第37話
意識が沈む。落下ではない。
重力すら存在しない、静かな沈降。
音も、温度も、境界も失われ、
ただ“記憶”だけが三人を包み込んでいく。
やがて、光。白い。どこまでも白い。それは色ではなく、意味を持たない純粋な光だった。
空間の果ては見えない。天井は空より高く、柱は雲のように輪郭を曖昧にし、床には無数の魔法陣が幾層にも重なり、ゆっくりと脈動している。
祈りの中心。
信仰の極点。
そして、裁きの場所。エルドが低く呟く。
「……ルミナリアの神殿核か」
セインは言葉を失ったまま、ただ中央を見つめていた。そこに、ひとりの青年が立っている。年若い。二十にも満たないように見える。
だが、その背に宿る気配は、王でも英雄でもない。世界そのものを背負う者の重さ。
黒髪。白い法衣。整いすぎた静かな顔立ち。
そして何より感情の温度が、極端に低い瞳。
セインの喉が鳴る。
「あれが……レイ?」
エルドは首を横に振る。
「間違いではないが、あれはレイの前世“アルト”だ」
前世の名。信の国ルミナリアの頂点。神に最も近かった男。
アルトの前には、数百人の民が跪いていた。
病で骨の浮いた子ども。
片腕を失った兵士。
家族を亡くした母親。
老いで歩けぬ老人。
誰もが同じ言葉を口にする。
「救ってください」
その声は、祈りというより懇願だった。アルトはすぐには答えない。一人一人を、まるで数を数えるように、静かに見渡していく。
その瞳には確かに憐れみがあった。だが同時に、
冷徹な計算もあった。やがて彼は右手を上げる。
空間が静かに歪む。幾何学模様の光が展開し、世界の法則そのものを書き換える超高位術式が完成していく。空気が震え、魔力が層を成し、時間すら遅くなる。
そして
「《エクリプス・アルカナム》テュシア・ソーテリア(救済)」
光が、降りた。奇跡だった。
腐った肉は再生し、砕けた骨は繋がり、病は痕跡すら残さず消える。老いた老人の背が伸び、子どもの顔に血色が戻り、兵士の失った腕が再び生える。
歓喜。
絶叫。
涙。
神を讃える声。
セインは思わず呟く。
「信じられん。これが魔法なのか?本当に、救ってる」
その瞬間、エルドが低く言った。
「……後ろを見ろ」
光の届かなかった場所。
そこにいた数人が、静かに崩れ落ちていた。呼吸はない。鼓動もない。代わりに死んだ者たち。
アルトは一度も振り返らなかった。
「エクリプス・アルカナムはね。犠牲を前提とした魔法なんだ。だから歴史から抹消された。倒れた人達を代償に発動したんだ」
レイは苦々しい顔で呟く。小を切り捨てれば大は助かる、そんな考えだった。
「そうだったのか。だが、今もアレを使っているだろう?何を代償にしている?」
「俺の命だよ」
レイは当然と言った様子で答えた。それで自分の罪が消えるとは思っていないが、そこに行き着いたのは自然だった。
セインはレイの答えから覚悟を感じ取っていた。
場面が切り替わる。
燃える都市。黒煙に覆われた空。無数の魔物。
最前線に立つアルト。背後には味方の軍。
だが兵士たちは、敵よりも、アルトを恐れていた。彼は静かに言う。
「このまま防衛を続ければ三日で死者は十万を超える」
誰も口を挟めない。
「だが一点突破なら三千で済む」
沈黙。兵士の一人が震えながら言う。
「その地点には、避難できていない民が……」
アルトは答える。
「知っている。それでも実行する《テオス・アポロシス》神罰」
世界が見えなくなる程の光。都市の一角ごと、消滅した。
「書物で読んだことがある……これは……モンスターパンデミックか……!」
セインは驚愕した。歴史書でしか読んだ事の無い史実が目の前で起きていた。その中心にレイがいた事も驚きだ。
「実際に目の当たりにするととんでもねえな。魔物の数もそうだが、状況の判断もえげつねえ。それに規模の魔法だ。今じゃ考えられねえ」
エルドも話には聞いていたものの、実際に目の前に広がる惨状に呆然とする。
レイはただ静かに、目の前にいる前世の自分に目を向けていた。
次の光景。
静かな玉座の間。アルトの前に立つ、ひとりの女性。長い銀髪。強い瞳。泣くのを堪えた顔。
レイが、アルトが唯一愛した女性。
彼女は震える声で言う。
「もうやめて……」
アルトは黙っている。
「これ以上は救いじゃない……ただ壊してるだけ……!」
長い、長い沈黙。やがてアルトは言う。
「セラ……壊れているから正すんだ」
セラの感情が決壊する。
「人を捨てて守る世界に意味なんてない!!」
再び沈黙。
そして、アルトはとても優しく微笑んだ。
救う者の顔で。愛する者を見る顔で。
「ごめん。《パリンゲネシア》世界再誕」
その一言で。すべてが終わった。
世界の崩壊と再構築。
空が裂ける。
大地が軋む。
魔力が暴走する。
禁忌の完成形。
セラは泣きながら叫ぶ。
「どうして……!」
アルトは静かに答える。
「君には、平和な世界を生きてほしいからだ」
光が、世界を呑み込んだ。
映像は消え、意識が現在へ戻ってきた。
焚き火、夜、風の音、長い沈黙。
セインの声が震える。
「……これが……お前の過去か」
レイは俯いたまま答える。
「……うん」
小さく、消えそうな声で。
「……これが、俺の罪。もっと色々見てほしいんだけど、これ以上は俺の体に負担がかかり過ぎるから限界なんだ。ごめんね。とりあえず俺がどんな考えで、どんな選択をしてきたのかわかったでしょ?」
セインは黙ったまま頷く。エルドは考え込むように腕を組み、目を瞑っていた。
夜はどんどん更けていった。




