少年の声援
すごい時間かかってしまいました〜(>人<;)
ギィィィイアアァアァアアッ
水龍が大声で鳴いた。その声は湖畔いっぱいに響き渡り、皆の体をビリビリと震わせる。他の魔物にない迫力だった。
だが、唯一ひとり、その水龍の恐ろしい姿に興奮する男がいた。
「スゲェ…すげぇスゲェ!!ガラグディアンスだ!!ホントにいやがった!!」
狂気に満ちたジンの笑い声は、ユーリやフレイの心を煽っていく。フレイはガタガタと体を震わせ、水龍の存在に怯えていた。
先程の言い伝えが正しければ、ガラグディアンスは冒険者など容易に戦闘不能にできる程の魔物ということになる。数多くの冒険者を見ているギルドの人達にもその名が知られているフレイさんでさえ、あんなに怯えている。場合によっては、ここにいる全員、命を落とすかもしれないと言うのに。どうしてだ?どうしてこの人はこの状況を喜べる?
ジンは、まるで水龍が現れたことを喜んでいるかのようだった。ユーリはグッと拳を握り、歯を食いしばる。
「なぁんだ、クソガキ。ビビってんのか?この前の礼をしてやってんだぜ?」
「この前の…お礼…?」
「広場の一件、もう忘れちまったか?あ?……この俺に恥をかかせてくれた礼だよ!!」
ジンの言葉に考えるユーリだったが、水龍はそんな時間など与えないかのように、長い尾で水面を叩き、水飛沫をまるで銃弾のように力強くぶつけてくる。大粒の重い飛沫は、アザを作ってもおかしくないほど、体にダメージを与えていく。
こちらの様子を伺っているのか、一定の距離を保っている水龍。ジンは水龍の動きに興奮を覚え、身を震わせていた。
ジンの言うお礼。それは、スピカを助けた一件、大衆の前で突然行われた一対一の戦いのことだった。勝者はユーリであったが、理由はともかく名が知れているジンにとっては屈辱的な結果だった。
「それが……お礼?」
人を喜ばせる事がお礼であると思っていたユーリにとって、ジンの言う事は理解できなかった。要は自分に恥をかかせた仕返し。
パーティー壊滅事件も同様だった。あるパーティーのメンバーと口論になったジンは、後日依頼から帰る途中のパーティーを待ち伏せし襲撃した。ユーリが今朝ギルドに向かう途中、仲睦まじく話していたパーティーから聞いた話はここまでだが、この話を一つとっても、ジンは危険人物といえる。
こんな人に、まともなお礼なんてないってわかってる。わかってるけど、許せない。このためにフレイさんを利用して……あんな扱いをして。
引っ張られた髪を「離して!」と涙ながらに伝えるフレイとそれを力一杯引っ張り、勢いよく離したジン。小さな悲鳴と共にドシャッと地面にぶつかる音が聞こえ、ユーリは怒りが込み上げる。
「……んなの、……ってる」
「あ?」
拳をぎゅっと握りしめて、熱くなる目頭を強く寄せながら睨みつける。許したくないこの男を。
「こんなの、間違ってる!!」
あの時、自分は確かに言った。『もう、スピカちゃんを怖がらせることはしないで下さい』と。確かに、スピカちゃんには手を出していないかもしれない。だけど、他の人ならいいなんて意味でもない。対象が誰か違う人になったということ。……この男には何も伝わっていなかったんだ。
「間違ってるぅう?」
その復唱に、残る2人の男は顔を見合わせてジンに合わせて笑っていたが、横たわるフレイはユーリを見つめた。
「そうだ、間違ってる!……誰かを傷付けて、自分の中でそれが終わったとしても、別の誰かを傷付けていい理由になんてならない!」
笑い声が静まり返る。水龍がピシャリと尾で水を叩き水面を揺らした。
「傷付けられた人の気持ちを考えた事はあるんですかっ……傷付けた時、本当にそれで良かったと思ったんですかっ……家族とか友達とか、街の人たちとか大切な人たちから学んできたものは、そんなものだったんですか!?……絶対にちがう。絶対に、僕たちはそんな事学んでない。……僕たちはそんなに弱い人間じゃないだろう!!」
