第4話
灰哭の襲撃から、十日ほどが過ぎた。
ノール村は、表向きには平穏を取り戻している。
荒らされた畑は再び耕され、仮止めされていた橋の板も完全に補修された。村人たちは森に近づくことを意識的に避けながらも、朝になれば畑へ向かい、昼には川で洗濯をし、夕方には家々から炊事の匂いが漂う、以前と変わらぬ生活を営んでいる。
ただ一つだけ、決定的に違う点があった。夜になると、森が異様に静かなのだ。
虫の音が聞こえない。
鳥の鳴き声もない。
風が吹いても、葉擦れの音がどこか薄く、空気だけが冷たく流れていく。
それは恐怖を煽るほどの異変ではない。
だが、違和感として確実に積み重なっていく。
レイは、夜の川沿いを散歩しながら、その違和感を確信へと変えた。
「……やっぱり、いるな」
足を止め、川の流れと森の境界をじっと見つめる。直接的な気配はない。視線を感じることもない。だが、森の中が「空いている」。
動物の匂いがしない。鳴き声も、足音もない。
代わりに残っているのは、逃げた痕跡だけだった。
獣道は荒れ、踏み慣らされていたはずの土が乱れている。鹿や小動物の足跡は、村とは逆方向へ、まるで押し流されるように集中していた。
偶然ではない。何かが、森の中の生態系そのものを動かしている。
翌朝、レイはいつも通りの調子で村人たちに声をかけて回った。
「最近さ、森で獲物見た?」
畑仕事をしていた男が首を振る。
「いや、さっぱりだな」
「罠も外れてばっかりで、何も掛からん」
別の村人も眉をひそめる。
「森が静かすぎてな……逆に落ち着かん」
それで十分だった。疑いは、完全な確信へと変わる。
(アレは……もう村を見てる)
近づく準備をしている。下手に刺激すれば、一気に来る。レイはその足で村長の家を訪れた。
「森での狩り、人数を減らした方がいいかも」
村長は意外そうに眉を上げる。
「減らす、とな?」
「うん。今はアレを刺激しない方がいいと思うんだ」
理由は深く説明しなかった。必要ないと判断したからだ。村長はしばらく考え込み、やがて静かにうなずく。
「わかった。若い者には、しばらく畑仕事を優先させよう」
この村の強みは、すでにレイを信じる土壌ができていることだった。
その夜、異変が起きた。狩りに出ていた男が、日が暮れても戻らない。村は一気にざわつき、松明が用意される。
「探しに行くぞ」
「放っておけるか」
その中で、レイが軽い調子で口を挟んだ。
「探しに行くなら、三人までだよー」
「なぜだ?」
即座に問い返される。
「人数が増えると、逆に目立つからね。変なのに見つかるよ?」
不安げな沈黙が流れる。だが、その言葉に従った。結果、男は無事に戻ってきた。森の手前で、何かを見て引き返しただけだという。
「灰哭じゃなかった……でも、人の形をしてた」
その一言で、空気が凍りついた。レイは、はっきりと理解する。次に来るのは、同じ手が通じない相手だと。だが、まだ動かない。今は、待つべきだ。
村の外れでは、子どもたちが川に石を投げて遊んでいる。水面に跳ねる石を眺めながら、レイは頭の中で配置を整えていく。
村の地形。川、橋、森、家屋の間隔、逃げ道と、塞げる道。
駒は揃いつつある。備えあれば憂いなしだが、今は並べるだけでいい。夜、レイは一人、静かに呟く。
「……今回は、守る側か」
小さく息を吐く。過去を思い出すほどではない。
ただ、同じ失敗は繰り返さない、それだけだ。
森の奥で、何かが動いた。レイは目を細めるだけで、剣を取らない。
この盤は、まだ一手目ではない。




