②
【3】
両親が亡くなったのは、“J”が中学一年生の時だった。
経営していた小さな会社が行き詰まり、借金を清算するためだったと無責任な他人の噂で知らされた。
財産と呼べるものは何一つとして残らなかったが、負債もまた保険金を合わせて相殺することができたという。
幸か不幸か、と幾度も耳にしたが、両親の死以上の不幸があるのだろうか。
五歳上の姉は当時高校三年生で、大学進学を諦めて就職した。
自宅さえ奪われた、頼る身内もいない弟と二人の生活を支えるために。十代の子ども二人に貸し渋る大家に頼み込み、どうにか得た住処は二つ部屋がある、というだけの老朽化著しい2Kアパートだった。
姉が働いて生活費を稼ぎ、“J”は学校に行く傍ら家事を一手に引き受けていた。
無償化の恩恵を受けて、最小の負担で高校に進学してからはアルバイトも始めた。もちろん家事もすべて担う状況に変わりはなかった。
フルタイムで残業もこなす姉には、家ではとにかく休んで欲しかったからだ。
「俺も高校出たら就職する。姉ちゃんにこれ以上迷惑掛けられないよ」
「あなたは大学に行きなさい。高卒が駄目だとは思わないけど、世の中は綺麗ごとだけじゃ済まないの」
配られた進路希望調査を見せながら、それが当然だと思って申し出た弟に、姉は静かに言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「いや、だけどさ──」
「ねえ、仁。わたしは大学に行きたかった。だから代わりに夢を叶えて欲しいわ。……お願いよ」
さらに言葉を返そうとした“J”に、姉が薄っすらと微笑んで続けた台詞。
それ以上は何も言えなかった。
成績の良かった姉が、両親の死の前は夜遅くまで受験勉強に励んでいたことも、“J”はよく知っていたからだ。
学費の安い大学に、さらに給付奨学金を得て通った四年間。
それ以上の持ち出しはなかったため、アルバイトの収入はすべて生活費に回すことができた。奨学生の要件を満たすために成績は維持しなければならなかったが、もともと勉強は好きなのだ。
少なくとも“J”が高校を卒業するまでの五年もの間、姉は同年代の女性が気楽に遊ぶ姿を横目に無心で働いていた。「親がいない高卒女性」ということで、侮られることも少なくなかったようだ。
しかし姉は、決して弟に負の面を気取らせることはなかった。家では疲れた顔は見せても、常に優しく穏やかな姿勢を崩さなかった彼女。
庇護の対象だった弟が大学に入学したことで、姉もようやく一息付けたのだろうか。
心に余裕ができたためもあるのか、彼女は職場の同僚を介して知り合った男と交際を始めた。
最初は正直不安もあった。
条件で言えばこの上なく悪い姉と、どういうつもりで付き合っているのか。
その場限りの遊び相手にされているのでは、と口出しはできないものの気を揉んでいた。
それでも姉は“J”の目にも幸せそうだった。初めての恋人。
好きな相手くらいはいたのかもしれないが、姉の最優先は常に被扶養者としての弟だった。それをずっと申し訳なく思っていた。でももう彼女は自由だ。
河野は同性から見て「いい男」だとはまったく感じなかったが、姉が選んだ、姉の愛する人に、たかが弟がケチをつけることなどできない。
もしかしたら自分だけのものだった姉を取られることへの、子どもじみた嫉妬なのかもしれない、と冷静に分析もした。
だからこそ「彼と結婚する」と笑顔で告げられた時には、姉もようやく幸せになれると手放しで喜んだものだ。
河野は雇用も収入も安定しないため、姉は結婚後も仕事を続けていた。
両親亡きあと金のために苦労を重ねた経験もあり、もともと仕事を辞するつもりはなかったらしい。
「もし蓮太郎さんに何かあっても、わたしが働いてたらリスクも最小限で済むでしょ。今元気だって明日にはどうなるかわからないんだから。結婚したら運命共同体だもの。ただ守られるだけでは居たくないの」
自分を守り育てるために「青春」を犠牲にして、それでもなお今度は夫を、……新しい家族を守りたい、と笑った姉。
「わたしと結婚したら、蓮太郎さんは仁にとっても『お兄さん』になるんだし、──子どもが生まれたらあなたにも血の繋がった『家族』が増えるのよ」
すごくない? 世界にわたしとあなたのたった二人しかしかいなかったのに。減るばかりだったのが増えるんだから!
