忠臣蔵の吉良家はなぜ高家筆頭?(前偏) - なぜか偉そうな悪役にされている吉良って何が偉いの??
もうすぐ12月14日、、
忠臣蔵の日ですが…
(・.・;)
なぜか悪役の吉良上野介…
ではなく吉良家に注目してみます。
「フナじゃフナじゃ、、
フナ侍じゃぁ、(。-∀-)」
「おのれ吉良!!(; `д´)
この恥辱はらさいでか!!」
「殿中でござる、(ノ ゜Д゜)ノ
浅野殿、殿中でござるぞ!」
たぶん殆どの人が知ってる、
ものすごく有名な時代劇か
歌舞伎の一幕です。。
忠臣蔵。('ω')
赤穂浅野家浪士47名が、
家老の大石内蔵助を頭に
主君の仇である吉良上野介を
討ち取るって武士道に則る
美談でありますが、
ちょっと待て。
( ゜c゜)
そもそも吉良はなぜ悪役??
からかったのはウソだという
のが定説なのに。(・n・;)
今時のマスコミより強引に
悪役をでっちあげてるぞ。。
いきなり斬りつけられて、
助かったと思ったらその翌年
47人に屋敷を襲われて殺害
された被害者、、
なのに死後にお家断絶って
沙汰を受けた可哀想な人。。
それで原因を探ってみるため
ます状況を整理すると、、
まず吉良家とは?(・n・;)
家名はけっこう有名ですが、
どんな活躍をしたのかは
ほとんど知られていません。
最終的な所領も4200石です。
たぶん最盛期でも1万石には
届いてないはずです。。
対して浅野家は?(・c・;)
かなり有名と思います。
中興の祖として有名な、
浅野長政は五奉行筆頭です。
豊臣秀吉の義兄です。
関ヶ原のキーマンです。
浅野本家は安芸42万石です。
つまり浅野本家の所領は、
吉良家の100倍です。(・・;)
浅野内匠頭はその分家で、
赤穂5万石の大名です。
分家でも吉良の12倍です。
では…(/・ω・)/
なぜ吉良が浅野より格上の
振る舞いだったのか??
それは吉良家が高家だから。
しかも高家の筆頭だからです。
では…高家とは何??
(/・ω・)/
なぜ吉良家が高家筆頭??
前置きが長くなりましたが今回
これをテーマに書いてみます。
なぜなら12月14日が忠臣蔵の
クライマックスだからです。
その日に後編を上げる予定に
してるからです。
(たぶん間に合います。。)
ではまず…高家とは??
(・n・;)
そも江戸時代は言わずと知れた
身分社会です。。
その社会で秩序を保つには、
徳川将軍家は圧倒的な身分で
あらねばなりません。
武力だけではダメです。
他の実力者よりも正当性を以て
身分が高いといえなければ、
上手くいかなかったそうです。
だから江戸幕府は…
徳川家は高い家柄なのだ!
だから偉いのだぁ!
٩( ''ω'' )و
とか言いだしたんです。
(。-∀-)
けど当然、、
そんなバカボンみたいな戯言
誰も受け入れません。(;^ω^)
なんで徳川だけ偉いねん!?
(=゜ω゜)ノ
ってなっちゃいます。
だから幕府は…
徳川と同じくらい高い家柄を
他にも作ったんです。('ω')
それが高家です。
では高家に相応しい家とは
どういうのかというと、、、
まず…実力がないこと。(・c・)
謀反を起こせる石高を持つ
大大名にそんな偉そな肩書を
与えたら危ないから。
次に名門の血筋であること。
源氏・平氏・藤原氏の流れをくむ
名家が相応しいでしょう。
あとできれば室町戦国時期に
有名だったこと。。
やっぱ知名度は大事だから。
それらの条件を満たして高家に
選ばれたのが、、
今川・武田・織田・大友・上杉・最上
京極・六角・畠山・土岐・一色など…
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
もの凄い家名ゾロゾロです。。
(≧V≦)
戦国時代のオールスター級の
豪華ラインナップです。。
けど…その殆どが戦国時代に
一度は滅びたか没落した経験を
持つお家柄。。(´・ω・)
江戸前期時点の石高でいえば
どこも5000石前後、、
名前はあるけど実力はない。
となるとなにかしら…(・n・)
家柄の低い田舎大名とは違う
ってとこを見せなければ
世間に認めてはもらえません。
そこで幕府は高家の人たちに、
朝廷や公家との折衝役に、、
窓口担当に任じたんです。
(*'ω'*)
だって有名なご先祖を持つ
彼らは、公家との付き合いを
絶やしてはなかったから。。
朝廷の儀礼にだってそこいらの
田舎大名よりは詳しいから。
だから幕府は彼らに高家という
正当性を与えて仕事として
朝廷公家とつき合わせました。
ではなぜ…(・n・;)
今川や武田や織田などといった
ビッグネームが並ぶ中で、
吉良家が高家の筆頭なのか??
