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『大都会のセイレーン』あとがきに代えて

作者: 天野つばめ

 全国の皆様、このたびは『大都会のセイレーン』を手に取っていただきありがとうございます。ありがたいことに皆様からファンレターや取材のメールをいただく機会も増えました。


「なぜ小説家になったのですか?」

「登場人物は実際の人間がモデルですか?」

「受賞の喜びを誰に伝えたいですか?」

「あなたのことが知りたいです」


 多くの方からご質問をいただきました。私、朝海愛は覆面作家ですから皆様にとって好奇心をそそる存在であることは間違いないでしょう。『大都会のセイレーン』が新人賞を受賞した際は、担当編集が何かのニュースサイトのインタビューで話していましたね。朝海愛の小説の原稿は良い香りがすると。その日から、私が絶世の美女だという噂も耳にするようになりました。残念ながら私は普通の人間ですので皆様のご期待に沿えるかどうか分かりませんが、デビュー作の文庫本化という機会をいただいたことですし、『大都会のセイレーン』のあとがきの代わりに、皆様の疑問を解消できたらと思います。


 まず、主人公であるキラのモデルですが、歌手の慧さんです。皆様はどなたかご存じないでしょう。当然です。慧というのは仮名ですから。私が生涯で唯一お慕いしたその方はもう引退されていますから、ここで本当のお名前やイニシャルを書くのは憚られるのです。だからといってAだのXだの適当なアルファベットを宛てるのはあまりにも野暮ですから、『大都会のセイレーン』の主人公・キラのイニシャルであるKに一番イメージに合う漢字を当てます。


 あれは数年前の蒸し暑い熱帯夜のことでした。だらだらとパソコンで作業をしていた私はBGMを探して動画サイトで関連動画を順番に再生していました。その時、偶然慧さんの声に出会ったのです。慧さんの歌に私は心臓の肉に深く楔を打ち込まれるような衝撃を受けたのです。あの日から私の魂には慧さんの名前が彫り込まれています。


 私は慧さんの歌を聴くまで私は何かに強く心を動かされることはありませんでした。映画を見ても、本を読んでも、自分の卒業式でさえ涙を流しませんでした。何かに打ち込んだり、誰かに恋をしたりすることもなかったからでしょうか。今までの人生に大きなイベントというものはありませんでした。そんな無味乾燥な砂漠のような毎日に煌めく雨が降り注いだのです。


 かつてセイレーンが神話の中でその美しい声で多くの船員を魅了したように、私は慧さんの声に心酔しました。船が難破し深海へと沈むように、私はあなたの歌に溺れたのです。船が遭難するように、私は今までの人生そのものを疑うようになったのです。


 音楽が人生を変えるなんてファンタジーだと思っていました。初めて買ったCDが何だったかも覚えていませんし、中学の合唱コンクールで熱くなるクラスメイトを冷え切った目で眺めていました。慧さんの歌は私の今までの価値観を削り取って、ビビッドカラーに染め直したのです。


 慧さんのCDを買ってから、私の生活には音があふれるようになりました。慧さんのロックをアラームに一日が始まり、慧さんのラブソングを口ずさみながら料理をし、慧さんのバラードを聴きながら眠りにつきました。


 生活に色をくださった慧さんにお礼が言いたくて、ファンレターを送りました。けれども、私の本名は美しいものではありません。私はあなたにふさわしい私としてあなたに手紙を送りたかった。私は朝海愛と名乗りました。私の本名のイニシャルがIでしたので、慧さんの曲の歌詞になぞらえて、当時私が一番美しいと感じた名前を名乗りました。


 けれども、人間というものはなんとあさましいものでしょうか。私は慧さんからのお返事をいただきたかった。そこで私はおまじないに頼ることにしたのです。皆様はご存じでしょうか?私が子供の頃に私の地元で有名だったおまじないです。お手紙にローリエのアロマエッセンスを数滴垂らすとお返事が来るという単純なものです。


 大人になって調べてみたのですが、ローリエすなわち月桂樹は古代ギリシアの時代から魔術に使われていたらしいですね。そして、嗅覚というものは聴覚よりもダイレクトに脳に作用するようです。おまじないといえば可愛らしいですが、私はあの日現代の魔女となったのです。


 私は慧さんに執着しています。世の中の可憐な少女たちは愛しているだとか憧れているだとかレースのヴェールに包んだ言い方をするのでしょう。でも、あえて言います。私は慧さんに執着しています。


 人間の三大欲求は食欲・睡眠欲・性欲だと言います。本当にそうでしょうか?それは人間ではなく生物の三大欲求ではないでしょうか?私の考える人間の三大欲求は承認欲求・独占欲求・同化欲求です。私はリビドーのままに慧さんに黒魔術をかけたのです。気持ち悪いと思われたでしょうか?

 

「ぼくも おはなしを かんがえました。あさみせんせい よんでください」

「日本で一番朝海先生の小説を愛しています。私にだけこっそり正体を教えてくれませんか」

「あなたのようになりたいです」


 読者様のプライバシーに配慮し表現は多少変えておりますが、このような内容のお手紙を私もいただきました。私はこれらの感情を気持ち悪いとは一ナノメートルたりとも思いません。


 私も慧さんのようになりたい、慧さんに一人の人間として認識してもらいたい、長い人生の中の一刹那だけでも慧さんの心を独占したい。そのような感情があったのです。ですが、私は私の声が嫌いです。私は生まれ変わったとしてもセイレーンにはなれません。


 私は慧さんのブログの中に、自分との共通点を探すようになりました。そして、慧さんが読書好きであることを知りました。私と慧さんのたったひとつの共通点を見つけた時、天にも昇るような気持ちになりました。私は感動の薄い人間でしたが、エンターテイメントとして小説を読むことは好きだったのです。


 もう皆様、おわかりでしょう。私が小説を書き始めた理由は「慧さんに読んでほしいから」それだけです。慧さんへの手紙がわりの物語は新人賞を受賞しました。私の小説は慧さんに宛てたものですから、返事が欲しくて原稿にローリエのアロマエッセンスを垂らしているのです。


 慧さん、あなたが突然引退してしまった時、私がどんな気持ちだったか分かりますか?突然ブログのすべての記事を削除してしまわれました。あなたは自分のことが嫌いだとおっしゃいましたね。歌う理由がなくなったともおっしゃっていましたね。


 慧さんも色々なものを抱えていらしたのですね。あなたは何を、誰を思って歌っていらしたのでしょう?叶うのならばもう一度あなたの歌が聴きたい。けれども、あなたが歌いたくないというのであれば無理強いはいたしません。ですから、読者の皆様もお願いです。どうか慧さんがどなたであるか詮索するのはおやめください。


 慧さん、あなたが逢いに来てくださるのであれば私は今すぐにでも仮面を外してコンプレックスにまみれた素顔も平々凡々な本名も何もかも全世界に曝け出しても構いません。一言だけでも、読んだと伝えてくださればそれでよいのです。それだけで私の人生は無意味なものでなかったと自信を持てるのです。


 あなたはファンを大切にされる方でした。私はあなたのように、私の物語を楽しみにしてくださる皆様のために書きたいのです。でも、今の私はあなたに届くようにと願いながらでなければ、筆が動かないのです。

 だからどうか、小さなメモ用紙や付箋一枚でもお返事をください。言葉を書くのが億劫でしたら月桂樹の葉をひとひらだけでも構いません。私の呪いを解くことができるのは慧さんだけなのです。



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