上気した頬で、朗らかに語る彼女の全身から幸せが溢れていた。輝くばかりだった在りし日の姉が脳裏に蘇る。
この世で唯一の血縁者。誰よりも尊敬していた、大切で愛していた存在を踏みにじった二人を許す気はなかった。
もう単なる物体に成り果てた河野を、パーテ-ションをずらしてこちら側のスペースへ引き摺り出す。
綾のコーヒーに入れたのと同じ毒物を与えられた遺体。……両親が「心中」に用いた、自社で扱っていた劇薬の残りを掠めて隠していたものだ。
あり得ないほどに運がよければ、ノイローゼ状態の女が元不倫相手を殺して後を追ったと判断されるだろう。
しかし、己の罪が露見すること自体は一向に構わなかった。
憎しみの対象を纏めて葬り去ったのだから。小細工を弄して逃れようとは露ほども考えていない。
犯罪者として捕らわれても、悲しませる人間などもういない。最後の家族だった姉がいなくなったあの日から。
姉にだけは知られたくないと、今この瞬間にも思っている。清廉だった彼女には、弟が人を殺めたなどというおぞましい事実は。
しかし言い換えれば、姉にさえ知られなければ何も怖いものはなかった。
大学卒業間際に、なんの前触れもなく飛び込んできた訃報。
悩み苦しんでいたことさえ知らなかった。若いだけの中身のない女と過ちを犯した夫など、切り捨てて戻って来て欲しかった。本当に辛い時こそ、弟に思いの丈をぶつけてくれればよかったのに。
自分を責めて、あのままならあとを追っていたかもしれない。
十八歳でいきなり弟を守る立場を強要された姉が、ようやく見つけた頼れる相手との家庭。
その足元が揺らいだことで、糸が切れてしまったのだろうか。
通夜と告別式の準備で訪れた姉の自宅で彼女が自分に遺したメモ、……“J”にとっては「遺書」を見つけた。
河野が興味も示さなかった彼女のスマートフォンから二人の所業を知る。
どうにか生きる気力を取り戻したのは、告別式で綾に会って姉を死に追いやった二人を断罪すると決めたときだった。
卒業はしたものの、直前の不義理は承知で決まっていた就職は辞退した。アルバイトで日銭を稼ぎ、同時に河野と綾の身辺を探る。『計画』を練るために、材料は少しでも多いほうがいい。
そうして時は満ちた。
大学近くの雑居ビルの一室を借り、学生の間に『占いの館』の噂を流す。
そして日中は綾を監視する。大学でも、学外でも、本人が認識できる程度に周囲を付かず離れず彷徨いて。
占い師“J”、──仁がしたことはただそれだけだ。
まだ大学を卒業して二年目の“J”は、野暮ったい眼鏡と没個性的な白シャツとデニムを身にまとえば数多の学生の中に埋没できる。
顔立ちは不格好な太い黒縁の伊達眼鏡にマスクで半ば隠れるし、身長や体格も一目で印象に残るほどの特徴もない。
それが幸いでもあった。
実際にこの女を監視するために、大学構内どころか講義室にまで知らぬ顔で入り込んではいたが、ただの一度も警備員なり保安員に止められたこともない。
頭も尻も軽い綾が、怪しい占いに飛びつくことは想定内だった。
後ろめたいことしかない身で警察になど行けるわけもない。叱られるのがわかっていて親に泣きつく度胸もない。
調べた限りでは、親は綾を溺愛はしていても最低限の常識は持ち合わせているようだった。娘とは違って。「不倫」を黙って看過するとは思えない。
だからこそ、愚かな綾は結局その場しのぎに縋るものを求めるだろうと見当をつけたのだ。その読みは外れていなかった。
【Epilogue】
唯一の望みが叶ったのだから、あとはどうなろうと逃げも隠れもしない。
自暴自棄ではなく、冷静にそう思う。
もう、生にしがみつく意味はなくなったのだ。
この二人が姉と『会う』ことだけはないように。それが今の“J”の最大の懸案事項だと言っても過言ではない。
現世を離れてまで、大切な人を苦しめたくはなかった。「あの世」などあり得ないとしても、僅かな可能性さえ排除したいほどに、ただそれだけが気掛かりだった。
そう、会うとすれば仁とだ。罪を犯したもの同士、辿り着く先はきっと同じ。
河野と綾と次に顔を合わせたら、仁はまた言うだろう。「やあ、久しぶりだね」と。
……何度地獄に落ちてもいい。
“J”、──Judge。裁きは、終わった。
~END~