①
【Prologue】
──大学の大講義室。
後方の跳ね上げ式の椅子に腰掛けて、男はただ前を見つめている。
白いシャツに濃色デニム、顔の幅に合わない大きな黒縁の眼鏡にマスクで表情は窺えない。
ごく普通の学生にしか見えないスタイルで、無言のままただ前だけを。
【1】
「なんか最近視線感じるんだよね、あたし。見張られてるっていうかあ」
「何それ? 気のせいじゃないの? あんた、そこまで気配とかに鋭くないでしょ」
気味悪げに切り出した女に掛けられた、隣席に座る女子学生の興味もなさそうな声。
「違うわ! 帰り道とか尾けられてるような感じもするし、……今も見られてる、みたいな」
「今、って。綾、それこそ気にし過ぎじゃない? こっち見てても別にあんたが目的とは限らないよ? 大教室だし前向いてるだけでしょ」
講義開始前で、そこかしこで雑談が繰り広げられているざわめきの中、彼女は周囲を見回し綾と呼ばれている女に胡乱な目を向けた。
釣られるように後ろを向いた女の視線が近辺にいる数人の上を通り過ぎる。
すぐ後ろの卓に座る白いシャツに黒縁眼鏡の地味な男、さらに後ろには綾とよく似た流行りのファッションの女。その横の友人らしき女も含め全員がマスクで表情もよくわからない状態だ。
そして確かに皆が綾の方に目を向けてはいるが、誰とも視線がぶつからない。その事実を確認したらしく、女はとりあえず体勢を戻した。
……後頭部を見つめなければ目は合わない。友人女性の言う通り「教室の前方を見ている」だけにしか。表面上は──。
「う、うん。でもぉ」
口を開き掛けた綾に、友人が呆れを隠そうともせずに言葉を被せる。
「ねえ。それってさ、この大学の学生が外でもあんたを追い回してると思ってるの?」
そんなわけないでしょ、と言わんばかりの彼女に、女が思わずといった調子で言い返した。
「学生かどうかはわかんない。だって入口でいちいち学生証のチェックするわけじゃないし、誰でも大学の中には入れるじゃん?」
「そうだとしてもさ。もしかして心当たりでもあるの? ──まさか、また不倫とかじゃないわよね?」
「……」
黙り込んだ綾に、友人女性は頭を振って大きな溜息を吐いた。
「ホント懲りないね、あんたって。他人の男ばっかり欲しがってさ。……今は何があるかわからないし、心配なら警察に相談に行けば?」
「ダメよ! 警察なんて……、バレたらあたしの方が──」
「へえ。あんたでも自分が悪いことしてるって自覚くらいあるんだ。意外~」
辛辣な台詞に、綾は返す言葉もないようだ。
罪悪感はなくとも、流石に自分が世間一般的に悪く見られる側であることくらいは理解しているのか。
「お願い、裕美子! 助けてよ。あたし、どうしたらいい?」
「どう、って。まず別れたら? 全部そこからでしょ?」
真っ当な友人の言葉は綾には響かなかったらしい。
「そ、それは、……今別れたらあたしの負けじゃん!」
「はぁ!? 負け、──あのさ、何言ってるの? それなら不倫してる時点でそもそも負けじゃない? 法的にも完全に奥さんの勝ちでしょ?」
「だってぇ! 現役女子大学生のあたしがただの主婦のオバサンに負けるなんてあり得ない! 向こうが別れたら考えるけどぉ」
往生際悪く、友人の腕を掴んで迫る女。
あるいは「友人」にも達していないのかもしれない。ただ眺めて会話の内容を耳で拾う限りでも、この二人には差があり過ぎる気がした。
この大学の学力水準からして、綾の方が学生の中で多数派なのは間違いないのだろうが。
「でも『何があるか』なんて、……怖いじゃん! どうせ『負け犬オバサン』と思ってたけど、もし何かされたらあたし──」
