産声
声を上げて泣きたい。
ただ、こどものように。
大人の汚さに振り回されながら、心を削るように育ってきた。大人になんてなりたくないと誓いのように願う一方で、クラスメイトや友人と理解し合えない孤独を感じていた。反抗心や強い仲間意識、思春期特有のその歪みさえも真っ直ぐで。希望や夢を捨てない彼らの考え方は、もう僕には手が届かなくて。諦めと妥協の先にある及第点ばかりを求める自分はひどく醜くかった。
「お前はお前だろ」
シンプルで、ありふれた言葉だと思う。放課後、日誌を書く彼とそれをただ眺めるだけの僕。二人きりの特進3A。僕らの教室で向かい合う二人の間に落ちたなんてことない会話のなんてことのない彼の言葉。
「きみは変わらないね」
頭が良くて、群れるタイプではなく、実力を伴った自信家。真面目で、真っ直ぐで、強い意志を持つ彼という人。
僕の、親友。
「お前はいつまで経っても捉えどころが無いよ」
呆れたように、こちらを見もしない声は、どこか僕を責めるような響きを持つ。聞き慣れたその声の変わらなさに小さく笑った。
「親友なのに?」
「親友だろうが家族だろうが、全部まとめて理解出来る訳じゃないだろ。考えが近いからと言って分かり合えるかというと、そうでもないしな」
クラスメイトだけでなく先生まで、彼を大人びたと表現する。大人に近くて、でも大人ではないからこそ、彼の言葉はこんなに美しく真っ直ぐ響くというのに。
「きみが、いつまでも変わらなきゃよかったなぁ」
神様、どうか。
なんて、いもしない神様に祈っている。叶いもしない永遠を、求めて、縋っている。
「勝手な奴。俺がお前と同等ではないから、俺から離れていくくせに」
書き終えた日誌から視線を上げ、こちらを見る彼と目を合わせる。睨む視線も、苛立ち混じりの言葉も、全てが正しい。
「きっといつか、これが正解だったんだってきみも気付く日がくるよ」
思春期にありがちな勘違い。僕らは長い人生のたった三年、親友という特別な距離を測り損ねた。手を重ね合って感じる、互いの暖かさに甘えすぎた。
「…、そうだな」
大人びた、ひと。折れる言葉の一方で、これっぽちも納得なんてしていない顔で僕の手を取る、ちぐはぐな僕の親友。
「平行線だな。もう、ずっと」
掴まれた手の温もりを手放したくないと思っている。でも、大人になってしまうきみの事を嫌いになりたくない。人生は揺らぐ意思を捨てる選択の連続なのだと思う。捨てて、削って、埋めて。そうしてなるべく平らな道を作って歩いていく。
「混じりあえないからこそ、きみを好きになったんだよ」
きみに近づいて、僕はきみになりたかった。太陽のように眩しいきみに触れて、その結果燃やし尽くされるだけの未来があるなら、それでもいいとさえ思っていた。
「どうしたらいいのか、わからなくなっちゃったなぁ…」
彼と手をつなぎたい。抱きしめあって、存在しない永遠を誰でもない互いに誓い合いたい。欲望は汚い。間違ってる。全部、理解できる。大丈夫、わかっている。
「お前が好きだよ」
彼の言葉はいつも力強くて、誰かを救うような真っ直ぐさと、人を思う暖かさがあった。
「…あ、」
あまりに都合よく、部活動生以外に下校を促すチャイムが鳴る。二人きりの教室に響く大きな音に、思わず目を合わせた。
「帰らなきゃ」
テキストを読み上げるマシーンのような、平坦で感情のない自分の声に驚く。こんなに嘘が下手な人間ではなかった。彼に触れて、いつの間にか失っていた僕を、僕はもう取り戻すことも出来ない。きみに触れた時から、何かを失うことは覚悟した筈だった。それでも、彼との思い出が欲しかった。
「かえろう」
もう一度、言い聞かせるように、言葉を落とす。立ち上がって、こちらをじっと見る彼の手をそっと解いた。
「…下手くそ」
「ひどいなぁ」
彼の瞳から溢れる涙は美しくて、それを拭う乱雑な彼の手はきっと暖かい。
「お前が…声を上げて泣いてしまえるほど、子供ならよかったのに」
彼の透き通った視界は、時に多くを見透かしてしまう。素直な視線がこれ以上汚れたものを見てしまわないように、そっと目を逸らした。
「うん、…うん」
胸から込み上げてくる愛おしさや、欲を、息を止めるように飲み込む。僕はただ頷いて、彼は瞬きと共にまた一つ、涙をこぼした。
電気を消して、鍵を閉める。僕らは並んで教室を出た。他学科から隔離されるようにある特進棟は喧騒から程遠く、腕一つ分距離のある、二人の間を埋めるものは何も無い。
僕は余計な事を言ってしまいたくなくて、何も言わなかった。俯いて、いつの間にか合わせることが当たり前になっていた二人の歩幅を見ていた。一度見上げた先の彼は、真っ直ぐ前を見ていた。何も言わず、もう彼は泣いてもいなかった。
彼らしいと、思う。真っ直ぐで、美しく。歪みさえない彼と、俯いて泣くこともできない僕。
変わりたかった。
変わらないで、いてほしかった。
別れがすぐそこにある冬の終わり、きみは少しだけ早く大人になった。