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倩兮女―ケラケラオンナ―

作者: てばもと

倩兮女

「楚の国宋玉が東隣に美女あり。墻にのぼりて宋玉をうかヾふ。

嫣然として一たび笑へば、陽城の人を惑せしとぞ。およそ美色の人情をとらかす事、古今にためし多し。

けら々々女も朱唇をひるがへして、多くの人をまどはせし淫婦の霊ならんか。」

『鳥山石燕画図百鬼夜行』より


1.

 こいつだ。

 声には出していないけれど、心中にすとんと落ちた納得の言葉を私はあげる。

私はその本――鳥山石燕画図百鬼夜行という――の二〇三ページに現れた、こいつにひどく見覚えがある。

こいつは、目尻を垂れ下がらせ、細めた眼差しでどこかを見ていて、

口元を手の甲で覆うも、その端から漏れた唇を吊り上げ、厭らしく笑っている。

名前は「倩兮女」、まるで読めないけれど、これで「けらけら女」と読むらしい。

けらけら、と厭らしく笑う。ただ笑うのである。

 なるほど、こいつは妖怪だ。

 鳥山石燕という人が、江戸時代に妖怪を多く描いた絵師だと美術部の高山先生から聞いて、

私は早速、市内の図書館に問い合わせて、鳥山石燕の本が置いてあるというここまで訪れた。

何故、わざわざそこまでしたのか、人に言えば疑問を持たれるような事だと思っている。

でも今の私にとって、コイツが何よりも私を脅かす存在なのだから、

こうして正体を確かめられたのは、大きな収穫だ。

 さて。

 心の中で呟いた後、私は本を元在った場所に戻し、帰り支度を始めようとした所で、

こいつが現れたのだ。

「けらけらけら」

 言葉なんてもんじゃない。ただの笑い声、だけれど一音節ごとに私の心を掻きむしるような、

厭らしい笑い声が、私に向かって投げつけられる。

笑われる事に慣れるなんて、絶対に無いのだ。

「けらけらけら」

 真っ赤な唇が、上下左右に忙しなく動いている。まるで別の生物のようだ。

なんて不気味なのだろう。なんて厭らしいのだろう。

おぞ気を感じた私は、コイツと、けらけら女と目を合わせないようにして、図書館を飛び出した。

 外は生憎、雨だった。


2.

 濡れた髪を束ねもせず、湯船にそのまま浸しながら、私はずっと考える。

なんでけらけら女が私の前に現れるようになったのか、まるで見当がつかない。

私はこの春に転校したばかりで、慣れない環境にストレスを感じてはいるが、

友人も居るし、先生とも仲良くやっている。勉強も、部活も、それなりに頑張ってはいる。

なのに何故、あんな幻覚を見るようになってしまったのだろう。

 思い出すほど、不気味だ。何をするでもなく、ただ人を笑うのだ。

ただあの笑いは、嘲笑というのとは少し違うような気がする。

私は人から嘲笑われるような、情けない行動を取ったり、やましい感情を持った事は無いし

あの笑いはもっと、優しいけれど、悪意たっぷりの――。

「夏子、友達から電話ー」

 考えてる途中で、母親が脱衣所の方から声をかけてきた。

少し億劫だったので、聞こえないフリをして、下唇あたりまで湯船に顔を沈めてみる。

「夏子、聞こえてる? ミカちゃんだって」

 それを聞いて、私は母親になんで先に名前を言ってくれないのか、不満に思った。

そして、その時には思うより先に、湯船を飛び出している私が居た。

 ああ、髪、痛んじゃうかな。


3.