女の台詞を聞いた瞬間、裕美子の横顔が嫌悪のためか微かに歪んだのが見て取れた。
「……私も聞いた話でしかないの。でも『不倫専門の占い師』がいるんだって。なかなかいいアドバイス貰えるらしいよ。世の中いろんな需要があって、それに合わせた供給もあるってことなのね〜。正直私には理解できないけど。ま、気休め程度に行ってみれば?」
「占い師? 不倫、専門の?」
それでも食い下がられて仕方なさそうに話し出した彼女に、綾は首を捻っている。
「そう。だから口コミだけらしいわ。まあそれはそうだよね。──大々的に宣伝して有名になったりしたら、出入りする人間が『不倫してる』ってバレバレなんだから」
「そんなの、……ホントに大丈夫なの?」
不安そうに尋ねる女に、裕美子がわざとらしく肩を竦めるのが見えた。
「さあ? 信用できないと思ったら行かなきゃいいじゃない。私は『行け』って勧めてるわけじゃないわよ」
友人女性の口調があからさまに投げやりになって来ていた。女はそれに気付いているのか、どうなのか。
「信用、できないんじゃないけど、でも……、評判はいい、のよね?」
「私が小耳にはさんだ限りは、ね」
「占いなんて、──いやもう何でもいいわ! どこ!?」
話を聞かない相手に言葉を尽くす気力も失ったらしく、彼女はスマートフォンを取り出した。
「はい、これ。サークルの後輩の知り合いが行ったらしいから、その子に訊いてもらった」
メッセージのやり取りをしていたのだろう。綾は裕美子から向けられたディスプレイを凝視している。
「駅向こうのメイプルビルディング三階。『Jのかん』?」
「『館』じゃないの? メッセージで要予約、だってさ」
見るからに気の入らない裕美子の様子に腹を立てる余裕もないようで、女は予約を取るためだろうかスマートフォンを操作し始めた。
【2】
カーテンの端を持ち上げて、窓から見下ろした先にはビルの入り口。
街を歩けば必ずすれ違うような、量産型のお洒落女子がやって来たところだった。すぐにその姿は視界から消えて、数分後に入り口ドアの向こうに表れる。
「あの、……占い、ってココでいいの? えっと、ふ、ふり──」
半開きのドアの隙間から、恐る恐るといった風で眼だけで覗き込んだ女、──綾が尋ねた。外と変わらぬ薄闇の室内に投げ掛けられた問いに応える。
「ええ、こちらが『不適切な関係に陥った方々のための|Crystal gazer《水晶占い師》 “J”の館』でございます」
その言葉に安堵の溜息を吐いて、綾がドアを押し開いた。
「あ、あたし十九時に予約したAYAだけど」
「AYAさま。お待ち申し上げておりました。中へどうぞ。申し訳ありませんが、扉を閉めていただけますか?」
感情を窺わせない静かな声で“J”が告げるのを聞いて、女は室内に踏み入って来た。
狭いビルの一室は、入り口正面に位置する窓が暗幕のような黒いカーテンで覆い隠されている。日も暮れ掛けて、たとえ開けていても日差しが入り込むことはなかった。
唯一の明かりは、水晶玉とそれを支える台座だけが載った小さな丸テーブルを真上から照らすスポットライト。
テーブルの向こうには目隠しのパーテーションが置かれている。
「ではこちらにお掛けください。お飲み物は珈琲でよろしいですか?」
指示通りドアを閉めてこちらへ歩を進めた綾は、テーブルの手前の椅子を指し示しながらの“J”の問い掛けに意味が掴めなかったようで目を泳がせた。
「占いは神聖なものです。できれば熱い珈琲で、このドアの向こうからお連れになった邪念を払っていただきたいのです」
「あ、うん、わかった。じゃあコーヒーで」
