触れない。
手綱を強く握りしめ、もう一度群衆へ手を振る。
泣いている老婆がいる。
子どもを肩車した父親がいる。
恋人と抱き合い、声を上げている若者がいる。
(勝利の顔を作れ)
自分に命じる。
(英雄らしく振る舞え)
崩してしまえば、あいつが残った意味まで消えてしまう。
(……惨めだな)
ふと、隣に声をかけそうになった。
いつもそうしていたから。
くだらない軽口を投げれば、半馬身うしろから、それ以上にくだらない返事が戻ってきた。
こちらが黙っていても、勝手に何かを言ってきた。
うるさいと睨めば、楽しそうに笑った。
今は、風が通り過ぎるだけだった。
喉の奥に出かけた言葉を噛み砕き、私はもう一度、口の端を引き上げた。
◆◆◆◆◆
その舞台が用意されたのは、凱旋の前夜だった。
王国の文官が私の前に一枚の羊皮紙を置いた。
「明日は、この通りに」
そこには、勝利を讃える言葉が整然と並んでいた。
勇敢なる暁の剣。
帝国の英雄を討ち取った偉業。
王国の希望。
民に捧げられた勝利。
どの文字も、綺麗すぎた。
綺麗すぎて、吐き気がした。
「これは勝利ではない」
「ですが、勝利にしなければなりません」
文官は顔色ひとつ変えなかった。
「民には希望が必要です。兵には旗が必要です。敗走は、敵の首級によって凱旋に変わる。そうでなければ、あなた方に未来はありません」
理屈は分かった。
分かってしまう自分が、いっそ憎かった。
「……グレンの名も、使うのか」
「当然です」
文官は淡々と答えた。
「彼の死は、最も美しい物語になる」
その瞬間、腰の剣に手が伸びかけた。
けれど抜かなかった。抜けなかった。
そうしてしまったら、あいつが守ったものまで壊れる。
全部、私の未熟さで焼き払うことになる。
あの時と同じように。
私は羊皮紙を受け取った。
そして、何も言わずに部屋を出た。
廊下の灯りが、やけに白かった。
握りしめた羊皮紙は、いつの間にか端が潰れていた。
◆◆◆◆◆
宴が始まった。
杯が掲げられ、祝辞が続いた。
笑い声が重なり、楽の音が響き、誰もが今日という日を祝っていた。
やり過ごせている。
そう思っていた。
「——グレン殿の分まで、我らが勝ち取った勝利に!」
手の中の杯が、小さく鳴った。
呼吸が浅くなる。
勝ち取った。
勝利。
グレンの分まで。
その言葉のどれもが、喉の奥に小さな刃のように刺さった。
「…………団長、ここは我々が」
隣にいた幹部が、低く囁いた。
「……すまない」
きっと酷い顔をしていたのだろう。
促されるままに席を立ち、廊下へ出る。
扉が閉まる直前まで、祝いの声が背中にまとわりついてきた。
追いつかれないように、足音を殺して歩いた。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
気づくと、グレンの部屋の前に立っていた。
扉に手をかける。
開ける前に、ほんの少しだけ待った。
中から「勝手に入るなよ」と、呆れた声が聞こえてくる気がした。
もちろん、何も聞こえなかった。
扉を開ける。
燭台に火を入れると、質素な室内がぼんやりと浮かび上がった。
寝台。
小さな棚。
壁に立てかけられた古い訓練用の木剣。
それだけだった。
「…………本当に、何もないんだな」
声に出してから、その声が思ったより小さいことに気づいた。
グレンがほとんどの時間を団員の大部屋で過ごしていたことは知っている。
酒を飲むのも、飯を食うのも、くだらない賭けをするのも、いつも誰かのいる場所だった。
それでも。
こんなにも何もない部屋で、あいつは眠っていたのか。
鉄と汗と、かすかに革の匂い。
それだけが、ここがグレンの部屋だったことを教えている。
ほとんどの時間を団員の大部屋で過ごしていたことは知っていた。
それでも——こんなにも。
鉄と汗と、かすかに革の匂い。
それだけが、ここがあいつの部屋だと教えている。
ふいに、身体が思い出した。
この匂いが一番近かったのは、手合わせの時だ。
いつからか、私はグレンに勝てなくなっていた。
それでもやめなかったのは、意地だ。
そして、もうひとつ。
自分でも、うまく名前をつけられない何かだった。
最後に剣を合わせたのは、あの出征の前だ。
荒々しいのに、繊細な剣だった。
戦場で磨き込まれた動き。
こちらの呼吸を読み、踏み込みを潰し、退く先に刃を置く。
気づいた時には、喉元に剣先を突きつけられていた。
「俺の勝ちだな」
「……くそっ」
息の上がった私に対し、グレンの呼吸は落ち着いていた。
「……また、強くなったな」
「そりゃな」
グレンは、当たり前のように笑った。
「俺の仕事は、お前を守ることだ」
「…………そうか」