「夏子? 平気だった?」

「ん、大丈夫、今お風呂出たトコ」

 電話の子機を持って、自室のベッドに腰掛ける。

「それより、携帯電話買って貰いなって」

「うーん、必要ないから」

「もう、私が必要なのよ。いつでも夏子に連絡できるし」

 少しだけ笑って返す。美佳は自己中心的な発言が多いけれど、本当は相手の事を慮っての言葉なのだ。

私は美佳から電話が来る度に、携帯電話も悪くないなと思うけれど、

結局、美佳以外に連絡する当ても無いからと、なあなあにしてしまっている。

「あ、それと風邪ひいちゃダメだよ、夏子ってば雨降ってるのに、急に図書館から飛び出していくんだから」

「ん、うん、ごめん」

 忘れていた訳じゃないけれど、心苦しかったから思い出したくはなかった。

今日、美佳も一緒に図書館に行ってくれていたのに、一言二言告げてそそくさと立ち去ってしまったのだから。

でも、それがあのけらけら女のせいだと言うと、美佳は心底心配そうに私に声をかけてきた。

「それってあの幻覚の事? 変な笑い声と唇が見える、っていう」

「うん、なんだろうね。直接、害は無いんだけど」

「一度お医者さんに行って話し聞いて貰うとか、それが嫌なら学校の、あのカウンセリングの、

吉田先生に話してみたらどうかな?」

「ん、うん……」

 確かに、あれが幻覚であるならそれで解決するかもしれない。

でもあれが、けらけら女という妖怪だったと、そう確証を得た今では相談した所で悩みが解決するとは思えない。

私にはこうやって、親友に気軽に話を聞いて貰えるだけで十分なのだ。

「ま、いいや、明日また学校でね、夏子」

「うん、また明日」

 この会話の後、電話を切るタイミングを逃して、その日にテレビでやっていた映画の話題に入ってしまった。

結局、美佳との会話が途切れたのは夜十一時を回って、母親が私の長電話を咎めに来てからだった。

どうやらこれで、親に携帯電話を買ってとも、頼みにくくなってしまった。


4.

 夢は見ていない。

 これは電灯を消した部屋に浮かんだ幻だ。

「けらけら」

 真っ赤な唇が、天井に描かれた幾何学模様のどこからともなく浮かび上がり、視界に現れる。

布団を耳元までかぶっても、その笑い声だけは聞こえてくるのだ。

「けらけら」

 なんて言っているのだろう。なんて私を笑っているのだろう。

なんで笑うのだろう。私は、何もやましい所なんて無いというのに。

あんな厭らしい唇をしているくせに、私を卑しめて笑うのだ。

 口惜しい。

 笑われるのが口惜しい。私より楽しげに笑って、私より満足げで、私より――。

「…………」

 なんて言ったのか、聞き取れなかった。あのけらけら女は、今なんと言ったのだ。

つむっていた目を開けて、布団も少し下げた。電灯の小さなランプの明かりが、

天井のごく狭い範囲をオレンジ色に照らすだけで、その外は暗闇のまま。

その後、天井の幾何学模様から、けらけら女が浮かび上がってくる事はとうとう無かった。

 妖怪なのか、それともこれは本当の幻なのだろうか。

解らない。解らないから、美佳には話さないでおこう。


5.

