風変わりな温泉旅館
鄙びた宿が好きだ。時代を感じさせる黒ずんだ壁が、乾燥した木の香りが、そこから見える侘しい風景が、私のような何の取り柄もない人間でも、ここに居ていいのだと安心感を抱かせてくれる。
だからバスが山中に入るにつれ雪の壁に覆われていくと、自然と心は落ち着いていった。灰色の雲に蓋をされた空の下、日中だというのにまるで陽の射さない寒々とした情景は、まさに私の求めているものだった。
しかし興に入っていられるのは安全な車中にいる間だけだ。外へ出ると歩道には腰までの高さに雪が降り積もっている。人の気配は感じられず、処女雪と言うのか純白の地面には足跡も見られない。
既に電波も通っておらず、HPで目にした記憶を頼りに歩道へと身を乗り出す。一歩足を踏み出すごとに膝までが雪に埋まり、スニーカーの中が濡れていく。早速足下は水浸しとなったが、雪が積もっている所はまだよかった。除雪された道に出ると、薄皮一枚の氷が張られていて転びそうになるのだ。ただ温泉に入るためだけに、なぜこのような苦労をしなければならないのか。
一歩一歩、滑らないように祈るような気持ちで歩を進めていくと、やがて薄暗い灯りを点したその宿、いかづち温泉旅館は姿を現した。
木造の屋敷。モダンな洋館。レトロなホテル。まるで異質な建造物が廊下を通じて継ぎ接ぎのように組み合わされた奇抜な意匠は、見るなり時空に捻れを生じさせ、頭が軋む。
と同時に、期待は高まっていた。ここになら、なるかみの湯を見出すことができるかもしれない。