煩い
「ごだづばづげでおぎずがら」
そう言って、案内を終えた主人は引き上げていった。
館内を巡る熱も廊下まで、客室に入るなり雪山の寒さが身に沁みた。江戸時代から使われている建物だけあって暖房のたぐいはこたつが置いてある程度、外から吹雪く風がそのままに部屋に入り込んでくる。
たまらずに、暖を取るためにもまずは温泉と部屋を出る。しかし戸を閉めようにも鉄製の古びた鍵の掛け口と差し口が噛み合わず、何度も試行錯誤した。宿がボロいのには慣れているつもりだったが、鍵をかけることすらままならないとは。
と、足音が近づいてくる。振り向けば、そこには浴衣に半纏着の女がいた。亜麻色の髪、ほっそりとした頬、切れ長の瞳。幸が薄そうに見えるものの、和風な美人と言ってよかった。もっとも、女など私には縁遠い存在なのだが。
慌てて視線を前に向けるも、「こんにちは」と声をかけられる。
「こんにちはっ」私は慌てて言い返すが、バカに声量がでかい。
見ると、女の目は見開かれていた。きっと私のことを気味悪がっているのだと全身に悪寒が走る。
ガチャガチャと、焦ることで金属音は自分の耳にもうるさくなる。その時にはもう恐ろしくなり、女のことを視界に入れることはできなくなっていた。やっとのことで鍵をかけ終えると汗が噴き出ている。ただ鍵をかけるというだけのことで一気に疲れてしまった。
気味の悪い男だと思われてしまっただろうか。
既に女の姿は消えていたが、私は何か悪いことをした気になっていた。せっかく世間から逃れてこんな所まで逃れてきたというのに、煩いができてしまうのは困ったことだった。