湖畔に広がったユーリの声。水面を反射し、フワリと反響した。
フレイの宝石のように輝く瞳から、ホロリと大粒の涙が流れる。そして男2人の頭の中ではユーリの言葉が繰り返し響き、ぎゅっと胸を締め付けた。
取り巻きの男たちは仲が良く優しい兄弟だった。
『何を言い出すかと思えば……!』
家族の反対を押し切り、冒険者になる夢を叶えるために2人で冒険都市に出てきた。お金がない2人にとって依頼をこなして収益を得る事はそれ程苦ではなかった。むしろ楽しかった。しばらくして両親から手紙が届き、初めて自分たちを応援してくれて、これとない程2人で喜んだ。
ーーアンタたちは私たちの誇りだよ。体に気をつけて頑張るんだよ。ーー
自分たちの力が誰かの人の役に立つ、自分たちの夢が冒険者になって少しずつ叶い始めていた。
それなのに。
……俺たちは何をしてんだ
そう思い、手に持っていた弓を下に落とした兄、ナイン・ファーブル。俯き足元に広がる水面を見ると、そこには、夢見た冒険者ではない自分の姿が。
「兄ちゃん……俺たちって、間違ってたんか……?」
弟のネスト・ファーブルが兄に問いかけ、ジャブジャブと足元の水をかき分けながら兄の元へ歩み寄る。
どこかで疑問を抱えつつも、信じてくれる家族がいたから前へ進んでいた兄弟。だが、歩みを妨げるこの重い水のように、今の自分たちは前へ進みにくくなっていたのかもしれない。今の自分たちを見た家族は、本当に自分たちを応援してくれるのかと、怖くなってしまった。
「俺は……俺は、間違ってたら怖い」
眉間に皺を寄せた弟ネストは兄ナインに手を伸ばした。それに応えるように、迷う兄の手がそっとネストに向かう。
だが、その時。
「おい、テメェら何をゴチャゴチャ言ってんだ」
バシャンッ
「ネスト……!」
大きな金槌を手にしたジンがネストの胸ぐらを掴んだ。重いはずの水をさらに重く踏みつけ波を作る。ナインの掠れた声が弟の名を呼んだ。血管を浮き立たせたジンは、ネストの胸ぐらを力強く掴みジリジリと持ち上げていく。
苦しげな表情をしたネストを見てハッとしたユーリは、短剣を抜き走り出し、勇気を出したフレイも足に力を入れ立ちあがろうとした。ーーーーその時、水面が細かく波を作り揺れ始めた。
「 無様だな、人間 」
「ーーえっ……?」
声がした途端、突如大きな波と強風が押し寄せ、一同は一気に波に飲み込まれる。
「うわぁっ!」
「きゃっ!」
「に、兄ちゃっ!」
「ネスト!」
「ぐおっ!」
木々もすっぽり入ってしまう高さの波に誰も抗う事はできず。動くことさえも許さぬ激流に、強い遠心力をかけられ流されていく。
く……苦しいっ!
目と口を固く閉じたユーリだったが、うっすら目を開けた先に、赤い水中のなか白く泡立つ線を見つけた。その先には手を握り合った人が2人、目を閉じ口を開けるネストとナインが出した息だった。ユーリは今ある力を振り絞り、必死に流れる兄弟へ手を伸ばして両手で抱き抱えると、水面に向かって力一杯水を蹴った。
「……っぶは!!」
水面に出ると、早くなる拍動を耳に感じながら必死に空気を吸う。力が抜けそうになる腕には気を失った兄弟がいて、髪や衣服が水を含みずっしりと重みを増していた。
「起きてください!起きて!」
2人はピクリともしなかった。このままでは溺れてしまうと考えたユーリは必死に辺りを見渡すが、地面はどこにも見えず、一面真っ赤な湖が広がる。
どこかに安全な場所はないだろうか……
そしてユーリは、波がかかる前のことを思い出し、ハッとした後、目を凝らして辺りを見た。
そういえば、さっきのは誰の声だったんだ?
