その1
「ああもう、邪魔くさい! 地方の駅に来て最初の大仕事が、これなんて……」
ある書庫の中で、資料に囲まれていた弥生隆太は、被っていた制帽を放り投げながら、悪態をついた。
ほっそりとした顔に大きな目をしており、くせ毛気味の茶髪をかきむしると、汗の浮かんだ額が露出した。
令和4年・夏。
彼のいる書庫は、壁などに新しさを感じる一方、面積は狭く窓が少ないため熱気がこもってしまっていた。
また、収納されている本や資料は、どれも年季が入って黄ばんでおり、独特な臭気を放っていた。
「弥生くん。仕事も街のことも、文句ばっかり言わないの。これは、新駅舎への引越しのために必要なことよ」
馬喰和子副駅長は、隆太にそう語りかけた。
凛とした女性であり、整った面立ちに澄んだ目、そして長髪をひとまとめにして、制帽をしっかりと被っていた。
ここは、鳥取県のJR米子駅内にある、JR西日本米子支社の建物の一角。
来年の新駅舎移転を控えるこの駅は、今、引越し準備の真っただ中であり、駅員である彼らは、通常業務の合間を縫って、その作業に追われていたのだ。
「副駅長。そうは言っても……うわっ!」
書棚の隅で、バランスを崩した隆太は、直後大量の資料の下敷きとなった。
黄ばんだ資料の束が、時代を感じる強烈なにおいとともに、彼の身体に覆いかぶさる。
「ニオイがすげぇ……って、何ですかこれ」
這い出てきた隆太が、ふとその資料を手に取ると、表紙には『鉄道公安日誌・昭和53年8月』と記載されていた。
ひと月分の日報をまとめたもののようであるが、なぜか、辞書のように分厚い。
「昔の、鉄道公安職員の日誌みたいね」
後ろから隆太をのぞきこみながら、和子は言った。
「鉄道公安職員? 何ですかそれ?」
「それはね――」
首をかしげる隆太に、和子が答えようとしたときだった。
「今でいう、鉄道警察隊みたいなもんだよ」
開けっ放しの書庫の出入口から、男性の声が聞こえた。
二人が振り向くと、そこには、青いツナギを着た老人がいた。
身長は170センチくらいで、華奢な身体つき。暑い時期だというのに、ツナギは半袖ではなく長袖だった。
「掃除のおじさん! ……鉄道警察隊みたいなものって、どういうことですか?」
「今のJRが、まだ国鉄――国の鉄道だった時代、その治安を守っていたのが、鉄道公安職員。通称鉄道公安官だ」
「鉄道……公安官」
隆太は、実感がわかなかった。
大学卒業後、JR西日本に入社して2年。21世紀生まれの彼にとって、国鉄があった昭和時代は、はるかに遠い昔のことだった。
そう考えた瞬間、彼の指は、偶然自分の頭上に降ってきた、その『鉄道公安日誌』のページをめくっていた。
彼は、しばらくそれを読み込んで――。
「副駅長。この日誌がやたら分厚い理由が、わかりましたよ。8月のある日だけ、とても長いんです」
そう言って隆太は、再び日誌に視線を戻して、それを読み始めた。
「弥生くん! それよりも、まずはこの倒れた書棚を片付けるのが……」
和子の大声による指示は、日誌に集中する隆太の耳には、全く入っていなかった。
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