それは吉良家が前将軍家、
足利家の分家だから。(・ω・)
それも極めて稀で特異な…
足利本家と同格であるなど
特別な立場が約束されている
非常識特別格の分家だから。
足利本家が滅びた条件下では
本家代役最有力だからです。
ではなぜ…(/・ω・)/
そんな極めて特異な約束が
吉良家にはなされていたと
いうのでしょう???
理由は…(・.・;)
平安時代末に遡ります。
八幡太郎こと源氏の頭領、
源義家は色々あって、
関東地方の実質的な統治権を
獲得しました。
その詳細を語ると長くなる
ので大雑把に言うと…(ーωー)
当時の関東地方は浅間山の
噴火によって壊滅的な被害を
受けていたんです。。
それで源義家は朝廷からそこ
復興させたら治めていいよ、
みたいなこと言われたんです。
こうして義家の息子や家人が
関東各地に派遣されて、
土着して再興を始めました。
その中でも優秀だった一人が
義家の三男、源義国。('ω')
まず義国は下野国足利荘、、
現在の栃木県足利市あたりを
再開発して領地にしました。
そして足利荘を息子の義康に
任せると、自身は息子の義重と
ともに仁田荘(現在の群馬県)を
復興して領地にします。
新田開発も同然だったので
仁田荘は読み方はそのままに
「新田荘」に改まりました。
こうして義国の死後…
長男の義重が新田氏を名乗り、
次男の義康は足利氏になります。
その後に色々あって…(・∀・)
詳しく語ってると何話あっても
足りないから割愛して、、
義家の孫の孫にあたる源頼朝が
征夷大将軍になって鎌倉幕府って
のを開きました。(/・ω・)/
そして源氏の血筋で頼朝の遠縁
でもある足利家はその有力な
御家人って立場になりました。
新田家もそうなりましたが、
ちょっと失敗して足利ほどの
立場は得られませんでした。。
そしてやがて源頼朝が死ぬと、
御家人同士による主導権争いが
始まっちゃいました。。(ーvー;)
詳しくは鎌倉殿の13人などを
参照ってことで結果……
北条家が勝って主導権を確保。
執権になりました。٩( 'ω')و
とりあえず北条が勝った、
ってことだけはっきりできれば
その後の話に支障ないので……
幸か不幸は鎌倉から遠い下野国に
領地があった足利はその争いには
巻き込まれなかったのですが…
争いの中で比企とか和田とかの
有力な御家人が次々と倒れたんで
気が付けばあれれ??^_^
足利家は北条家に次ぐ実質的な
No.2の立ち位置に??(;・∀・)
つまり北条が次に警戒すると
すれば足利ってことになる。。
このまま何もしなければ北条は
足利を倒しに来るかも…
(;゜Д゜;)
そう考えた足利義氏
(義康の孫でその時の当主)
は策を案じます。。
それは北条と縁戚になること。
(*'ω'*)
たまたまその頃に義氏の次男、
泰氏が若くして妻を亡くしたんで
後妻を募っていたところ。。
そこで…(๑╹ω╹๑ )
その後妻を北条家から迎える
ことにしたんです。。
策は成功して足利家と北条家は
縁戚関係になりました。(^o^)ノ
足利泰氏は北条から一門同然に
可愛がられました。(^^)
そこまではよかったけど…
(・n・;)
なんと北条は足利に、、
義氏を隠居させ泰氏に家督を
譲るよう迫ったんです。。
(´゜N゜`;)
義氏は既にその時40代半ば、、
当時としては息子に家督を譲る
年齢としては遅いくらい。
自分が隠居すること自体には
納得したのですが、、、
納得いかないのが義氏の長男、
足利長氏。(; ・`n・´)
だって30歳手前の長氏にすれば
いつ家督が譲られるのかって
待ち焦がれていた立場、、
それが…(´゜д゜`)
嫡男の自分が継ぐはずだった
家督がなぜ弟に転がる???
…それはごもっとも…(/ω・\)
長氏の言い分には北条も納得。
そこで長氏には三河国吉良荘
(現愛知県西尾市)を与え、
分家として独立させました。
まではいいんですが…
ただの分家じゃイヤ!!
(; ・`C・´)ノ
長氏はゴネました。。
そこでその分家には超特別な
特権が約束されたんです。
たとえば、
足利本家とは同格だとか…
足利に跡取りがいなければ
まずこの分家から連れてくる
とかその他諸々、、
こうしてなんとかかんとか
長氏を得心させて超特別格の
凄い分家ができました。。
そう、これが…
吉良家の発祥なんです。
('ω')
だから吉良家は特別。
足利家の分家の中でダントツ
の家格ってわけです。
けどでは…(・.・;)
そんなお偉い吉良様がなぜ
歴史上全くと言っていいほど
目立つ活躍がなかったか、、
他の足利家の分家、
細川・畠山・斯波・一色・土岐…
さらには吉良の分家でもある
今川よりも目立たない存在で
あり続けたのか、、
('ω')
は、前半が終わる…
ではなくて、
後半に続くです。。
(^ω^)
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というわけです。
(・.・;)
だから吉良家は偉いんですが…
ではなぜ大した活躍のないまま
終わってしまったのか、、
後編は12月14日掲載です。
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