誰でもないが、確かに人の声が……
ユーリは警戒しながらも、2人を落とさないよう、腕に力を入れる。すると、目の前に柔らかい光の壁が見えた後、3人の体が浮き始め、水から徐々に引き上げられていった。
「なっ……なんだ!?…………フ、フレイさん!」
水面から少し頭を出した木の上に登っていたフレイが、詠唱を唱えながら魔杖を光らせていた。ユーリたちはフレイの魔法によって引き上げられたのだ。
目が合った時に見たフレイの笑顔は逞しく、涙の跡はもうなかった。
「フレイさん……」
フレイの様子に安堵したユーリ。
3人は光でできたドーム型の膜に包まれ水上に浮くが、退避する場所はなく、あたりは真っ赤な湖が荒れ乱れていた。
「フレイさん、そこからどこか陸や避難する場所は見えますか?」
「いえ……探してるのですが、ここから一帯全て緋色で……」
幸いにも、フレイのいるところは安全地帯のようで、波に飲まれる心配はなかった。
だが、この状況からの脱出は困難であり、このままでは街に戻ることも不可能。意識を失った兄弟もこのままでは危なく、ユーリやフレイも濡れた状態でいるのも危険であった。
何か方法はないかと捻り出そうとする2人であったが、一つ何かを思い出す。
「ジンさんは……?」
ユーリは辺りを見渡したが、それらしき者はいなかった。するとフレイは鼻で笑い、拳を強く握る。
「……いいんじゃないでしょうか。このまま……見つからなくても」
「え?」
「ユーリさんのお友達を傷つけて、次はユーリさんを……それに、私だって……、悪いのは全部、あいつなんだから……」
そう言って魔杖を両手で握った。フレイの瞳には憎しみが映るが、それだけではない感情が脳裏によぎっていた。
友達を守るためには、排除したい相手。この男さえいなければ、自分を苦しめる者などいない。友達を傷付ける危険性もない。ーーこの男さえいなければ、フレイはジンに自分のパーティーを壊滅させられずに済むのだ。
「だからっ、あいつなんかーー」
「ーーそれで、フレイさんは救われるんですか?」
「ぇっ…」
フレイの言葉と押し寄せる感情をユーリが妨げた。顔を上げたフレイは眉間に皺を寄せ、どこか苦しそうにも見えていた。そこには、フレイの持つ慈愛の心や仲間を大事にする思いがあったからだった。
うっすらと目を開けたナインとネストはゆっくりと体を少し起こしていた。
「ジンさんがいなくなったら……フレイさんのその気持ちも無くなるんですか?」
「そっ……それは……」
正直フレイにはわからなかった。ジンがいなくなれば、この苦しみから解放される、本当にそうなのだろうか。
「僕は……幼い頃に友達から仲間外れにされたことがあります。確かに、どうして僕だけ?とか、絶対許さない!とか、色々思っていました。でも、その人たちから逃げていても、結局その気持ちは変わらなかったんです」
「……ごめんなさい。そんな話をさせてしまって……」
「えっ!いえいえ!そっ、そうじゃなくて……だからつまり、そういう悲しさとか、許せない気持ちって、その人がそこにいなくなったからって消えないものなんだと思うんです。……それに、いつかきっと分かり合えると思うんです。僕が、そうだったから」
ユーリはふと親友である海のことを思い出した。ユーリを仲間外れにしていた少年の中にいた海だったが、いつしか理解し合えるようになって、今では親友なのだ。
懐かしいその感覚に、じんわりと胸が温かくなった。
「……時間はかかるかもしれない。それでも……フレイさんの思いや気持ちが、憎しみとか恨みになって戻れない場所に行ってしまう前に、ジンさんと向き合って欲しいんです」
「でっ…でも…」