「どうだった? 鳥山の絵、イカしてたでしょ?」

 私が美術室に入ってすぐ、高山先生が私の方も見ずにそう言ってきた。

私ははぁ、と気の無い返事だけを返して、すぐさま保管してある自分の作品と画板を取りに向かう。

 先生は、いつも放課後は自身の作品に取り掛かって、美術部の部員が来ても振り返ろうともしない。

それでも誰が来たのかを解って声をかけるので、知らない人からは不思議がられ、

まるで超能力でもあるのかと思われている。

実際は先生の近くの壁にかかっている鏡が、入り口側を反射して見えているというだけなのだが、

それに気づいた頃には、そういった変な魅力に惹かれ、私みたいに美術部に入部している事になる。

「鳥山ってサ、マイナーだけど日本美術史的には喜多川歌麿の師匠でもあるんだよ」

「歌麿なら、知ってます。凄い人だったんですね」

「でしょ? 私はサ、浮世絵とかはまるきり門外漢だけど、鳥山は好きだよ」

 先生の癖の一つに、名立たる画家達を飲み屋の知り合いでも紹介するように話すというのがある。

名前などあえて聞きなれない方で呼ぶので、ビンセントがどうだの、ヨハネスがどうだの言われても

それがゴッホとフェルメールと気づくのに、数分のラグがある。

「なんていうのかな、鳥山の絵って見てて楽しいんだよね」

 私がたたまれたイーゼルの下の方を爪先で蹴ったあたりで、先生がそんな事を言った。

悪いけれど、それにはまるで同意できない。確かに軽妙な絵柄ではあるけど、

私が見た鳥山石燕の絵は、もっと不気味で得体の知れない怖さがあった。

妖怪を描いているのだから当然と言えば当然だけれど、そういう生理的な怖さとも違う

もっと人間の本質の醜い部分を描ききったように感じて、とても怖かった。

 だからこそ現に、私もあれがけらけら女だとすぐに解ったのだから。

「でも清原が妖怪に興味あるなんてね、どうだい次は月岡芳年や河鍋暁斎なんか……、

ああ、年頃の女の子に薦められる物じゃなかったかもしれないや」

「いえ、もう、見たい物は見れたので」

 そう、とだけ返した先生はそのまま自身の作業に集中していった。

そして私も自分が今取り組んでいる絵、目の前にある、

この顔の無い人物画を私はなるべく早く描き終えたい。

 これはそもそも、モチーフに悩んでいた私を見て、美術部を見学していた美佳が

でしゃばりな事に、自身がモデルを務めると言ったのをきっかけに描いた物だった。

でしゃばりとは言ったが、私はその申し出を快く受け入れ、

いざ親友の顔をとびきり綺麗に描いてやろうと、意気込んでいた。

ただ、その日は大まかな輪郭を描いた辺りで夕方になり、作品を放って二人して帰ってしまい、

その後に美佳が部の方に姿を見せないので、顔を詳細に描けない事だけが誤算だった。

私は顔は後回しにして、今自分が着ている制服を手元の鏡で見て、それを参考に絵の中の美佳の制服に陰影をつけていく。

 美佳は今、何をしているのだろう。もしも暇なら、部の方に来てくれればいいのに。

と、そう思った所で先生が声をあげた。当然、振り返ってはいない。

「ああ、井崎か。清原に会いに来たのか?」

「うん、あ、夏子」

 美佳だ。久しぶりになるが、こうして会いに来てくれた。絵のモデルの登場により

作品が完成させられる事もそうだが、純粋に来てくれて嬉しかった。

「ん、美佳、そういえば髪型変えた?」

 私も先生にならって、振り返る事なく手元の鏡で、背後に映った美佳の容姿を当ててみる。

といっても美佳は、先生のトリックを知ってる身だから、当然気にも留めずに会話を続ける。

しかし振り返らないというのは申し訳ない気がしてしまい、私のほうが折れて美佳の方に顔を向ける。

「けらけら」

 しかし、見るべき美佳の顔よりも私の目に映ったのは、中空で厭らしく笑うけらけら女であった。

なんて言っているのかは解らないけれど、それは間違いなく私に向かって口を動かしている。

開けたり閉じたり、ナマコかアメフラシか、そんな軟体生物のように。まるで、厭らしい。

 きっ、と目をつむって、私は絵の方に向き直ってからゆっくりと目を開ける。

そこには顔の無い美佳の絵がある、髪型は今の物とは違っているが。

「……ぇ、ねぇ、大丈夫? 夏子」

「ん、うん……、ちょっと目まいがしただけ」

 鏡の中の美佳は、不安げな表情でこちらを見ている。

先生も自身の絵の方から離れて、私の方にやってくる。

「ごめん、ちょっと顔洗ってくる」

 駆け出した私の目の端に、赤い唇が浮かんだ。


6.

