孤独と勲章
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優しい風とともに、草の匂いが鼻に抜ける。
体を包む柔らかい草が頬を撫でた。
瞼の向こう側に温かな光と熱を感じながら、この空間を噛み締める。
ここが天国というものかと、頭の中で感じてそっと笑うが、誠のことかと、そういえばあの化け物はまだいるのではないかと思い、カッと目を見開き急いで顔を上げた。
あれ?いない?
そして前後左右上下、自分の手足を確認し、呆然と辺りを見渡す。
「ここは…?」
情けない声などすぐに消え溶けてなくなるくらい、広大な草原の中に自分がいることに気がつく。
整理できないその頭のまま、立ち上がりゆっくりと歩き出す。
家どころか建物も見えない。車の音や人の声すらしない。あるのは自由に飛び回る蝶と鳥、遠くには川が流れているくらい。
ここはどこだ。
まだ16の少年ーー友里は思うのであった。
川の近くまで歩き、水面を覗き込む。特に変わった様子のない川。そっと手を入れて冷たさを感じる。
夢じゃないことを感じて、改めて周りを見渡した。
海、平祐の存在はなく、ただ自分だけの空間。
咄嗟に、ポケットから携帯電話を取り出し、メッセージを確認する、が。
電源は付かず、暗い画面には自分の顔が虚しく映る。
海や平祐のみならず、そもそも誰かに連絡する手段がなくなった今、どうすれば良いのか。
友里の気力は失われていた。
その時、前方に小さな動く物体を発見する。目を細めてそれを凝視すると、そこには人の姿があった。
人だ!と思い、すぐさまその人のところへ走って向かう。だが、その足はすぐに止まった。
なぜなら、その人の目の前には無数の謎の物体が蠢いていたから。
友里は反射的に体を小さく縮こませ、その様子を見つめた。すると目の前の人ーー男は謎の物体に笑って話しかける。
「こんなところにいたか、ベータスネイク」
ベータスネイクと呼ばれた物体は、その声に応えるように球体のような体を震わせ、みるみるうちに巨大化させてみせた。
その数、ざっと数えても10を超える。まるで蛇のように長い体と相手を怯ませるような輝く鋭い目と牙、奇怪な程に美しい模様。
見たことのない蛇とその大きさに目を見開き息を呑む。
先頭のベータスネイクは、人など簡単に飲み込んでしまえるような大きな口を開け、先陣を切って男に襲いかかって行く。
「危ないっ…!」
勝手に動いた体と咄嗟に出た声。
男は驚いてこちらを向いていた。
すると男は何かを叫んでいたが、それも束の間。
男の顔など見えなぬくらいに大きな影が自分の目の前におちた。
一瞬だった。
見上げてすぐ、視界は空へと切り替わる。耳からは風を切る音が聞こえ、腹から込み上げる熱いものを感じ、気がつけば体は草の上に叩きつけられていた。
「カハッ…!!」
口からこぼれた熱。体の至る所に鋭い痛みを感じた。
骨が折れたのかもしれない。
感じたことの無い痛みの中、ありったけの力で顔を上げるとそこには口を大きく開けたベータスネイクがいた。
死への恐怖を感じ、硬く目を瞑り、出したことの無い大声を出した。
自分は死んだのだと、思った矢先。
ベータスネイクが激しく燃え始め、無数の閃光が纏い出す。
「!?」
何が起こったのか分からなかった。
瞬く間にベータスネイクは崩れていき、草の上でチリチリと火の粉をあげる。
助かったのだろうか。
体の至る所がズキズキと痛む中、遠ざかる意識にただ身を委ねることしかできなかった。
自分の荒げた息の音が小さくなる。
赤い炎が次第に見えなくなってゆく。
「ベータヒール」
優しい声が聞こえた直後、柔らかい光が瞼裏から感じ、その心地よさに眉を下げた。不思議と体の痛みが解けていき、喉の熱が和らいでいく。
呼吸のしやすさを感じた頃、そっと目を開けるとそこには真っ赤に染まった空が広がっていた。
ゆっくり体を起こし、汗ばんだ背中に風が抜けていく。
「よお。起きたか小僧」
背後から声がして振り向く。
「なかなか起きねぇからくたばっちまったんかと思ったぜ」
間近に見るその姿に衝撃を受けた。
この空と同じ色をした髪と髭、黄金色の瞳。鍛えられた大きな体に見たことの無い服装…鎧を纏い、腰には数本の剣が。
漫画やアニメでしか見たことのなかった人の姿。
「こ…は…」
男はただ口を結び、真剣な眼差しでこちらを見つめる。
「こっ…ここはっ…どこなんですか…!」
視界が揺るぎ出して、熱いものが溢れて止まらなかった。
溢れたものはそれだけじゃ無い。
恐怖や混乱、孤独。
込み上げる様々な思いがぶつかっていく。
居たはずの恐怖がもう居ない。
痛いはずなのに。もうどこも痛く無い。
何も無かったかのように、時はすぎる。
それが違う世界にいることを思い知らせる。
すると頭にずっしりと大きな手が乗った。
じわじわとその温もりを感じる。
「小僧、よく聞け」
とめどなく溢れる熱を止める術はなく、その声に導かれるように顔を少し上げる。
「俺はお前さんがどこからきたのかは分からない。…だが、この世界の人間では無いことはわかる。1人でこんなとこに居て、あんな化け物に襲われて、普通で居られる奴なんざそうそう居ない。それが普通だ。……でもな」
男は友里の肩に手を添えた。
「お前さんは、ここで生きていくんだ。その命を止めてはいけねぇ。弱いものは死ぬ。ここはそういうところだ」
突き付けられたその現実に、唇を噛み締める。
両肩に乗る手が、重く感じた。
男は優しく口角を上げ、目元を緩ませた。
「だからお前さんは、弱者を守れ」
思いもよらない言葉に「えっ」と小さく言葉をこぼす。
見上げたその顔には、無数の傷や跡がまるで勲章のように刻まれていた。
どれだけ戦ってきたのか。どれだけの人を守って、どれだけの人を救ってきたのか。そしてどれだけ自分を
傷つけ犠牲にしてきたのか。
それを思えば思うほど、友里の胸は熱く締め付けられていく。
「僕に…それができると、言うんですか?」
締め付けられる胸を掴みながら、恐る恐る尋ねた。
だがそんな気持ちを跳ね返すように、男はしわくちゃな笑顔で言う。
「当たり前だ!」
男の胸には、ベータスネイクとの戦闘前に聞いた友里の勇気ある声が、熱く響いていた。
見知らぬ土地で孤独を感じていた僕にくれた言葉。
その言葉が、"僕"に出会えたきっかけだった。