フレイの手が震え出す。
確かに怖い。誰かと向き合うことって。ましてや、自分を脅し、乱暴する人なんて。……だけど、このまま逃げ続けて、怯え続けていてはいけないんだ。……僕は知ってる。向き合った先に待ってるのは今なんかよりも、もっと温かい場所なんだって。
ユーリはそっと光の膜に手を添え、フレイの瞳をしっかりと見た。その後、柔らかくフレイに笑いかけた。
「……大丈夫。僕を信じて下さい。フレイさん」
「っ……!」
ドキッとするフレイ。ユーリの真剣な眼差しがぎゅっと心を射止めた。複雑に心に巻き付いた紐が優しく解けていく。ほんのりとあたたかくなる胸にそっと手を添える。
「助けた後、たくさん引っ叩いて、『ごめんなさい』って言わせましょう!」
「は、はぃ……!」
そう返事をしたフレイはユーリにかけた魔法を急いで解除する。すると、バシャン!と勢いよく湖に落ちたユーリに慌てて「ごめんなさいっ!」と、顔を湖と同じ色に染めたフレイが声をかけると、ユーリは笑って手を振った。
「ありがとうございます!フレイさん!」
また、目を覚ました兄弟と目が合い、ユーリは小さくお辞儀をした。
その後ユーリはくるりと背を向け、真っ赤な湖を見つめた。広大な赤と空の青が目の前に浮かぶ。
おそらく、そこまで遠くに行ってないはず。……だけど、ガラグディアンスが近くにいるかもしれないから注意しないと。
深呼吸して短剣のある腰に手を添えた。だがそこには短剣はなく、そこにあるのは鞘のみ。
……落とした?
どうしよう!と青ざめるユーリ。大きな波が一同を飲み込んだ時に手にしていたため、短剣は流されていたのだ。ユーリにとって宝物同然の短剣。
だが首を横に振り、ジンを探すことを優先した。
無くしちゃったらサイさんに謝らないと……。
半泣きのまま赤い湖に潜り込んだ。
水の中は、木や葉、大きな石が浮かんでいる。また、濁って見えにくいが、古い船や木材、鋼板などが沈んでいた。少なくとも、この湖畔には言い伝え通り多くの人が水龍に挑んでいる事がわかる。
ジンさんはどこだ……?
流れによって前や後ろに押されては引かれて、思い通りに進むことができない。息も続かず、何度も水面を行き来するユーリだが、それでも諦めなかった。
よし!もう一回だ!
ん?あそこは……
「ゴボッ……!」
勢いよく潜り込んで向かった先の激流に巻き込まれ、ぐるぐると縁を描くように深いところまで向かっていく。
「ゴッゴボゴボッ!!(やっ、やばいい!!)」
このままだと、息が!
強い遠心力に抵抗すらできないまま流れて行ったユーリ。当然息は続かず水を何度か飲んでしまう。
やばい……
死んじゃう……
バシャッ
「ブハッ!……ん?」
突然切れた水。下に見えるのは硬そうな床。
「うわぁぁあ!!!」
ドスン
渦に巻き込まれたユーリは、その勢いのまま湖の底へ。不思議なことにそこは水中ではなく、呼吸ができる空間だった。
びしょびしょに濡れた重い体を起こし、その場所を見て口を開ける。
「いってぇ〜……こ……ここは……?」
ヒヤリと冷たい白い石でできた床や柱。壁や天井あたりには真っ赤な激流が流れているが、この空間は音ひとつしていない。動くたびに落ちる水がピチピチと響くだけだった。
こんなところに、どうしてこんなところが……
恐ろしく赤い湖の底にあるこの場所は、まるで水龍によって隠された美しい神殿。ユーリを迎えるように火が灯し出し、誘うように奥へ奥へと赤い光が続いていた。
こっちに来い、ということだろうか。
ユーリは息を飲み、拳で汗を握り、恐る恐る灯された順路へ足を進め始めた。ピシャリと、体から落ちる雫が不気味なほど広く響き渡っていた。