答えて背もたれのついた木製椅子に腰を下ろした女に無言で頷き、“J”は背後のパーテーションで区切られた奥のスペースに消える。
「お待たせいたしました。どうぞお召し上がりください」
「あ、どうも……」
カップを載せたトレイを手に戻って来た“J”にもごもごと曖昧に呟いて、綾は目の前に置かれたコーヒーカップを手に取り口をつける。熱すぎないように調整した中身を、女が半ば一気に煽った。
その喉が嚥下に動くのを確かめて、“J”はゆっくりと言葉を発する。
「ようやくだ。久しぶりだね」
「え、……?」
声に反射的に顔を上げた女の指から、中身がまだ残ったカップがすり抜けて黒い液体をテーブルにまき散らしながら床に落ちて割れた。
一瞬の間を置き、その身体が傾いで椅子から滑り落ちる。
頭から被った鬱陶しい黒布を剥ぎ取り床に投げ捨てた“J”の姿は、女の目には映っているのか。
「一年半前、葬式で会って挨拶もしたじゃないか。まさか忘れたのか? 河野先生の『身内』の」
そして椅子の脇の床に倒れて体も起こせないまま、綾の唇が小刻みにわなわなと震えるさまを立ったまま冷ややかに見つめた。
とうとう微動だにしなくなった女の身体を、爪先で試すように軽く蹴って生命の有無を確かめる。
「なあ、義兄さん」
女がなんの反応も返さないのを見て取ると、顔だけで振り向きパーテーションの向こうの床に転がっている男に声を掛けた。亡き姉の夫。元、になるのか?
義兄だったこの男が、講師をしていた大学で教え子だった綾と関係を持ち、妻を、……たった一人の大切な姉を二人して苦しめた。
そのくせ河野が『独身』に戻った途端に別れたらしい。
姉が自ら死を選ぶほどに嫌がらせをしておきながら、手に入れたらもう用はないとばかりに不倫相手を捨て去った女。
妻に、──姉に「勝った」からだ。
もう他人のモノではない河野など、付き合い続ける価値を見出せないということだったのだろう。「誰かの夫」という付加価値だけで輝いて見えた男が、手中に収めてみれば突然色褪せてしまったのか。
綾にとって男は、自分の立ち位置を確かめるための手段でしかない。
何も持たない、自慢できない己をよくわかっているからこそ、承認欲求を満たすには「比較対象」が必要不可欠なのだ。「勝った」と思い込むための「負け犬」の存在が。
だからこそ、争う相手のいない男にはもう用がない。
また次の、……今の不倫相手に満足させてもらえばいいのだから。
もともと一コマいくらの非常勤だった河野も、任期が切れてやはり非常勤講師として他大学に移った。
そして両者とも、何事もなかったかのように平然と日々を送っている。
良心の呵責さえ感じないまま生きている。
同級生と連れ立って、何の憂いも罪悪感も見つけられない能天気な表情でノコノコと告別式に表れたこの女。「先生の奥さん」が亡くなったのだから仕方なく、なのは明白だった。
姉に送り付けられた『二人』の画像で見たのと同じ顔を目にした瞬間に決意したのだ。この二人に鉄槌を下すことを。
それからの一年半は準備に費やした。
今日の予約が入った時点で、河野をここに呼び出した。
綾が来る一時間前に。「姉の『遺産』の関係で」とだけ思わせ振りに伝えた“J”に、何ひとつ訊き返すこともなくやって来た現金な男。
姉の『遺産』と呼べるものは一つだけ。
【ごめんね、仁。あなたを置いて行く、弱い私を許さなくていい。──あの頃のまま、あなたと二人きりで支え合って生きていたら、何か違っていたのかな。】
遺書というのも哀しい走り書きのメモ。今も肌身離さず持っている、姉が弟に遺したもの。
スマートフォンの中の、河野と綾が密着した自撮りの『画像』は、単なる記録の一つに過ぎない。
今完遂した計画のための。