三日三廻り
凍えるような思いをしながら木戸を開けると、館内から温かな湿気が溢れてきた。
足を踏み入れると広々とした玄関口があり、囲炉裏を中心として獣の剥製、古代の土器、戦国時代の武具、皇族のスキー板と、てんでバラバラな物という物の出迎えが待っている。
黒ずんだ木造の屋敷は外からだと廃墟のようにも見えたが、中に入れば梁が組まれた高い天井も立派な物で、磨き抜かれた廊下は黒光りしている。
従業員を探して視線をさまよわせていると、時代がかった一枚のモノクロ写真が目に入った。映っているのは若く切れ長の目をしたちょんまげ姿の男で、額縁の端には宿の創業者であると説明書きが添えられている。江戸時代も末期の写真のようだが、この古ぼけた屋敷には男が今もまだ存在しているような気がした。
と、どこからか足音が聞こえてくる。
「ようごぞおごじぐだざいまじだ。ごぐろうざまでず」
声の主を振返ると、薄汚れた半纏を羽織ったこの宿の主人だろう男がいた。主人の声は低く嗄れ、その奇怪な声を発する体の内は、この宿と同じく複雑に捩じくれているのではないかと思わされる。
「でばざっぞぐがんだいをごあんだいじまず」
全てが濁音に聞こえる、こんな方言はあっただろうか。単に滑舌が悪いだけなのかもしれないが、ひどいダミ声だった。
それにしても、暖房設備は見当たらないのになぜ暖かいのか? この湿気はどこから来るのか?
謎はすぐに解けた。廊下沿いの側溝に温泉が流れていて、湧き上がる蒸気が館内を温めているのだ。宿そのものが温泉と言っていいのかもしれない。
「じずいばざればずよね」
「……ええ、自炊します」
「でばじずいばをごあんだいじばじょう」
木造の屋敷に隣接されたプレハブの殺風景な自炊場では、蛇口という蛇口から水が流れっぱなしになっていた。
「げっじでじゃぐじをじめないでぐだざい。ごおっじゃいばずがら」
貼り紙には、一度凍ると春先まで溶けないと注意書きがされている。凍結を防ぐための措置とはいえもったいない気もするが、おそらく自然に流れている水をそのままに利用しているのだろう。
見た目こそ年季が入っているものの、ガスコンロ、食器、調味料と一通りの設備は整っていて安心した。
私は三日三廻り十日の湯治を予定していたのだ。もちろん、その前に姿を消してしまえればなおよかったが。