4.楓子さんの絶叫2
『ニック、一昨日買いたいって言った……』
母親がパソコン画面から顔を上げて、父親を見る。母親に呼びかけられたからには、父親は刀との対話を中止し、母親の話に答えねばならない。刀よりも母親の方が優先順位は上だ。ここを間違えると父親はしばらく家の中で地獄を味わう。だから父親は決して母親を無視しない。ただ、ニコラスの手入れの時だけは、父親は会話を免除させてもらえている。それだけニコラスに入れ込んでいることを、母親も知っているから。そしてその母親の呆れからくる諦めが、俺の計画の成功確率を上げてくれるのだ。
しかし、刀との楽しい時間を、女のつまらない話で中断させられる父親は本当に気の毒だ。母親だって、あんなどうでもいい話のために、父親の刀との大事な対話を邪魔しなくてもいいだろうに。たかが買い物の話など、対話が終わってからすればいいだけだ。
しかし今の俺は父親を気の毒がってなどいられない。これで父親の手が止まる。俺が手に入れたい刀は父親の手の中なのに。
『楓子の好きにしていいよ』
父親は関心なさそうに、そうとだけ答えて刀の手入れに戻った。その時、キッチンの電気が消えた。村上さんが仕事を終えたのだ。ということは、村上さんは次の仕事に移る。
さてこの女、次にどこへ動く。なんの仕事をする。それ次第によっては今日も俺の計画は実行できず、また先延ばしになるのだ。
『奥様、すみません。今日はこれで失礼します』
村上さんは母親の横に立つとそう言って頭を下げた。
『ああ、そうだったわね。今日の午後は村上さん用事があったのよね』
母親がパソコンの画面から顔を上げて、思い出したように言う。
『ありがとう、ご苦労様』
母親がそう言うと村上さんはエプロンを外して鞄を持って、玄関に向かって行った。母親の視線はパソコン画面に戻った。
チャンスだ。最高のチャンスだ。一人消えた。これでリビングの中は俺以外に二人だけ。今日の俺は運がいい。俺は静かに待つ。そのチャンスを。
父親が手にしていた刀を床に置く。丁度父親の胡坐をかいた左太もも辺りだ。母親は注文手続きにでも入ったのか、パソコン画面に集中している。父親はニコラスを手に取った。そして深呼吸をしてから刀との対話を始める。父親が対話に没入するまで三十秒はかかる。そして周囲に気を配らなくなる状態になるには更にもう数分。
焦るな焦るな、と俺は自分に言い聞かせながら、意味なくゲーム機を弄り続けた。
部屋の中の全員の意識が、父親の横に置かれた刀から外れたと確信を持てた瞬間、俺は一瞬でゲーム機をソファに放り出し、父親の背後から刀を手にとった。そしてそのまま玄関へと続く廊下に飛び出そうとしたが。
『何のつもりだ、翔』
物凄い力で刀を持つ右手の手首を掴まれると同時に、底冷えのするような恐ろしい声が俺の全身を絡めた。背筋に冷たいものが走る。その迫力にチビリそうになりながらも俺は、俺の手首を掴んでいる人物を見る。長身を屈めて、怒りを宿した瞳で俺を睨みつけているのは、ニコラスに没頭しているはずの俺の父親だった。
さすがはフォレスター家トップの実力と言われている父親。ニコラスとの対話中であっても、別の刀が動いたことに気づいていた。
しかしよく考えてみれば六歳の俺が、そう簡単に父親を欺き突破できるはずもないのだ。子供の俺は刀欲しさのあまりに頭が回っていなかった。
『どうしたの?』
状況がわかっていない母親の声がした。リビングから廊下へ出ようとしていた俺のいる場所は、食卓にいる母親からは死角になる。ガタガタと椅子が動いたらしき音がして、壁の陰から母親が顔を出した。
『ひっ!』
俺と父親の姿を見るなり母親は口元に右手を当てて、そんな声を出した。
『お父さん、痛い』
この場を何とか切り抜けたい俺は顔を顰めてそう言ったが、父親の手の力は緩まなかった。これも当たり前だ。
普通の子供なら、今父親が握っている力で握られたら痛いだろう。でも俺は子供とはいえ痣を持つ一族だ。全く痛くない。父親も加減をして掴んでいるし、俺の痛いという抗議も嘘だとばれていた。それでも俺は演技を続ける。このキレる寸前に見える父親から逃れたいのだ。さも痛そうにゆっくりと右手の指を広げて、ポロリと刀を床に落とした。
『ニック! やめて!』
俺の痛いと言う言葉を聞いて、母親は俺の演技に騙されたようだ。しかし父親は力も緩めないし、睨みつけるのもやめない。
『なぜ刀を持ち出そうとした。理由を言ってみろ』
父親は先程同様の恐ろしい声で言った。日頃の父親に対してなら、理由を言ったら持ち出させてくれるのか、と言い返したいところだが今日はそうもいかない。父親の怒り具合からみて、今はそんな軽い会話ができる状況ではない。子供の俺は父親に腕を掴まれパニックになり、現状から逃げるためのみを考えて浅はかな選択をした。俺は演技などするべきではなかった。母親は騙せても父親は騙せない。俺は選択を誤ったことを後悔した。
俺は父親に張り倒されるのを覚悟して、正直に話すしかなかった。
『まず、トーチの力を込めて刀の感触を味わってみる。それからその刀で犬を殺そうと思った』
俺がそう言うと再び母親が『ひっ』という声を上げた。そして泣きそうな顔で震えている。
『犬を殺す?』
父親は尋ね返した。
『前んちの柴犬のタロウ。滅多刺しにしてみてから、俺の力でも首を落とせるか試す』
『楓子さんの絶叫』が室内に響き渡った。
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