いつもグレンはそう言った。
まだ私より弱かった頃から。
何度負けても、泥まみれになっても、歯を見せて笑いながら。
ずっと。
◆◆◆◆◆
意味もなく寝台に座った。
少しだけ迷ってから、横になる。
天井に揺れる火の影を、ただ見つめた。
この寝台で、あいつは何を考えていたのだろう。
団のことか。
明日の戦のことか。
くだらない酒のことか。
それとも、何も考えずに眠っていたのか。
かすかに開いた棚の扉が目に入った。
「…………これは」
奥に、小さな箱があった。
見覚えがある。
昔、気まぐれで渡した短刀が入っていた箱だ。
行商人の屋台で目について、理由もなく買って、理由もなく渡した。
戦場で使えるような代物ではない。
刃も薄く、柄の飾りも安っぽい。
子どもの土産物に毛が生えたようなものだった。
グレンはそれを受け取った時、苦笑していた。
「こんな安もん、すぐにダメにしちまうぞ」
「私があげたのだから、それは聖剣だ」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
そんな会話だった。
それだけの、何でもない贈り物だった。
蓋を、開ける。
短刀は、渡した時のままそこにあった。
刃には傷ひとつない。
使われた形跡もない。
ただ——箱の中だけが変わっていた。
底に、柔らかな布が敷かれている。
短刀の形に合わせて、丁寧に折り込まれていた。
刃がずれないように。
柄が傷つかないように。
まるで、壊れ物を扱うように。
私は、しばらくそれを見下ろしていた。
こんな安物を。
こんな、私ですら渡したことを忘れかけていたものを。
あいつは、使いもせず、捨てもしなかった。
誰にも見せない部屋の奥で、ずっとしまっていた。
「……嘘つき」
蓋をそっと閉じ、上を向いた。
◆◆◆◆◆
どれだけ、そうしていただろう。
窓の外には、夜の王都が広がっていた。
篝火が無数に瞬き、遠くから歌声が聞こえる。
英雄の帰還を、夜更けになっても誰かが祝っていた。
きっと、団はもっと大きくなる。
敵の英雄を道連れにした。
その事実は本物だ。
人が集まり、夢を託し、『暁の剣』の名はさらに広まっていく。
王国は私たちを利用するだろう。
私もまた、それを利用するだろう。
前に進むしかない。
そう、決めていた。
なのに、立ち上がれなかった。
足が動かない。
かつては勝利のたび、真っ先に立ち上がっていた。
誰より大きな声で笑い、誰より先に杯を掲げた。
そのたびに、半馬身うしろであいつが笑っていた。
馬鹿みたいな夢だと、皆に笑われた日。
それでも天下を取るのだと叫んだ私の横で、グレンだけは呆れた顔をしながらついてきた。
いつからだったのだろう。
あいつがそこにいることを、当たり前だと思うようになったのは。
勝てば、隣にいる。
負ければ、隣にいる。
怒れば、隣にいる。
迷えば、半歩後ろから、黙って背中を支えている。
そんな当たり前が、どれほど得難いものだったのか。
失ってから、ようやく分かる。
「………………そうか、私は」
私は、ようやく声にした。
「私は……」
その先は、言えなかった。
言ってしまえば、あまりにも遅すぎる気がした。
届く相手のいない言葉ほど、惨めなものはない。
頬が、濡れていた。
笑顔を作るために痛んでいた頬が、今は別の痛みを覚えている。
毛布を引き寄せ、両手で抱き込んだ。
顔を埋める。
声は、出さなかった。
出してしまえば、何かが本当に終わってしまう気がした。
◆◆◆◆◆
翌朝、幹部たちを集めた。
机の上には、新たな副団長候補の名が並んでいる。
誰もが優秀だった。
誰もが、団のために命を張れる者たちだった。
それでも、私は判を押さなかった。
「副団長の席は、当面空ける」
ざわめきは起きなかった。
ただ、何人かが目を伏せた。
何人かが、唇を噛んだ。
「あいつの代わりを置くな、という意味じゃない。いずれ必要になれば、私が決める」
持ってきてしまった箱の蓋を、指先でそっと撫でる。
「だが今はまだ、あの席を王国の都合で埋める気はない」
言い終えた瞬間、ようやく息ができた。
まだ、悲しみが消えたわけではない。
後悔が薄れたわけでもない。
失ったものの大きさを、受け止められたわけでもない。
ただ、立ち方を思い出しただけだ。
それでも、一歩目は踏み出せる。
踏み出して、みせる。
「進むぞ」
幹部たちが、静かに頷く。
その中に、あいつの姿はない。
あの軽口もない。
半馬身うしろから聞こえてくる、呆れたような笑い声もない。
それでも。
「……見ていろ、グレン」
返事はない。
けれど、その時だけは、不思議と。
半馬身うしろで、誰かがいつものように笑った気がした。




