第5話
実は灰哭の襲撃以降、ノール村では夜の当番が組まれていた。
大げさなものではない。
日が沈んでから夜明けまで、二人一組で村の外れを見回る。それだけだ。
「どうせ何も出ねえよ」
「でも、何もしないよりマシだろ」
そんな程度の警戒だった。
レイがそこに加わったのも、自然な流れだ。
若者の数が足りず、村長に頼まれただけ。
「俺? 役に立たないと思うけどなあ」
「いいから来い。レイの冷静な判断が重要になるかもしれないだろ」
そう言われて、断る理由もなかった。
夜明け前。
空が白み始める直前、家畜小屋の前で異変は見つかった。
「……一頭、いねえぞ」
羊が一頭、消えていた。柵は立っている。鍵も、確かに掛かっている。
「壊されてないな」
「足跡も……外に向かってる?」
村人たちは顔を見合わせる。
「逃げたんじゃないか?」
「でも、鍵は……」
その場にしゃがみ込んだのは、レイだった。柵の下、地面を指でなぞる。
「逃げたんだと思うよ」
「え?」
「ただし、驚いて逃げた」
レイは静かに言った。
「ここ、柵の下が少し沈んでる。人が気づかない程度だけど、羊なら無理に体を押し込めば通れる」
「そんな無茶……」
「普通ならしない。でも、本能的に逃げるしか無い何かがあったら別じゃないかな」
足跡は乱れている。一方向へ走り出し、途中で跳ねるように消えていた。
「追われたってことか?」
「うん。しかも」
レイは立ち上がり、川の方を見た。
「音も匂いも、ほとんど残ってない。だから羊は、目に見えない何かに驚いた」
村人が唾を飲み込む。
「川の方だな……」
「川なら助かるだろ。魔物は渡らねえ」
「今回は渡る相手かもしれないよ?」
レイは立ち上がり、肩をすくめた。
「速いし、静か。逃げると余計に追ってくるタイプだね」
村人は冗談だと思ったが、その夜、答えは出た。
日が沈み、見回りが再開された頃。森の中から、低い音が響いた。誰かが言う。
「……鳴き声か?」
違う。鳴いていない。動いている音だ。
次の瞬間、見回りに出ていた男が走って戻ってきた。
「くそっ危ねぇ!追いかけられた!」
「灰哭か!?」
「違う!そんなんじゃねぇ。動きが速い!」
男は川へ逃げた。だが、水際に出た瞬間、背後の気配が消えたという。
「回り込まれたんだ……音もなく」
助かったのは偶然だ。別の組が松明を振り、火を向けたことで引いた。その場にいた全員が理解した。逃げたら、終わる。レイは頭をかきながら言った。
「ほら、言ったでしょ。厄介なやつだって」
「……じゃあ、どうすりゃいい」
「逃げないことかな」
間の抜けた言い方だが、空気は重い。
「一人にならない。散らばらない。夜は必ず視界が届く距離を保つ」
「それで勝てるのか?」
「勝つっていうか……生き残るって方向でいければ」
翌日、村全体で準備が始まった。柵を補強し、家屋の間に縄を張る。松明を増やし、火を絶やさないようにする。指示はレイから出たが、命令口調ではない。
「そこ、空けといた方が動きやすいよ」
「川沿いは、今日は使わないで」
不思議と、誰も逆らわなかった。
夕暮れ。森が静まり返る。現れたのは、人型に近い影だった。足が長く、跳ぶたび距離が縮む。
目はないのに、逃げる気配だけを正確に追う。
一人の若者が、反射的に後ずさった。
「はい、そこ止まって!」
レイの声が飛ぶ。若者は踏みとどまる。
魔物は進路を変え、別の方向へ跳んだ。
「……やっぱり逃げた人を狙ってるな」
レイは軽く言うが、村人の顔が引き締まる。
「だから散らばらない。追わせない」
「火を前に!」
「詰めすぎないで、間隔そのまま!」
村は一つの塊のように動いた。
魔物は何度も距離を詰めるが、決定打に届かない。しばらく睨み合いが続いたが、やがて森の奥へ引いた。完全には去らない。覚えたのだ、この村を。誰かがつぶやいた。
「……あれ、倒さないと終わらねえな」
レイは苦笑する。
「だよね。たぶん次は本気で来るよ」
「次は?」
「逃げ場を全部潰される」
その夜、ノール村は理解した。
これは個人の戦いじゃない。
村全体で討つしかない相手だ。
盤はもう、逃げ用じゃない。
迎え撃つ形に並べ替えられていた。




