その2
昭和53年・8月某日。
米子鉄道公安室所属の公安官・恵大介は、急行「美保」のデッキに一人立っていた。
半袖ワイシャツの上から、えんじ色の薄いジャケットを着ており、下は黒の綿パンを履いている。
このときの彼は、早朝の米子駅から湖山駅までの貨物列車の第一種警乗を終え、米子駅に戻ろうとしていた。
「デッキじゃ風も入らねぇし、エンジンはうるせぇし……でも、満席の自由席に、公安官が座るわけにはいかねぇよな」
大介は、シャツのボタン2つを開襟して、パタパタと風を送り込みながら、デッキの扉越しに、満席の客室を見た。
急行「美保」は、福知山駅を6時54分に出発し、13時10分に出雲市駅に到着する、キハ58形車両を使用した、山陰本線の気動車急行である。
人口密集地である京阪神地区を通らないことから、混雑具合は知れているものの、鳥取駅を10時ちょうどに発ち、米子駅には11時41分到着と、午前中に早く移動できることから、地元民にはよく利用されている列車だった。
この日も車内は、鳥取駅から乗車した、夏休みを楽しむ地元の行楽客ですし詰め状態。
公安官である大介が、彼らを差し置いて座席に座るわけにはいかなかった。
「気動車は天王寺のときもよく見たけど、エンジン音がうるさいから好きじゃなかったんだよな。それが今度は、こうして気動車王国の山陰地方に来ることになるとは……」
もともと天王寺鉄道公安室に勤めていた大介が、米子鉄道公安室へと転勤を命じられたのは、約半年前のことだった。
東京のベッドタウン出身の彼にとって、山陰地方での生活は、文化面でも交通面でも、不自由に感じられることが多かった。
「次は新宿中央とかがいいな。せめて立川とか松戸……なるべく東京に近いほうがいい」
大介がぼやいているうちに、急行「美保」は、青谷駅を過ぎ、新緑の山並みの中へと飛び込んでいったとき――。
「……!?」
大介は、デッキ越しに、自由席車両の中央部あたりの座席にいる、少女に注目した。
通路側に一人縮こまって座っており、寝ているふりをしているが、片手で隣に座る老婆のハンドバックを執拗に触れていた。
(間違いない。あれは――)
あることを確信した大介は、デッキから車内に入った。
そして、ゆっくりと歩きながら、さりげなく少女に近づいた。
しばらく少女の様子をうかがっていると、やがて急行「美保」はトンネルが続く区間に突入していく。
と同時に、少女の片手が、素早く老婆のハンドバックを開け、財布を盗ろうとした!
しかし――。
「スリは窃盗罪だよ、お嬢ちゃん!」
大介が、少女の片手をがっちりとつかんでいた。
「……!」
少女は、観念したような表情を見せ、大介の顔を一瞥したあと、なぜか左へと視線を移した。
彼女の視線を追う形で、大介も右に視線をやると――。
「……あなたは?」
大介の右隣には、同じ背丈をした若い男性が立っており、彼と同じく少女の手をがっちりつかんでいた。
短いウルフカットに細い顔立ちで、この暑い中、上下灰色のスーツを着込んでいた
「あんたこそいったい誰だ? 俺は、この列車に警乗している、公安官の和田一だ」
冷たい口調で述べる一に、大介は一瞬気圧された。
が、相手が同業者なら、特に遠慮することはない。
「僕もですよ。米子鉄道公安室の、恵です。第一種警乗の帰りで」
「えっ? これは失礼しました!」
一は、大介もまた公安官であることを知った途端、さっきまでの態度がウソのように、丁寧な口調になった。
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