 女子トイレの洗面所で顔を洗いながら、私は早く美術室に戻ろうと思っていた。

しかし、どうにも足が重くなる。申し訳ないという気持ちが溢れ、このまま逃げてしまいたくなる。

美佳はせっかく会いに来てくれたというのに、私は居もしない妖怪に怯えて、

会話もそこそこで逃げるように出て行ってしまった。

 なんであんなのが現れてしまったのだろう。

 けらけら女を見るたびに、私の心に穏やかならざる感情が生まれてくるのが解る。

取り残されていくような焦燥感、大事な物が遠くへ行ってしまうような喪失感。

あのけらけら女に笑われるほど、そんな気持ちが膨れていくような気がする。

「ん……」

 気持ちに区切りをつけるように、水道の蛇口を一際強く捻り、溢れ出ていた水を止める。

鏡に映った私の顔は、別人のように見えた。それでも、私が私だと言える確証はある。

 私は、薬指で自分の唇をなぞってみる。昔、何かで見た古い口紅の差し方だ。

中央部はそれなりに柔らかいが、他の所は女性の物とは自分でも思えない、薄い唇だ。

それでも、こうして触ればあるのだから、私は私、決してあんな妖怪ではない。

 妖怪に変わってしまったのは――。

「夏子、大丈夫?」

 背後から美佳の声がする。わざわざ来てくれたのだろうか、それはそれで申し訳ない。

「美佳……、私――」

 言いかけて、私はそれ以上言えなくなってしまった。振り返った所に居たのは

美佳ではなく、真っ赤な唇と、けらけら女の厭らしい笑い声。

「けらけらけら」

 やめて――。

 叫ぶ事もできず、私は女子トイレを飛び出して逃げだした。

けらけら女とすれ違う瞬間、指先に痛みを感じたが、

それが私を掴もうとした美佳の手によるものだと気づく事もできなかった。

 私は廊下を駆けて、美術室の方ではなく、二階に続く階段の踊り場へと向かう。

「けらけら」

 踊り場まで来た所で、ゆっくり振り返ると、まだそこにけらけら女は居た。

ずっと笑っている。ずっと、私を笑っている。

「来ないで!」

 思わず口をついて出てしまった拒絶の言葉。誰に対する拒絶? けらけら女に対して?

 違う、これは美佳に対しての拒絶の言葉なのだ。

「夏子、どうしたの……?」

 私の言葉を受けた美佳も、心なしか不安げな声をあげる。

それに気づいた私は、居た堪れなくなって、腰を落として深く目をつむる。

美佳に対して申し訳ない。せっかく私を心配してくれたのに、私は妖怪の影に怯えて彼女を拒絶してしまった。

「……夏子、本当に大丈夫? 待ってて、先生呼んでくるから」

 美佳の声がした後、私の肩にちょんと触れた感覚があって、それから後は何も聞こえなかった。

遠く校庭で運動部の声がするけれど、それはもう、別の世界の音のようだった。

 なんでこんな事になってしまったのだろう。私は美佳になんて言いたかったのだろう。

「夏子!」

 美佳の声。

 薄目をあけて階段の下の方を見ると、そこに美佳と、その隣に若い男性の姿がある。

 なんで、そこでその人を呼んでくるのよ――。

「夏子、そこで吉田先生に会ったから……、ね、話聞いて貰おう?」

 再び目をつむった私の肩に、決して優しげでない吉田先生の手が置かれた。

「君が清原さんだよね、井崎からいつも話は聞いてるよ」

 なんで、貴方がそんな事を言うのよ。

「井崎さんはずっと君の事を心配してたんだよ」

 貴方が、美佳の気持ちの何を解るというのよ。

「幻覚や幻聴には理由があるんだ、だから怖がらなくていい……」

 目をあけて、焦点をあわせずに吉田先生と美佳の方を見る。

吉田先生はまるでそれが自分の使命のように、私に対して話しかけてくる。

それを見守る美佳の方は、不安そうな目をしているけれど、どこか満足げな表情を浮かべている。

 美佳、そんなに吉田先生の事、好き?

 そんなに私をだしにして、吉田先生と話したい?

 美佳の赤い唇が、前はしていなかった口紅の乗った唇が、つつと吊りあがる。

口を手で覆って、私の方を見ているけれど、その端から厭らしい笑いが漏れる。

「けらけらけら」

 私はずっと、美佳に気づいて欲しかった。

 貴女が、貴女こそが私を笑う、けらけら女だったって。

「けらけら」

「ほら、井崎も心配してる」

 違うわ、先生。それは心配じゃない、ただの笑い声よ。

「けらけらけら」

 美佳の手が私の方に伸びる。赤い唇を、厭らしい唇を、別の生き物みたいに動かしながら。

「やめて」

 私は美佳の手を振り払った。

「美佳、もうやめて、もう私を、笑わないで」

 一語ずつ、搾り出すように伝えた私の本心。

「…………」

 けらけら女は、もう笑わなかった。


7.

 天井の幾何学模様に、けらけら女の赤い唇が浮かぶ事は無くなった。

私を笑う声も、嘘のように消え去っていった。

 一体私は、なんで美佳をけらけら女などと思ってしまったのだろう。

あれは、いつの事だったろうか。

「清原さんって絵、得意なの?」

 これは、私が転校してきて初めて美佳と交わした会話だった。

別に友達が欲しいとは思っていなかったけれど、美佳の方から話しかけてきてくれて、

私はそれを純粋な好意として受け取った。

 その後はただ友人同士、他愛ない色んな事を話していた気がする。

あの時も、美佳が絵のモデルを務めてくれた時もそうだ。

夕暮れの美術室に二人、時折、背を伸ばしながら美佳は、私に色んな事を聞いてきた。

誰か好きな人はいるのか、居ないなら作った方が良い、その方が毎日が楽しくなる。

 私はただ笑って返すだけであったが、美佳はその都度、吉田先生の事を会話にはさんできていた。

その頃から、私は漠然とだが、美佳が吉田先生の事を好きなんだと気づいていた。

 それでも、あれは――。

「けらけら」

 ある日の事だった。美佳と二人して帰ろうと思い、彼女を探している時、

カウンセリング室の前を通りかかった。

閉じられたカーテンの隙間から見えたのは、美佳と、その正面に座る吉田先生の後姿。

美佳は腰を浮かすと、吉田先生の方に顔を寄せて、やがて。

 それは、真っ赤な唇。

 初めて会った時はしていなかった、厭らしい色をした唇が。

「けらけらけら」

 ああ、その時からだ。その時から、私はけらけら女の幻を見るようになっていたのだ。

「ねぇ、夏子って――」

 あの笑い声の正体は、嘲笑でなく。

「キス、したことある?」

 自身の得た満足感を誇示するような、笑い声。


8.

 私が美佳と話さなくなってから、二週間ほど経った。

美術室に置き去りにされた美佳の絵は、完成する事なく、保管庫にしまわれたままである。

誰が悪いとはいえない、いや、十中八九私が悪いのではあるが、認めたくは無い。

 そんな日に、しばらく聞こうともしなかった他人の噂話が、私の耳に届いた。

「井崎さん、吉田先生と別れたんだって」

「やっぱり? なんていうか二人ともお遊び感覚だったしね」

 美佳と吉田先生が別れた。そんな単純な事実が、私の中に入ってくるのに随分と時間がかかった。

美佳はどういう思いでいるのだろうか、やはりまた誰かに恋をして笑っているのだろうか。

美佳は、そういう強い子だから。

 私はそう自分に言い聞かせながら、放課後になるのを待ち、美術部に向かった。

いい加減、描けなくなった人物画を諦め、新しい課題に取り組まなくてはいけないからだ。

 しかし、美術室の扉を開けた所で、良く見慣れた制服の後ろ姿を見つけてしまった。

「……夏子?」

 その制服の主は、振り返ってはいない。高山先生と同じように、壁にある鏡を見て私の名前を当てた。

彼女の三つ編みの髪は、私の描いた絵の中と同じ。少し前までのストレートとは違って、私と会った頃と同じ。

「美佳、こっち向いて」

 私の言葉に、美佳はゆっくりと振り返った。その下唇は、赤い。

しかしそれが口紅のものでなく、口惜しさからか、自ら噛んで腫らした物だというのが、彼女の泣き顔を見てすぐに解った。

「吉田先生ね、やっぱり付き合えないって……」

「ん、聞いた」

 冷淡な言い方になってしまったと思う。でも、自分でもなんて声をかければいいか解らなかった。

優しく笑う事なんて、できはしなかった。笑えば、今度は私がけらけら女になってしまう。

「唇、冷やしてきなよ。結構、酷いよ」

「え、あ、そうかな。うん、行ってくる」

 美佳が私の横をすり抜ける辺りで、私が彼女の手を引くと、彼女は泣き顔のまま小さく笑った。

私か彼女か、どっちが言ったのかも解らない程に小さい声で、大丈夫、と、そう呟いた。

もうあの笑い声は聞こえてこないのだから。

「美佳、帰ってきてね。また、絵のモデルやってくれる?」

「うん、解った」

 きちんと謝るのは、もう少し後でも良いかな。今、謝ると、気持ちがぼやけてしまいそうだから。

 私が絵の準備をし終えた頃に、美佳は唇をハンカチで押さえて帰ってきた。

私の正面の椅子に座ってもらって、未だ描かれていない顔を描く事にする。

彼女の唇は、初めて会った時と同じで、もう口紅などしていない。

「可愛く描いてね、夏子」

 あれだけ泣いていたのに、そんなあっけらかんとした事を言うものだから、

思わず吹きだしてしまった。その後はもう、私も美佳も訳が解らなくなるほどに笑った。

 笑いながら私は、白い画用紙の中に居る美佳の唇のあたりに、鋭く削った鉛筆の先を乗せる。

描くのなら、この笑った顔が良い。






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